隙間女 前編
前中後編の見込みです
所長の折戸巴と名乗った男は、予想よりも若く、目付きは鋭いが全体的には穏やかそうな顔をしていた。一方で茶やらアンケート用紙やらボールペンやらを持ってきた恐らくアシスタントの男は、青年とも少年ともつかぬ年恰好の美丈夫で、古ぼけたビルから乖離して見えた。
「えーっと、桃花台時志さん、ご職業はミュージシャンと……あの、お手数なんですけどぉ、住所んとこも書いてもらっていいですか?」
ブラインドから差し込む逆光が眩しくて、折戸の表情がよく見えない。
「あー、昨日まで住んでた女の家、追い出されて。慌ててアパート契約したんすけど、入居できるのが週明けなんすよね。しばらくネカフェか友達んちハシゴする予定です」
「ははは、ロックなお客様だ」
折戸は苦笑を浮かべつつ用紙の住所欄にすらすらと「住所不定」と書き足してから、紙面に視線を滑らせ、顔を上げた。
「ストーカー被害、とありますけど……警察に相談しなかったのは何故です?」
「最初のうちに警察には相談して、被害届も出しました。……ファンの、女子高生の子だったから、出禁にもして、その子の親と、弁護士挟んで、お互い接見? 接近? しない念書と、手切れ金というか慰謝料というか……そういうのを貰って示談にしたのが今月の頭……だったかな? 先月末かも。とにかくその辺りでした。そうそう、その時の金のお陰でアパート借りれたんですよ」
「接見禁止の念書を取っているなら、弁護士か親御さんと連絡を取ればいいと思いますが」
返ってくるのは正論だ。被害届も取り下げていない。念書も楽譜と一緒にクリアファイルに突っ込んで保管している。
普通ならば、法的に手続きを取れば終わる話。
普通ならば。
「そう、ですよね……」
「できない理由があるんですね?」
重ねての質問に、喉がひくついた。そう訊かれたかったのに、自分に起きた出来事を話したかったはずなのに、話そうとすると、口の中が干からびていく。
「……に」
「え?」
声が掠れて自分でも何の音を出したのか分からない。温度も確かめず、出された紅茶を呷る。ほどよく温くなっていた液体が、ばさついた粘膜を潤す。はぁと息を吐いて、もう一度。たとえ信じてもらえなかろうと、言葉にしないと気が狂いそうだった。既に狂っているかもしれないけれど、まだ誰かと意思疎通ができるという点で、自分の正気を証明したかった。
「信じてもらえないかもしれませんけど、昨日、家に……俺が転がり込んでた、女の、部屋の、あの、テレビと、壁の間の、縦横何センチもない隙間に、その、子が、いて。薄っぺらいのに、なんかよく分からないけど、あの子だって、分かって」
「それならたぶん『隙間女』のツキモノツキですね」
ティーポットを抱えたアシスタントが、耳慣れぬ言葉を口にする。
「すきまおんなのつきものつき」
どんな文字を書くかもわからず、時志はただ聞こえた音を反駁した。
「うん。俺も同意見だな」
「それは、どういう……」
「名前のとおり、数ミリの隙間にいる女の怪異、ざっくり言うと怪談の登場人物ですねぇ」
アシスタントの口から出た言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。
「怪談、って、怖い話の、怪談?」
「はい。都市伝説としても有名ですけど、大元は 江戸時代まで遡るんだったかな……『耳袋』に記述があったと記憶してます。あ、お代わりどうぞ」
「……どうも」
空のティーカップに、琥珀色が注がれる。
「隙間女ってことは、今回は駆除以外の選択肢無しなんだよなぁ」
「そうですねぇ。元ネタ自体が『壁とタンスの隙間に女がいた』で完結する物語だから、なんとも言えません。バリエーションだと目が合うと発狂するとか、隙間から手が伸びてどこかに連れ去られるとか、不条理系ですし……今のところ桃花台さんは狂ってはおられないようですから……僕らの知らないパターンが来る可能性もあります」
「駆除せざるを得ない、と」
「そうなっちゃいます」
二杯目に口を付けるか逡巡する時志を尻目に、折戸とアシスタントは、意味が分からない会話を続けている。ああ、きっと、自分は本当に気が狂ってしまったのかもしれないと、諦観と絶望を孕みながら、時志は問いかける。
「あの……なんの話、してるんですか?」
「あなたのストーカーの話ですよ、桃花台時志さん」
再び届く言葉に理解が追いつく。しかし今度は納得がいかない。何故彼らは笑い飛ばさないのだろう、訝しまないのだろう。
……どうして、信じてくれる?
「なんで」
「え?」
「なんで、俺の話、本当だって、思うんですか。嘘かもしれないのに」
「……じゃあ、私からも嘘だと思われる話をします」
普通の人には話しませんけど、体験したあなたなら、真偽の判別はできるでしょう。
紅茶で唇を潤して、折戸は語る。
「ツキモノツキ、という現象があります。何それ、と思うかもしれませんが、そういうものだと思って下さい。憑き物は、わかりますか?」
「コックリさん的な?」
「あー、はい。ソレを知っているなら十分です。神、悪魔、動物、あるいは死人が人間に憑依して主に精神に影響を与えること。ツキモノツキは憑依した人間の、そのまた感情に取り憑いて実体化した怪異の総称」
「感情に……」
トキシのことが好きだったから、知りたかったから、ずっと見ていたかったから、ライブ終わってから出待ちしたり、家まで付いて行ったり、リハスタ調べたりしました。ごめんなさい。これからもずっと大好きです。でももう会っちゃいけないから会わないようにします。ごめんなさい。
弁護士を通じて受け取った謝罪が頭をよぎる。彼女の「桃花台時志を見ていたい」という感情が一人歩きした結果があれだというのか。笑い飛ばしたいが、見てしまった以上、信じるしかない。筋は、幸か不幸か通っている。
「……つまり、あれはただ俺を見たいだけ、ってこと?」
「今の所は。現状のまま済めばいいんですが、ツキモノツキが本体を離れて一人歩きしている時点で、既に 暴走してるんですよ。ひとつの感情というものに憑依して同調しているせいで、欲求に到達するための動機も、プロセスも完全に無視してしまう。たとえば紅茶が飲みたいという欲求があったとして、普通の考えであれば、カップに紅茶を注いで飲めば済む。でも、紅茶を飲むという欲求だけが独り歩きすると、極論、世界中の水分を紅茶にして、世界中の生物の細胞に紅茶が満たされて、紅茶だけの地球にしてようやく紅茶を飲ませたと言うかもしれない。たったひとりが、たった一杯だけ飲みたいと思っただけなのに」
「……ッハ」
思わず失笑が漏れた。
「極端すぎやしませんか」
「接見禁止された想い人を見たくて家の隙間に挟まってるって時点で、かなり尖ってると思いますけどね?」
反論が出せなくて、目を逸らした。不意に、何かの機会で読んだギリシャ神話を思い出す。富を求めた王が黄金を生み出す力を神から賜り、最後には自らの手で娘を彫像に変えてしまった物語。願いが際限なく膨れ上がるのは、そういうことかと、無理に自分を納得させた。悪夢のような話は、自分の知識の枠に押し込めないと気が狂う。
「……桃花台さん? これから、どうしたいですか」
嫌な想像が、頭をよぎる。隙間に引き摺り込む怪談。そういう怪異にあの少女は憑かれたと。自分が同じ目に遭わない根拠など存在しない。何故という疑問すら愚問なのだ。現象というのであれば、きっと、通り雨に降られてしまった程度の偶然性と不運しかないのだろう。ならば。
「……死にたく、ねえよ」
「わかりました。じゃあ、着手金として1万円を頂くとして、あとは……事件解決までうちに泊まって下さい。宿代は浮かせた方がいいでしょ?」
「は?」
今夜の寝床を確保していないのを思い出す。使おうと思っていたネットカフェのナイトパックが確か5,000円でお釣りが出たはずだ。1万円。出せない額ではない。定住する家がないだけで、一週間ビジネスホテルに滞在する程度の手持ちはある。ただ、この状況でお願いしますと安直に応じるほど、時志は短絡的でも楽観的でもない。うまい話にはまずい裏事情がセットだと相場が決まっている。
「別に慈善事業の一環で提案してるわけではありません。下手にあなたを外で泳がせるよりも、一緒にいてくれた方が保護というか護衛がしやすいんですよ」
もしかして解決金がえげつない額なのか。色々な可能性が浮き沈みしたけれど。
「オカルトな話ですが……この事務所、外部からのツキモノツキ対策は取れてますからご安心下さい」
「お世話になります!」
折戸に何を言われたのか理解した次の瞬間に、財布から紙幣を抜き取っていた。宵越しの金は持たないと言うほど刹那主義ではないが、死んだら預金通帳の残高は自分では使えない。
「はい、ちょうどお預かりしました。ハトちゃん、領収書。あと諸々の準備」
折戸は口角を上げ、恭しく受け取った紙幣をアシスタントに渡す。
「かしこまりましたぁ」
「ハトちゃんならどうする?」
領収書を書いているらしいアシスタントは右手を動かしながらううん、と一言唸り。
「駆除一択でしょうね」
「だよね」
折戸とアシスタントが何を企てているのかは分からないが、自分のために動こうとしてくれているのだと思うと、少し心の緊張が解けた。




