第4話「ヒビキと美鈴」
週末の夜の「遊&愛」。
ヒビキは、カウンターの端に座り、拓也を待っていた。
ここ最近、拓也は仕事が立て込んでいるらしく、来る時間が遅い。
グラスの中の氷が溶けていくのを眺めながら、その時間が妙に長く感じられた。
以前なら、こんなことはなかった。
――変わったのは、あの夜からだ。
自分でも、はっきりと言葉にできない違和感が、胸の奥に残っている。
マリは、そんなヒビキの様子を横目に見ながら、グラスを拭いていた。
可愛いな。と思いながら、少しだけ口元を緩める。
そんな時、来店チャイムが鳴る。
ヒビキは反射的に顔を上げる。
黒髪に、白いブラウス。
静かな佇まいの女性。
店に入ってきたのは、美鈴だった。
目が合う。彼女は軽く会釈をする。
ヒビキも同じように返したが、無意識に目を逸らしてしまう。
美鈴は、ヒビキの隣に座った。
「ヒビキさん、先日はありがとうございました」
「私……慣れてなくて。いろいろと気を使わせてしまって、ごめんなさい」
「……え、全然いいよ。そんなの」
「私こそ、先に帰っちゃって……ごめん。あの後、楽しめた?」
美鈴は、小さく頷いた。
短い沈黙が落ちる。
ヒビキは、グラスを指先で回しながら、ゆっくりと口を開いた。
「……あのさ……美鈴さんって、イシちゃんとは……どういう関係なの」
少しだけ間を置く。
「……好き……なの? 彼のこと」
「……えっ……私……」
美鈴は少し驚いた表情をし、目を伏せた。
「……好き……だったわ。彼のこと」
静かに答えた。
「けど、今は私、夫がいるから……」
「彼とは遊びじゃないといけないって、わかってる」
ヒビキは、黙って聞いている。
「……それでもね」
「今日私が来たのは、彼と会いたかったから」
顔を上げる。
「ずっと、忘れられなかったの。彼のこと」
美鈴は、ヒビキにまっすぐ視線を向けた。
「……ヒビキさん」
「あなた。彼のこと、好きなのね」
ヒビキは、はっとした。
「……え……私……」
美鈴は、やわらかく微笑む。
「安心して」
「私、あなたから彼のこと、奪ったりはしない」
美鈴は、一呼吸おいた。
「……ただ……一つだけお願いがあるの」
ヒビキは、美鈴を見つめる。
「……何?」
「……今日は、彼と二人にさせてちょうだい」
「忘れる時間が欲しいの。彼のこと」
ヒビキは少し黙ったまま、グラスに目を落とした。
氷が、かすかに音を立てた。
やがて、小さく息を吐く。
「……わかった」
「ヒビキさん、ありがとう」
二人が話し終わったころ、来店チャイムが鳴る。
拓也が入ってきた。
「あれ……二人で話してんの」
「そうなの。イシちゃん、なかなか来ないから」
美鈴は、そう言って、間の席を空けた。
そこに拓也が座る。
「イシちゃん、お仕事おつかれ」
ヒビキが声をかけた。
いつになく優しい声。
「あ……ありがと」
三人は乾杯する。
そのあとは、他愛ない会話。
美鈴が、最近読んだ小説の話をしている。
相変わらず本が好きみたいだな。と、拓也は話を聞きながら微笑んだ。
話しているうち、拓也はヒビキのいつもと違う様子を感じていた。
明るく笑顔で話しているが、なんとなく落ち着かないというか、時折みせる寂しげな表情が気になった。
「あのさ、ヒビキ」
「今日、どうしたの」
「……え、何が」
「いつもと変わんないよ」
「……いや、ちょっと」
「……悩み事とかありそう、っていうか」
「いや、大丈夫だけど」
「そっか」
そんな様子を、美鈴は見ていた。
——やっぱり、拓也くんもヒビキさんのこと……。
夜が更けてくる。
頃合いを見て、美鈴は拓也に声をかけた。
「あの……イシちゃん。そろそろ……奥、行かない?」
拓也は、美鈴から誘われたことに、少し驚いた。
「あ……そろそろ、いいかな」
「ヒビキ、行く?」
「あ……あたし……」
「……今日は、いいわ。二人で楽しんできなよ」
ヒビキは、拓也と美鈴の顔を見ずに、そう言った。
「え……いいのか?」
「うん、今日は……いい」
明らかに、今日のヒビキの様子はおかしいと思った。
しかし、美鈴もいる。誘ったのは彼女だ。
「それじゃ……美鈴さん、行こうか」
「はい」
美鈴は、拓也の後ろを歩きながら、ヒビキのほうを見る。
ヒビキが顔を上げ、美鈴と目が合った。
——ありがとう。
美鈴は、目で合図する。
ヒビキは、わずかに頷いた。
二人がシャワールームに消えたあと、ヒビキは静かに俯く。
マリが、声をかけた。
「ヒビキちゃん……」
「そんなにイシちゃんのこと、好きだったんだ」
ヒビキは、こくりと頷いた。
「……なんか、飲む?」
「……水割り」
「……濃いの、ちょうだい」
声が掠れていた。
マリがグラスを置くと、ヒビキは一気に半分近く飲み干す。
涙が、カウンターの表面にぽつぽつと落ちて、ゆっくり広がっていった。
——シャワールーム。
拓也と美鈴は、水飛沫を浴びながら、唇を重ねていた。
言葉はない。
ただ、お互いを求め合っていた。
シャワーの熱とともに、お互いの火照りが強くなっていく。
二人は、シャワーを止め、プレイルームに入る。
倒れ込むように、マットレスで折り重なった。
「あぁ……拓也くん……」
拓也の指と舌先が、美鈴の肌をなぞる。
美鈴は、答えるように拓也の耳元に唇を重ね、吐息を漏らす。
拓也の動きが激しくなるとともに、美鈴の吐息は嗚咽のように激しくなっていく。
二人は、そのまま昇りつめていった。
——過去の時間を、埋めるように。
「ヒビキちゃん、もうそれくらいにしたほうがいいよ」
「いやぁあともひとつちょおらい……こぃぃやつ」
マリは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたヒビキに、水とおしぼりを渡す。
ヒビキは、涙をぬぐって、水を一気に飲み干した。
「イシちゃあん……わたぁし……」
ヒビキは、カウンターに突っ伏した。
マリは、呆れ顔で微笑んだ。
——静けさが戻った、プレイルーム。
拓也と美鈴は、寄り添って横になっていた。
「あのね……拓也くん」
美鈴が、ゆっくりと話し始める。
「私……初めては、夫だったの」
「……本当は、拓也くんにあげるつもりだったのにな」
拓也は、突然の美鈴の告白に、赤面した。
「え……ごめん……」
「ううん、いいわ」
「私……あなたとまた会えたおかげで、いろいろなものを取り戻せた気がするの」
「美鈴さん……俺もだよ」
「でも……」
「でも?」
「このままじゃ、いけないとも思ってる……あなたから、離れられなくなりそうで」
美鈴は拓也を見つめる。
拓也は、次の言葉が出てこなかった。
「私、もう一度夫と向きあってみようと思うの」
「ちゃんと、あの人のところに戻ろうと思う」
拓也は、静かに頷いた。
「で……拓也くん」
「ん?」
「ヒビキちゃん、あなたのことが好きよ」
拓也は、目を丸くする。
「え……」
「あなたも、ヒビキちゃんのこと気になるんでしょ」
「彼女のこと、ちゃんと見てあげて」
拓也は言葉を失った。
胸の奥で、複雑な感情が渦を巻く。
美鈴の温もりを感じながら、カウンターに残してきたヒビキの姿が頭をよぎる。
自分は、結局、どちらもちゃんと抱きしめられていない。
その事実に、罪悪感を覚えた。
美鈴は、そんな拓也の様子を、少しだけ寂しそうに見つめていた。
そして、ほんのわずかに視線を落とす。
「ただ……今日だけは。私、あなたと一緒にいたい」
「忘れさせてほしいの、あなたのこと」
二人は、抱き合った。
美鈴から、唇を重ねる。
涙が、流れていた。
――朝が近づいてきた頃。
二人はカウンターに戻ってきた。
ヒビキが、カウンターに突っ伏して眠っている。
マリが、戻ってきた二人に声をかけた。
「あ、イシちゃん、美鈴さん」
「……ヒビキちゃん、こんな感じだから介抱しとくわ。任せといて」
「……マリちゃん、ありがとな」
拓也は、ヒビキの耳元で、ささやく。
「ヒビキ、またな」
「……イシちゃん……すきだよぉ……」
ヒビキの寝言に、拓也は赤面しつつ、微笑んだ。
拓也と美鈴は、店を出た。
東の空が、もう明るい。
途中まで、同じ方向に歩いた。
「……じゃ、ここで」
美鈴が、駅に向かう交差点で、言った。
「拓也くん、私……あなたに会えて……」
涙が、滲んでいる。
言い終わる前に、美鈴は、拓也に抱きついた。
「……よかった……」
二人は、最後のキスをして、離れた。
「拓也くん……またね」
美鈴は、微笑みながら、言った。
あの時と同じように、涙を溢れさせながら。
美鈴は、振り返らなかった。
拓也は、その背中を見送る。
朝の光の中へ、彼女の姿は溶けていった。




