「AIの生成物には魂が入っていない」というひとたちの書く作品には、本当に魂とやらが入っているのか?
まず、はじめに「魂」とは何か?
そして、他者の「魂を揺さぶるもの」の正体とは何か?
揺さぶるのだから、答えは「振動」にある。
作品の周波数に、チャンネルが合えば、魂は共振する。
合わなければ、どれほどの叫びでも、何も聴こえてはこない。
(中東での戦争からはチャンネルを外し、WBCを楽しむ人々の魂の周波数)
周波数、波。
波を生み出すのは、動的なものであるが、テンプレ漫才は、メトロノームと変わらない。整いはすれど、思わぬ方向に揺さぶられることもない。動揺の対極に近い場所にあるのが「テンプレ小説」というものだからだ(=チューニング目的での物語の消費)。
なろうでは、AIによる生成物を毛嫌いする人々が一定数いる。
「AIが書くものには、魂が入っていない」と憤りを見せる。
だが、なろう作品の、いったいどこに「魂」が感じられるというのだろうか?
多くのなろう投稿者は「数字のために」、読者に媚びる性質を持つ。自分のことを「底辺作家」などと名乗る連中の多くは、承認欲求の塊に過ぎない。
成功している作家たちも、多くは「読者の嗜好」の先読みとブランディングに長けた、読者のためのファストフードのジェネレーターに過ぎない。
ニーズを外し、「オリジナルの価値観」で、それでもヒットを飛ばす作家は、上澄み中の上澄みである。「魂」の話をするのであれば、そのへん以外は、どこにあるのかも、よく分からない作品(=魂の模造品)ばかりが並ぶ。―― 別に、筆者はそれを否定しているわけではない。
AIの作り出す文章に出てくる不整合と情緒の欠如。
これは、オーダーをしている人間側の「言葉の精度」に原因がある。
多義的な解釈を含む、曖昧なオーダーをしていると、AIは、体裁を整えるためのハルシネーションを起こす。その現象を見て、「AIはまだまだだな」と言っている人間は、逆に自分のオーダーのセンスのなさを疑うべきである。
AIが作り出す文章の多くは、すでに一般人のそれを凌駕し始めている。使う人間が使えば、ひとを揺らすことの出来る文章も、AIは生成する。
カギは「プロンプトの精度」にある。
これさえ、しっかりとしていれば、魂を揺らすことが可能な物語の生成も、そこまで難しい話ではない。
―― AIによる物語の生成は、小説家としてのそれよりも、設計者や編集者としての技量が問われる。この設計に呪術的な要素を込めるのが「魂を入れる」という作業となる。
◇
「魂を揺らす生成物」に関していえば、言語生成よりも、音楽生成の方が、さらに手っ取り早い。音には、もともと「振動」があり、こちらの方がより直接的に、人間の心を揺らしにかかる。
下手な人間の朗読よりも、AIによる自動音声の方が、すでに心地よくもなり始めている。
「人間至上主義者」たちは、人間が作品を生み出す際の「苦労というドラマ」も込みで、作品を評価したがる傾向にある。「努力をしたから偉い」「努力は絶対に報われるべきだ」とでも考えているのかもしれないが、「努力しているのだから認めろよ」までくると、本末転倒も甚だしい。
「作品で勝負する」
ただそれだけで十分ではないのだろうか?
たとえ、その競争に敗れたからといって、相手がAIだったら、けなしてもいいというものでもないだろうに。
不平不満の多い人間は、おそらく欲望の塊なのだろう。
そんな人間たちの恨みつらみなどが、心底鬱陶しいから、AIとの対話を好む若者も増えてきているのだろう。
魂論者たちは、そのへんの毒についても、もう少し真面目に考えるべきである。「人間=AIよりも絶対的に尊い」と考えている時点で、宗教と何ら変わらない。
もう少し、すべてを疑った方がいい。
特に、自分自身については、常に。




