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いつもの朝帰り  作者: yoshinoya ussie


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第2話「あの頃の記憶」

 美鈴とは、連絡先は交換しなかった。


「また、ここで会いましょう」


 別れ際、彼女はそう言った。

 それだけで、十分だった。


 空はもう、すっかり明るくなっていた。

 いつもと同じ道を歩き、いつもと同じように家に帰る。


 ポストに、封筒が一通入っていた。

 差出人の名前を見て、足が止まる。


 ――相川 智美。


 元の姓。

 妻の名前だった。


 玄関の鍵を開け、部屋に入る。

 誰もいない空間。

 

 キッチンに立ち、いつものように濃いめのコーヒーを淹れる。 

 カップを持ったまま寝室へ入ると、ベッドに腰を下ろし、封筒を開けた。


 中に入っていたのは、離婚届だった。

 すでに、妻の名前と住所が書かれている。


 その上に、指輪。

 そして、短い手紙が一枚。


 ――二年間、離れてみたけれど、気持ちはもう変わらないと思う。別れましょう。


 それだけだった。


 拓也は、その一文を読み終えると、封筒の中身を元に戻した。

 ベッドサイドの引き出しを開け、静かにしまう。


 今は、あまり考えたくなかった。


 コーヒーを飲み干す。

 少し冷めていて、苦味だけが残った。


 そのままベッドに横になる。


 眠れるはずだった。

 いつも通り、朝帰りのあとは何も考えずに眠れるはずなのに、目が冴えている。


 目を閉じると、昨夜のことが、断片的に浮かんでくる。


 店の空気。

 美鈴の声。

 あの時の表情。


 そして――


 ふと、別の記憶が混じった。


 女心は、よくわからない。


 拓也が、初めてそう思ったのは――

 あの子と出会ったときだった。


 中学二年の春。

 同じクラスになった。


 蔵本 美鈴。


 彼女は、目立たない女の子だった。


 肩までの髪に、度の強そうな眼鏡。

 朝は誰よりも早く教室に来て、窓際の席で本を読んでいる。

 友達と話しているところは、あまり見たことがなかった。


 拓也は、なんとなくその姿が気になっていた。


 ある日、少し早く学校に来てみた。

 教室には、美鈴しかいなかった。


 窓際の席。

 いつもと同じように、本を読んでいる。


 静かな朝の教室。

 拓也は、彼女の前の席に座った。


「おはよ……」


 声をかけると、美鈴は顔を上げた。

 少し驚いたように、目を丸くする。


「……おはよう」


 短く返す声。

 少し間があって、拓也は言葉を続けた。


「あの、いつも本読んでるじゃん。本、好きなの」


「うん」


 それだけだった。

 けれど、少しだけ口元が緩んだように見えた。


「それ、どんな話なの」


 拓也が本を指さすと、美鈴はページに目を落とした。


「……『若草物語』」


 それから、美鈴はぽつりぽつりと話し始めた。


 四姉妹の話。

 それぞれの性格。

 どんな出来事があって、どう変わっていくのか。


 言葉は多くないが、途切れずに続いた。

 少しだけ早口で。


 拓也は、それを聞いていた。楽しかった。

 話している美鈴が、少しだけ嬉しそうに見えたから。


 それから、毎朝話すようになった。


 昼休みも、図書室で過ごすことが増えた。

 図書委員の美鈴は、よくそこにいた。

 拓也は、彼女の話すストーリーをずっと聞いていた。


 付き合っているわけではない。

 ただ、同じ場所にいる時間が増えただけだった。

 それでも、楽しかった。


 ――夏休み。


 図書室が開放されている日。

 窓から入る光が強く、机の上に白く広がっていた。


 美鈴は本を読んでいる。

 拓也は、隣で宿題をしていた。


「ここ、わかんないんだけど」


 ノートを見せると、美鈴は椅子を少し寄せた。

 

「ここの方程式はね……」


「あ、なるほど」


 美鈴は、楽しそうに拓也の顔を見て、微笑んだ。


 帰り際。


 美鈴が、小さな声で言った。


「あの……明日、うち親いないの」


 少し間を置いて、続ける。


「宿題、しにこない」


「うん、いいよ」


 その意味を、深く考えることはなかった。


 ――翌日。

 教えてもらった住所へ向かう。


 落ち着いた住宅街。

 少し大きめの一軒家だった。

 インターホンを押すと、美鈴が出てきた。


「いらっしゃい」


 昨日よりも、少しだけ柔らかい表情だった。


 美鈴の部屋は、きれいに片付いていた。

 本棚には、参考書と一緒にいろいろな本が並んでいる。

 少し大人向けの、恋愛小説もあった。


 二人でテーブルに向かい、宿題を始める。


 隣同士。

 距離が近い。


 指先がノートをなぞる。

 顔が、すぐ横にあった。


 首筋が、近い。

 ふと、目を向ける。


 いつもより薄着の服。

 髪も、少しだけラフに見えた。

 学校とは、少し違う。


 拓也は、なんとなく落ち着かなかった。

 ペンを持つ手が、少しだけぎこちなくなる。


「ここはね……」


 美鈴が、また近づく。

 顔が、すぐ近くにある。

 呼吸が触れそうな距離。


「あの……蔵本さん」


 名前を呼ぶと、美鈴がこちらを向いた。


 目が合う。


 そのまま、少しだけ動かなくなる。


 拓也は、何も考えずに――

 唇を重ねていた。


 美鈴は、驚いたように目を開けていた。

 けれど、少しして、ゆっくり閉じた。


 抱き寄せる。

 そのまま、押し倒す。

 体が重なる。


 柔らかい感触。

 鼓動が早くなる。


 その時、美鈴の声が、小さく聞こえた。


「拓也くんだったら……いいよ」


 今思えば、いろいろな本に影響を受けた彼女は、早熟だったのかもしれない。

 しかし、拓也は、そこから何をすればいいのか、わからなかった。


 ただ、いけないことをしている気がして。

 急に怖くなった。


 体を離す。

 距離を取る。


「あの……ごめん」


 それだけ言った。


 沈黙が続いた。


 美鈴は、横になったままだった。

 天井を見ている。

 目は開いたまま。


 涙だけが、静かに流れていた。


 その日から、拓也は美鈴と話さなくなった。

 気まずさだけが残り、避けていた。


 そのまま三年になり、クラスは別れた。


 美鈴は、また窓際で本を読んでいた。

 前と同じように、一人で。


 ――そして、卒業の日。


 式が終わったあと、校庭は、別れを惜しむ卒業生で騒がしかった。

 女子にボタンを取られている男子もいた。


 拓也には、そういうことはなかった。

 そろそろ帰ろうかと思ったとき。


「拓也くん……」


 小さい声がした。

 振り向くと、美鈴がいた。


 少しだけ、緊張した顔。


「あの……ボタン……もらえるかな」


「え……、いいけど」


 第二ボタンを外して、渡す。


「ありがとう」


 美鈴は笑った。

 けれど、目には涙が溢れていた。


「拓也くん、またね」


 そのまま、走っていく。

 振り返らなかった。


 それきり、会うことはなかった。


 ――そう、昨夜までは。

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