失恋のカノン
長くて細い指先がその力強い音楽を奏でているのを知ったあの日から、私はいつだってその指先を眺めていた。彼の指先は思ったより骨ばっていて大きいのに、威圧感は感じない。指先は撫でる様に鍵盤を走らせて、音の粒雨音のように優しく耳に響いた。
私は彼が月曜日だけ音楽室に弾きに来ることを知っている。それも放課後の下校時刻三十分前だ。彼はたまに乱暴にピアノに向き合う時もあり、それは音が乱れてどうしようもなく心配になることがある。
彼はピアノと感情を共有しているのだと感じている。そしてその感情に揺さぶられる自分がいる。楽しいとき、悲しいとき、怒っているとき、彼の小さな感情の粒が鍵盤に叩きつけられその衝撃が私を同じ感情にさせるのだ。
けれど、彼は私のことを知らない。一度も同じクラスになったことのない、話したこともなく、目立つこともないクラスメイトのことなんて一切知らないのだろう。たまにひっそりと、心が痛むが諦めている。私はその感情をのぞき見することしかできないストーカー女なのだから。
知ったのは一年前。酷く悲しそうに、また苛立つように鍵盤を叩く姿を初めて見た。背中を丸めて弾く姿はかすかに震えていた。私は彼のことを知らないけれど、激情に飲まれるようにして奏でる旋律さえも繊細で美しいのだと知った。彼に聞こえないように足音を潜めて隣の教室に入り、しばらく立ち止まり聞いていた。何の曲を弾いているかわからないけれど、ただ彼はやり場のない悲しみを自分で解消するための手段として弾いている。どうか彼がその悲しみを受け入れて、元気になってほしいなと思いながら教室の隅のほうでぼんやりと過ごした。
話しかけることもせずに、なんとなく音楽室の前を通り、彼が弾いていたら少し隣の教室でその音色に耳を傾けていただけである。顔が見えたら、あああの人の選択教科は同じだとか、部活は入っていないんだとか少し話すには物足りない情報を知ることができた。
そんな彼が教室にふらりと入ってきた。彼は一組で、私が八組だからそれなりに距離がある。彼は仲のいい友達などいたのだろうか、とぼんやり思っていると彼と視線が合った。
そして彼はすたすたとこちらに歩いてきた。周りに彼の友人はいないのだろう。休み時間だから好きに各々話しているが、見かけない顔に少し目くばせするように何人かは見ていた。
私は絶対私ではないという何気ない根拠と私だったらどうしようという不安を抱えた。
彼はただ真っ直ぐに寄り道なんてことをせず、ぴったりと私の目の前に来て座っていた私を見下ろした。その目は何の温度も見えなくて、息が詰まりそうだった。それと同時にわかったことがある。私は彼の感情はピアノを通してでしか分からないのだと突きつけられた。彼は静かな声ではっきりと聞いた。
「中丸香音であってる?」
「…はい」
返事をすると、彼は淡々と続けた。
「俺、ピアノやめるんだ」
途端に視界が滲んだ。滲んで思わず両目を閉じると、頬に一筋濡れた感触を感じた。
彼がピアノをやめることで私にはなんの影響もでないはずなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。彼の声は一切の迷いがないようで、その様子は後悔など微塵もしていないようだった。瞼をあけると、さらに思いが溢れてしまった。はらはらと机に水たまりをつくる。クラスメイトは動揺したように一瞬よどめいたが、瞬時に静まり返った。誰もがこの異質な状況の成り行きを見守っているようだった。ただそんなもの気にはならなかった。
「…な、んで」
不服を申すように、理由を聞いた。自分の中で答えを知ってしまっているのにあえてこの言葉を選んだ。
「その理由を話そうと思って来たんだけど、移動しない?」
こう彼は提案をした。初めてまじまじと彼の顔を見たけれど、とっても穏やかでちっとも表情が乱れたりしない。ここでその話をするのも気まずくて、ゆっくり頷いた。
この日、初めて授業をサボった。罪悪感などなく、今日は仕方ないって思えた。
公園のブランコでゆらゆら足を伸ばしたり、曲げたりしてまるで飛ぶことができそうなくらい高くまで漕いだ。二人は黙々とブランコを漕いでいた。ぎぃぎぃと鳴る鉄の錆びた音しか聞こえなかった。涙はもう乾いていた。彼をちらり、と見た。やはり何を考えているかわからない。彼はぼそりと呟いた。
「久々にブランコした」
「私も」
会話が始まったのが合図と言わないばかりに、漕ぐのをやめた。その振り子が落ち着くのを待って、言葉の続きを話した。
「こうやって知らない人に話を聞いてもらおうなんて本当に考えたことがなかった」
心がぎゅ、とわしづかみにされたような苦しさが胸をついた。私は彼の表面のみしか知らない。知らない人、たしかにそうだ。私が一方的に知っているだけの人だ。
「私も、話をすることがあるなんて思わなかった」
「でも、ずっと聞いてたじゃん」
「それでも聞いてるだけで満足してたから」
「へー。変な奴」
私は彼から見たら変な奴だ。はっきり言われ落ち込んだ。
ただ彼の声は沈んでいないことだけがほっとした。
「……どうして教えてくれるの?」
彼は私の顔を見ないで、空を見上げた。「んー-…」と小さく声を漏らす。
「なんとなく」
その声はたしかになんとなくそうな、なんとなくな声色だった。
「…そうなの?」
「うん」
拍子が抜けて、身体のこわばりが緩むのを感じた。
なんとなく。きっと彼なりの言葉ができていないのではないか。
私に話す理由、声をかけてくれる理由その他もろもろ。
「中丸はさ、俺がピアノ弾かなくなったらあんなに泣いてくれるんだな。びっくりしてさ。でも嬉しかったわ」
もう弾かねーと思うけど。
その言葉にまた泣きそうになる。彼は理由を話さないかもしれない。それは無理に聞きだすことではないことを私は知っている。それでも、ピアノを弾いている彼はとても感情に素直でその姿に目が離せなくなったから。
「…わたしは貴方が今嬉しかったかどうかもあんまりわからない。でもピアノに向かって弾いている姿はいつだって自分の感情に正直でそれが音に現れていた。だからあぁ、悲しいことがあったんだとか、嬉しかったんだなとかそういうのがわかってほっとした」
彼は少し身をぎゅっと、固くした。少しだけ瞳は揺れている。唇は固く結んでいる。
私はしっかり彼の瞳を見据えた。
だって彼はきっとこれからピアノを捨てて、自分の感情を向き合うことをやめるかもしれない。それはなんだか嫌だ。
「クラシックのことはよくわからないんだけど、いつも感情に合わせて曲、変えてたでしょ?知ってると思うけど勝手に聞いてたから。それなりにファンだったと思う」
だから、わかることがある。
「ピアノ以外でどうやって感情を吐き出すの。だって」
あんな激情、胸に押し込めていたらしんどくていつの間にか破裂しちゃうんじゃないかって。一度だけ、私以外に彼の演奏を聞きに来た人がいる。その人が来たら演奏が止まった。いつもと違うその様子に好奇心から教室を覗いたことがある。ただその姿に息が止まった。
綺麗な女性と見上げる彼だ。女性は大人びていて、巻髪は緩くまとめている。学生ではない風貌でちらりと見えた左手の薬指にはきらりと光るシルバーリングが。彼は複雑そうな表情を浮かべながらも瞳が恋をしていた。
あぁ、泣きそうだ。また涙が溢れそうになる。
彼は言いたいことが伝わったのか、泣きそうな顔をしていた。諦めたような、どうしようもない表情である。
やっと表情が読めた。感情がわかった。
「うるせえよ、それ以上言うなよ…」
投げやりの言葉を弱弱しく紡ぐ。彼は顔を片手で覆った。
彼にとって私は厄介なファンだったと気づいた。理由は少しの真実とありきたりな嘘で包んで話すつもりだったんだろう。隙間からちらりと光る涙の筋は見ないふりをした。
私は私でなにも考えられなかった。なにもしてあげることができなくてもどかしい。
どう声をかけていいかわからない。隠していたものを暴いてしまってごめんねという罪悪感が渦巻く。それと同時に湧き上がるのは嫉妬だ。幸せな恋を掴んで純粋な彼の心まで離さない。羨ましくて、憎くて、たまらなくなる。
好きなのに、やっと話せたのになんて遠いんだろう。
「馬鹿みたいだ、本当に…」
彼が呟いた言葉で私は苛立ちを感じた。自然に口調がきつくなる。
「その馬鹿みたいな恋で私は貴方のピアノを好きになったよ」
彼は涙で濡れた目をこちらに向けた。置き去りにされた子犬のように心細そうな目をしていた。
「いいなあ、って。こんな情熱的にピアノを弾ける人がいるんだって。全然知らない人だったけど、たまに見かけるときはそんなことないのにピアノを弾くときはなんて感情豊かな人なんだろうって。その音色も好きだった。だから簡単に否定しないでほしい」
私が好きになった人だ。そして彼は知っていたはずだ。
少なからず思われていたってことは。
「私はよく知りもしない貴方のこと、好きだよ」
ほら、貴方は驚かないでしょう。少し、動揺はしているかもしれないけれど。
彼はずっとこちらを見据えていた。一瞬も目を離さずに。
「ごめん」
私は微笑んだ。彼がピアノをやめるといったときから既に失恋していた。
「うん、でもさ、ピアノは弾いてくれてたら嬉しい。だって私ファン一号で、有名になったら超古参として鼻が高いじゃん?」
「うん」
「まあ、考えてみてよ」
二人はブランコから同時に立ち上がった。すっかり陽は落ちていた。
そこから卒業し、大人になったあとも連絡を取ることもなかった。
*
地元の市民ホールは国内でも屈指の音響設備があり、よく音楽やイベントなどが開催されることが多い。久々に帰ってきた地元は多少寂れたが、それでもお祭りが好きな人間性は残っており今日のイベントも完売御礼だったという。一か月前、ポストに入っていた封筒からチケットが二枚同封されていた。転送と押されているハガキだ。
その主催者の名前を見たとき胸が小さく弾けた。
地元の友人を誘うと「いいよ」と帰ってきた。
ホールに入ると、暫くしてから弾幕が上がった。中央に黒く輝くグランドピアノ。
私たちの席は一番中央で全てが見渡しやすい席だった。背筋がピンと伸びた。
隣で友人が「なんか緊張するね」って微笑んでいたが、私の額は汗がかいていた。
主催者であるピアニストの彼が舞台袖からタキシードで出てきて一礼した。あぁ、背が伸びたなとか、表情が柔らかくなったなとか、過去を思い出したりして胸からこみ上げてきた。
彼はマイクで当時より低い声で話し始めた。
どこか懐かしそうに目を細めながら。
「本日はご来場いただきまことにありがとうございます。先日の世界コンクールで入賞できたのも、応援してくださっていた皆さまのおかげだと思います。今回メイン都市以外でこちらのホールで演奏させていただくことも凄く楽しみにしてまいりました。実はここは僕の地元でして、当時、学校の放課後にピアノを弾いていたんですね。その時にずっと聞いてくれていた女の子がいたんですけど、僕がピアノをやめるっていったときにやめないでくれって言ってくれたんですね。なんだか、頭に離れなくて。それで死に物狂いでピアノ弾いていたらいつの間にかプロとして立てるようになったんです。彼女がいなかったらピアノは続けていなかった。今日来ているか分からないんですけど、もし来てくれたらいたら恩返しできるかなって思って一曲選ばさせていただきました。カノン」
彼がピアノと向き合ったときとんでもなく優しく鍵盤と触れあった。一音、一音の粒が大事に紡がれていく。私との過去をいつまでも大事にしてくれているのが嬉しくて涙が流れた。やっぱり、あなたのピアノはこの世で一番素敵だ。今も、昔も。




