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いつもの朝帰り  作者: yoshinoya ussie


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第1話「本当のハプニング」

 週末の梅田・堂山町。

 飲み歩く人々と客引きの声の喧騒に包まれた阪急東通を足早に通り抜け、大石 拓也 (おおいし・たくや)はいつもの階段を降りた。


 地下にあるハプニングバー「遊&愛」。

 ドアを開けると、かすかにスパイスのような香りと、低く落とされた照明の温度が、いつもの夜を告げてくる。


「いらっしゃい、イシちゃん」


 入り口で笑顔で出迎えたのは、店員のマリ。

 色気はあるが、どこか落ち着いた上品な雰囲気をまとった女性。

 薄いピンクのトップスに、肩までの髪を軽く巻いている。


「そいやヒビキちゃん来てたけど、もう帰ったよ」

「今日シフトの子休んじゃったんだって。バイト行ったわ」


「なんでそんな事知ってんのさ」


「イシちゃん、きっと私のこと待ってるから……教えてあげて……、だって」

 マリがヒビキの声真似をする。


「待ってねえし……」


 いつもの席に腰を下ろし、氷を転がすようにウイスキーを口に含んだ。


 拓也は、32歳のWebデザイナー。

 妻はいるが、ここ2年は別居中。

 実質独り身の彼は、毎週末こうして“いつもの夜”を過ごすのが習慣になっていた。


 ハプニングバーと聞けば、足を踏み入れた瞬間に欲望が渦巻いているような想像をするかもしれないが、現実は違う。カップルや単独客が思い思いの時間を過ごす、ただ少しだけ「自由」な大人の遊び場だ。

 奥には行為ができるプレイルームが完備されているものの、カウンターで飲んでいる限り、普段はドラマチックなハプニングなどそうそう起こらない。


 マリとは、映画の配信の話をしたり、どうでもいい世間話をしたり。

 この空間は、拓也にとって「喋っても黙ってもいい」心地よい場所だった。


「でさ、あの映画のラストシーンなんだけど……」


「いや、あれは絶対主人公の夢オチだって。イシちゃん、見方が甘いよ」


 そんな話をしていると、来店チャイムが鳴った。

 マリが入り口まで行き、ドアの鍵を開けて客を出迎える。


 入り口のほうに振り向くと、一人の女性が戸惑ったように立っている。

 紺色のコートに、職場帰りのような白いブラウス。怯えるような感じで店内を見回すその姿は、遠目にも緊張しているのが一目でわかった。


「初めての方ですか? 説明しますね」


 マリが柔らかい声で案内し、店内のルールを説明していく。

 女性はこくこくと頷き、促されるまま、拓也の二つ隣の席に腰を下ろした。


 横顔をちらりと見る。

 年は自分と同じくらいか。

 大人しい雰囲気だが、どこか品のある仕草が目を引く。

 落ち着かない雰囲気の彼女に、拓也は少し近づき、話しかけた。


「緊張しますよね。俺も最初そうでしたから」


 拓也が声をかけると、女性は少し驚いたように目を丸くした。


「あ、はい……すみません、こういうお店、ほんとに初めてで」


「ですよね。俺も、嫁さんに逃げられてから入り浸ってるだけなんで」

「ここは好きに過ごしていい場所ですよ」


 軽く笑って言うと、女性の肩の力が抜けたのがわかった。


「はい、ありがとうございます」


 拓也の柔らかい語り口に気を許したのか、女性は身の上話を少しずつ話しはじめた。


「……私、夫がいるんですけど」


 少し口ごもってから、続けた。


「全然……夜がなくて」


 銀行勤務で、夫は商社。

 結婚相談所で知り合ったこと。

 夫は真面目で誠実だが、出張が多く、家にいても疲れていて、求めてくれないこと。


「夫のことは本当に好きなんです」

「で、最初は我慢してたんですけど……だんだん、寂しくなって」

「一人で……動画とかを見るようになって、するようになって」


 自分で言いながら恥ずかしくなったのか、女性は視線を落とした。


「この店のことも、SNSのどこかで見て……」

「こういう場所があるって知って……私でも、他の男の人と……できるのかなって」

「最初は来るつもりなんてなかったんですけど……」


 とぎれとぎれの声。

 その“迷い”や“背徳感”が、かえって切実だった。

 いたたまれなくなった拓也は、緊張を解きほぐそうとする。


「無理に何かしなくてもいいんですよ。ここ、自由だから」


「……でも」


「でも?」


「……せっかく来たからには、誰かと……してみたい、です」


 言葉にした瞬間、彼女の指先がわずかに震えた。


 恥じらいで頬を染めながらも、彼女の瞳には確かな熱が宿っていた。

 その切実な思いに、拓也はそっと頷く。


「それじゃ……俺でよければ、行きますか?」

「嫌だったら、いつでもやめましょう」


 女性は一瞬だけ迷ったが、小さく「はい」と返した。


 拓也は、マリに声をかけてロッカールームの鍵を受け取り、店の奥へと進む。

 この鍵は、カップルか単独女性のみが受け取れるのが店のルールである。


 ロッカールームを抜け、二人はシャワールームに入った。

 女性は恥じらいながらも、髪をくくり、衣服を脱ぐ。

 年相応の柔らかいライン。白い肌が照明にほのかに浮かんだ。


 タイルに水音が静かに響く。


「緊張してます?」


「……当たり前ですよ」


 苦笑しながら答える女性の首筋から、湯気がふわりと立ちのぼる。

 シャワーの水滴が肩を伝い、鎖骨のあたりで光った。


 拓也はやさしく彼女の背中に手を添え、そっと唇を触れさせる。

 女性は驚きつつも、ゆっくりと目を閉じた。


 シャワーの飛沫を浴びながら、彼女の震える唇を塞ぐ。

 深く息を吸い込むような、熱いキスだった。


 プレイルームの扉を開くと、温度がわずかに上がり、甘い湿気が空気に混じる。

 中では、薄暗い照明の中、二組のカップルがすでに行為に及んでいた。

 生々しい水音と、抑えきれない吐息が部屋に充満している。


 女性はその光景を見た途端、頬を赤く染め、拓也の腕にしがみつく。

 拓也は、震える肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。


「大丈夫ですか?無理だったら、出ますけど」


「……いえ、大丈夫です」


 拓也は、ゆっくり女性をマットレスに座らせ、バスローブをはだけさせる。

 女性はちらりと他のカップルの様子に目をやると、拓也を見つめ、潤んだ瞳で懇願するように言った。


 「私も……あんなふうに……してください」


 その声は震えていたが、確かな欲望を含んでいた。


 拓也は女性の腰に手を添え、そっと押し倒した。

 息を呑む音。

 指先が絡む。

 深いキス。

 触れられるたび、女性は抑えていたものを解き放つように声を漏らした。


 行為は、想像よりずっと激しかった。

 女性が求めれば求めるほど、拓也は応じた。

 しだいに、彼女は声を抑えることも忘れて快楽に身を委ねていた。


 幾度か果てたあとの余韻。二人は汗ばんだ体を寄せ合いながら、ソファの上に身を預けた。


「……はじめてです、こんなの」


「疲れたでしょ。拭きますね」


 拓也はタオルを取り、抱き寄せながら女性の汗と体液を優しく拭った。


「あの……もう少し、このままで……いいですか」


「いいですよ」


 マットレスに移り、二人は寄り添うように横になった。

 他のカップルはいつの間にか帰ったようだ。

 遠くで誰かの笑い声が聞こえる。

 薄暗い部屋の中で、二人の呼吸だけが静かに続いた。


 早朝。

 閉店時間が近づき、店内の照明が少し明るくなった。

 二人は、シャワーを浴びたあとロッカールームで身支度をする。


「今日は、ありがとうございました」


「楽しめました?」


「……はい。また来たいです」


 拓也と女性は、一緒に階段を上がる。

 地上に出ると、冷たい空気が頬を刺した。

 東の空が、わずかに白み始めている。


 二人で並んで歩いていたとき、女性が小さくつぶやいた。


「あの……」

「……名前、聞いてもいいですか」


 拓也は一瞬だけ迷ってから、「イシちゃん」と言いかけて──やめた。


「……拓也です」


 その瞬間、彼女はピタリと足を止めた。

 少しの沈黙。


 彼女は、振り向いた拓也を見つめる。

 そして、大きく目を見開きながら言った。


「……あなた、もしかして……大石、拓也くん?」


 予想外に本名を呼ばれ、拓也は狼狽した。


 足を止め、目の前の女性をまじまじと見つめ返す。

 夜の暗がりや欲望の熱に隠されていた彼女の姿が、朝の光の中で鮮明になる。

 その時、記憶の奥底から、ある名前が浮かび上がった。


「君……もしかして、蔵本さん?」


「そう。実は、あなたの横顔を見たとき、少しそんな気がしたの」

「まさか……と思ったけど」


 ふと吹き抜ける早朝の風。


 息が止まりそうだった。

 目の前にいる、昨夜激しく体を重ね合い、共に朝を迎えたこの女性は。


 ──中学の頃、ずっと想いを寄せていた、蔵本 美鈴 (くらもと・みすず)だった。

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