婚約破棄されたので、封印していた『伝説』を解放します~タイピング音が嫌いと言った元婚約者が、私の作ったキーボードで人生詰んでいた件
「君のタイピング音、生理的に無理なんだ。婚約は解消させてもらう」
白石蓮の言葉が、高級レストランの個室に響いた。
窓の外では東京の夜景がきらめいている。テーブルには手つかずのフレンチのコース。私の目の前には、完璧に整えられた茶髪と、ブランド物のスーツに身を包んだ婚約者——いや、元婚約者が座っている。
「……そうですか」
私、日向葵は静かに頷いた。
(ああ、やっと終わる)
三年間。たった三年間のはずなのに、永遠のように長かった。
彼のために打鍵音を消す努力をした。静音キーボードを使った。深夜は指先だけで音を殺してコードを書いた。それでも「うるさい」と言われ続けた。呼吸の音すら文句を言われた夜もあった。
「聞いてるのか?」
蓮が眉を顰める。彼は私が泣き崩れるか、縋りつくとでも思っていたのだろう。そのための高級レストラン。そのための個室。「僕に捨てられた可哀想な女」を演出するための舞台装置。
残念だけど、その期待には応えられない。
「はい、聞いております。婚約解消、承知いたしました」
「……は?」
蓮の目が見開かれた。
(その顔、スクリーンショット撮りたいな)
私は心の中でそう思いながら、伊達眼鏡の奥で静かに微笑んだ。もちろん、表情筋は一切動かさない。三年間で身につけた唯一の技術だ。
「いや、待て。君、状況分かってるのか?白石家との婚約を解消するということは——」
「父の借金の件ですね。それは私が何とかしますので、ご心配には及びません」
「は?君に何ができる?ただの地味なシステムエンジニアだろう?」
(ただの地味なシステムエンジニア、ね)
私は左手の薬指に光る婚約指輪を外した。三カラットのダイヤモンド。彼の見栄の象徴。重くて邪魔で、キーボードを打つたびに引っかかった。
「今まで、お世話になりました」
指輪をテーブルに置く。カチン、と小さな音がした。
「どうぞお幸せに、白石さん」
「……っ、待て!」
立ち上がった私を、蓮が呼び止める。けれど私は振り返らない。
(まあ、そうなりますよね)
三年間、空気のように扱われてきた。存在を消すことに全力を注いできた。だから彼は知らない。私が本当は何者なのか。
私が封印してきたもの。私が手放した夢。私が——ようやく取り戻せるすべてのこと。
「さようなら」
扉を閉める瞬間、彼の狼狽した顔が見えた。
自分を捨てた女が、一滴の涙も流さないことが、彼のプライドを傷つけたらしい。
(泣くと思った?残念でした)
夜風が頬を撫でる。東京の空気は相変わらず排気ガスの匂いがする。でも今夜だけは、それすら甘く感じた。
スマートフォンを取り出す。連絡先を開き、ある名前をタップした。
『パパ、今から帰る。工房の鍵、出しておいて』
送信ボタンを押した瞬間、三年ぶりに心臓が高鳴った。
——おかえり、私の人生。
◇
実家の「日向電子」は、秋葉原の路地裏にひっそりと佇んでいた。
古びた看板。色褪せたシャッター。けれどショーウィンドウだけは、父がいつも丁寧に磨いている。
「……帰ったか」
扉を開けると、白髪交じりの父がカウンターの向こうに立っていた。相変わらず寡黙で、表情の読めない人だ。作業着には油染みがついている。
「ただいま、お父さん」
「……おう」
父は短く答えて、視線を逸らした。でも私は見逃さなかった。その目尻が、微かに濡れていたことを。
「茶、飲むか」
「うん」
私たちは店の奥にある小さな居間で、湯呑みを向かい合わせた。父が淹れるほうじ茶は、いつも少しぬるい。お母さんが生きていた頃からずっとそうだ。
「……すまんかった」
突然、父が頭を下げた。
「借金のせいで、お前を——」
「いいの」
私は首を横に振った。
「私が決めたことだから。それに、もう終わったから」
父は顔を上げ、皺だらけの顔をくしゃりと歪めた。泣いているのか笑っているのか、よく分からない顔だった。
「……そうか。おかえり、葵」
「うん。ただいま」
湯呑みの温かさが、指先に染み渡る。三年間、ずっと冷たいものばかり握っていた気がする。
「……工房、開けてある」
父はそう言って、立ち上がった。
「母さんも、喜んでるだろうよ」
◇
地下への階段を降りる。
埃の匂い。機械油の残り香。微かに感じる、半田ごての記憶。
工房の扉の前で、私は深呼吸を三回した。これは私の儀式だ。新しいキーボードを組む前に必ずする、おまじないのようなもの。
鍵を回す。
ギイ、と錆びた音を立てて、扉が開いた。
「——おかえり、私の居場所」
薄暗い工房の中、作業台が私を待っていた。
壁一面に並ぶ工具。色とりどりのキースイッチが入った瓶。半分だけ組み上げられたまま時間を止めた、未完成のキーボード。
私は作業台の椅子に座り、目を閉じた。
『音葉』。
それが、私のもうひとつの名前だった。
カスタムキーボードビルダーとして、業界では「伝説」とまで呼ばれた。私が組み上げたキーボードは半年待ちで、一台五十万円でも即完売した。
でも三年前、すべてを捨てた。父の借金を肩代わりしてもらう代わりに、白石家の息子と婚約した。『音葉』としての活動を休止し、ただの「地味なシステムエンジニア」になった。
——もう、終わり。
私はスマートフォンを取り出し、三年間放置していたSNSアカウントを開いた。フォロワーは十二万人のまま止まっている。
指先が震えた。
(大丈夫。私はまだ、作れる)
新規投稿の画面をタップする。
『お久しぶりです。音葉です。本日より、活動を再開します』
送信ボタンを押した。
五分後、通知が鳴り止まなくなった。
『音葉さん復活!?』
『待ってました!!!』
『三年間ずっと待ってた……』
私は画面を見つめながら、小さく笑った。
(ただいま、みんな)
そして、一件のDMが届いた。
送信者は『K』。アイコンはなく、プロフィールも空白。
『活動再開、おめでとうございます。三年間、お待ちしておりました。ご依頼をお願いしたいのですが』
添付されていたのは、不思議なオーダー内容だった。
『雨音のような、でも芯のある打鍵感。指先に伝わる確かな抵抗と、耳に残らない優しい余韻。——父が、最期に求めていた音です』
私は画面を見つめた。
(父が、最期に求めた音……?)
謎の依頼者。抽象的すぎるオーダー。そして「三年間待っていた」という言葉。
普通なら断るべきだ。でも、私の職人としての血が騒いでいた。
『——お引き受けします』
そう返信した瞬間、私の新しい物語が動き始めた。
◇
「いや待って聞いて!葵、ちょっと、マジで聞いて!」
翌朝、親友の園田結衣が工房に飛び込んできた。ピンクのインナーカラーが揺れ、派手なネイルの指でスマートフォンを振り回している。
「結衣、朝から声が大きい」
「そんなこと言ってる場合じゃないって!見て、これ!トレンド一位!『音葉復活』がトレンド一位だよ!?」
画面を覗き込むと、確かに私の名前——正確にはハンドルネームが、SNSのトレンドトップに輝いていた。
「ねえ、あの三年間何してたの?ずっと連絡もなくてさ、心配したんだよ?」
結衣が頬を膨らませる。高校時代からの親友で、『音葉』の正体を知る数少ない人物。そしてフリーランスのガジェット系ライターとして、三年間ずっと「音葉復活待ち」の記事を書き続けてくれていた。
「……ごめん。いろいろあって」
「いろいろって、もしかして例の婚約?あのクソ男との?」
「結衣」
「だって本当のことじゃん!私、最初から言ってたよね?あいつ絶対ヤバいって」
「うん。知ってる。だから、終わりにした」
結衣が目を丸くした。
「……終わりにしたって、もしかして」
「婚約解消。昨日の夜」
「——っ、マジで!?やった!最高!ねえ、どうやって別れたの?あいつ、どんな顔してた?」
「『生理的に無理』って言われて、『そうですか』って返して帰ってきた」
「うっわ、最高じゃん!あいつの顔見たかった!」
結衣がガッツポーズをする。本当に、この子は昔から変わらない。
「で、復活早々にDM殺到してるでしょ?依頼は?もう決めた?」
「……一件だけ」
私は昨夜の『K』からのメッセージを見せた。結衣の表情が真剣になる。
「『雨音のような、でも芯のある打鍵感』……これ、かなり抽象的だね」
「うん。それに——『父が最期に求めていた音』。この言葉が、気になって」
結衣が首を傾げる。
「依頼者の情報は?」
「ない。『K』っていうハンドルネームだけ」
「怪しすぎない?」
「かもね。でも——」
私は工房の壁に飾られた一枚の写真を見つめた。若い頃の母が、満面の笑みでキーボードを抱えている写真。
「お母さんもよく言ってた。『音には、その人の人生が詰まってる』って。この依頼者が求めてる音には、何か物語がある気がするの」
結衣がため息をついた。
「……葵、ホント変わんないね。ロマンチストなんだから」
「職人気質って言ってほしい」
◇
素材探しの旅に出た。
秋葉原でスイッチを吟味し、京都の老舗木工所で楓材のキーキャップを発注し、岐阜の職人にアルミニウムプレートの特注を頼んだ。
一週間後、東京に戻った私は、秋葉原の電子部品街を歩いていた。
馴染みのパーツ屋でスイッチを物色しながら、『K』から届いた追加メッセージを読み返す。
『素材選び、順調でしょうか。何かお力になれることがあればお申し付けください』
丁寧だけど、どこか事務的な文面。
(会ったこともない相手なのに、なんでこんなに気になるんだろう)
棚に並ぶキースイッチの瓶を一つ一つ手に取り、感触を確かめていく。
「——タクタイルか、リニアか」
独り言が漏れる。『雨音のような打鍵感』。指先に伝わる確かな抵抗と、耳に残らない優しい余韻。相反する要素だ。普通なら両立しない。
「……ここかな」
一つのスイッチを手に取った瞬間、背後から声がした。
「そのGateronのInk Black、良い選択ですね」
低くて、落ち着いた声。振り返ると、長身の男性が立っていた。
切れ長の目に銀縁眼鏡。整えられた黒髪に、一筋だけ跳ねた毛。オーダーメイドらしい三つ揃えのスーツは、この電子部品街には明らかに場違いだった。
「——どちら様ですか」
警戒心が声に出る。男性は微かに笑った。
「申し遅れました。神楽坂透と申します」
神楽坂。その名前には聞き覚えがあった。IT企業『カグラテック』の創業者。業界では若き天才CEOとして知られている。
「失礼ですが、私に何か——」
「『K』です」
男性——神楽坂透は、静かにそう告げた。
「三年、待ちました。やっと、あなたのキーボードが手に入る」
時間が止まった気がした。
◇
連れて行かれたのは、秋葉原の外れにある小さな喫茶店だった。
レトロな内装。木製のテーブル。窓の外には夕暮れの街並みが見える。
「まず、謝らせてください。身元を隠して依頼したこと」
「いえ、それは構いません。でも——」
「なぜ私があなたを探していたか、ですね」
頷く。
神楽坂透は少し間を置いて、口を開いた。
「父の話をさせてください。神楽坂創一。私の父で、カグラテックの前身となる会社を興したプログラマーでした。——十年前に、過労で亡くなりました」
「……すみません」
「いえ。父の遺品を整理していた時、一枚の発注書を見つけたんです。宛先は『音葉』様。内容は——」
「『雨音のような、でも芯のある打鍵感』」
神楽坂透が頷いた。
「父が最期に求めていたキーボードでした。でも発注書は送られておらず、父はそれを手にすることなく亡くなった」
彼の声は淡々としていたが、目の奥には深い感情が滲んでいた。
「それから、あなたを探しました。三年間、ずっと」
「三年……でも、私が活動休止したのも三年前です」
「ええ。タイミングが最悪でした」
彼は自嘲気味に笑った。
「あなたの過去作品を買い集め、使っている人を見つけては話を聞きました。打鍵音も録音しました。——ストーカーみたいですね」
「……少し」
正直に答えると、彼は苦笑した。
「すみません。でも、どうしても諦められなかった。父が最期に求めた音を、この手で聴きたかった」
運ばれてきたコーヒーを、二人とも見つめたまま黙り込んだ。
私は考えていた。この人の依頼を引き受けた理由。「父が最期に求めた音」という言葉に惹かれた理由。
(お母さんも——キーボードを作る人だった)
「お引き受けします」
私は顔を上げた。
「最高の一台を、作ります」
神楽坂透の目が、微かに見開かれた。
「……ありがとうございます」
「ただし、条件があります」
「何でしょう」
「制作過程に、立ち会ってください」
今度は彼が驚く番だった。
「私は……?」
「お父様が求めた音を、一番理解しているのはあなたでしょう。なら、一緒に作りましょう」
神楽坂透は少し間を置いて——。
「……効率的じゃないですね」
「え?」
「いえ。——喜んで、お受けします」
彼は微笑んだ。その笑顔は、さっきまでの冷徹なCEOとは別人のように柔らかかった。
窓の外で、雨が降り始めていた。
◇
同じ頃——白石テクノロジー本社ビル。
「説明しろ、蓮」
父・白石剛造の怒声が響いた。
「なぜ神楽坂に負けた。あのプレゼン、完璧だったはずだ」
蓮は唇を噛んだ。先週の大型契約プレゼン。自信があった。資料も完璧、話術も冴えていた。なのに——。
『申し訳ありませんが、御社のプレゼンは少々……キーボードの打鍵音が気になりまして。神楽坂様の方は、聞いていて心地よかった』
たかが打鍵音で、十億の契約を逃した。
「神楽坂が使っていたキーボード、調べさせました」
秘書が資料を差し出す。蓮はそれを受け取り——凍りついた。
『カスタムキーボード。制作者:音葉。推定価格:80万円〜』
音葉。
その名前には、嫌というほど聞き覚えがあった。
婚約中、葵が使っていたキーボード。「安物のくせに音がうるさい」と文句を言い続けた、あのキーボード。
まさか——。
「調べろ」
蓮は秘書に命じた。
「音葉の正体を。今すぐにだ」
◇
二時間後。
蓮は自室で、震える手でスマートフォンを握っていた。
画面には、SNSの投稿が映し出されている。
『音葉復活おめでとう!これは三年前に作ってもらった私の宝物です』
添付された写真。見覚えのあるキーボード。
——葵が、毎日使っていたものと同じデザイン。
「嘘だろ……」
検索を続ける。音葉。日向葵。そして——。
『【速報】伝説のキーボードビルダー音葉、大手IT企業御曹司との婚約を解消していたことが判明』
『三年間の沈黙の理由は政略婚約だった……?』
血の気が引いた。
SNSは既に炎上状態だった。「才能ある女性を虐げていた男」「打鍵音が嫌いって言ってたのに、自分はキーボードの音で契約逃した」「因果応報すぎる」——。
蓮の名前こそ出ていないが、業界人なら誰でも分かる内容だった。
「くそっ……!」
(あの地味な女が、音葉だと?三年間、一緒にいて気づかなかった——)
『君のタイピング音、生理的に無理なんだ』
自分の言葉が、脳内でリピートされる。
五十万円のキーボードを、「安物」と罵った。伝説の職人の腕を、「うるさい」と切り捨てた。
蓮は床に崩れ落ちた。
その時、スマートフォンが鳴った。
『蓮。今すぐ会議室に来い。話がある』
父の声は、氷のように冷たかった。
「お前は、目の前の宝石を石ころだと思って捨てたんだ。そして今、その石ころだと思っていたものに、足元を掬われている」
役員たちの視線が突き刺さる。
「次期社長候補の件、白紙に戻す。——出ていけ」
蓮はよろめきながら会議室を出た。
(取り戻せばいい。葵を。彼女はいつも従順だった。僕が頭を下げれば、きっと——)
蓮は知らなかった。
あの「従順な女」は、もういないことを。
◇
「ここが、あなたの工房ですか」
神楽坂透——いつの間にか「透さん」と呼ぶようになっていた——が、地下の工房を見回しながら呟いた。
「狭くてすみません」
「いえ。——素晴らしい」
彼の目は、壁に並ぶ工具や、色とりどりのキースイッチの瓶を食い入るように見つめていた。
「ここで、あの音が生まれるんですね。あなたのキーボードの、打鍵音です。初めて聞いた時、涙が出た」
(……大げさな人だな)
私は心の中でそう思いながら、作業台に向かった。
「では、始めましょう。まず、スイッチのルブ作業から」
「ルブ?」
「潤滑剤を塗る作業です。これで打鍵感が大きく変わります」
小さな筆と、透明な潤滑剤の瓶を取り出す。透さんは隣に椅子を引き寄せ、真剣な顔で見つめてきた。
「一つ一つ、手作業で?」
「ええ。量産品との違いは、ここにあります」
私はスイッチを分解し、内部に筆で潤滑剤を塗っていく。静かな作業だ。無心になれる時間。
「……綺麗だ」
透さんが呟いた。
「え?」
「あなたの手。働く手だ」
私は思わず手を引っ込めた。職人特有の小さな火傷痕や角質。お世辞にも綺麗とは言えない。
「……からかわないでください」
「からかってません。——父も、同じような手をしていました」
透さんの声が、少し柔らかくなった。
「徹夜でコードを書いて、キーボードを叩きすぎて指が腫れて。でも、その手で作ったものを誰かが使ってくれることが、何より嬉しいと言っていた」
私は彼を見つめた。銀縁眼鏡の奥の目は、遠い記憶を見ているようだった。
「……お父様のこと、好きだったんですね」
「ええ。尊敬していました。——だから、彼が最期に求めた音を、どうしても聴きたかった」
私は黙って、作業を再開した。
◇
数時間後。
「——できました」
私は組み上がったキーボードを、作業台に置いた。
楓材のキーキャップ。特注のアルミニウムプレート。厳選されたスイッチ。すべてが一つになり、世界に一台だけのキーボードが完成した。
「試し打ちしてみてください」
透さんが、震える手でキーボードに触れた。
指を乗せる。深呼吸する。そして——。
カタ、タン。
音が、響いた。
雨粒が葉を打つような、柔らかく、でも確かな音。響きすぎず、消えすぎず、指先に心地よい抵抗を残して余韻へと変わっていく。
「——これ、だ」
透さんが呟いた。その目が、潤んでいた。
「父が、求めていた音だ」
彼は何度もキーを叩いた。タイピングというより、音を確かめるように。一文字一文字を噛みしめるように。
カタタタン。カタ、タン。
「……ありがとう、ございます」
彼の声が震えていた。
「日向葵です」
私は名乗った。今まで伝えていなかった、本名を。
「音葉は、仕事の名前。本当の私は、日向葵」
透さんは目を見開き——そして、微笑んだ。
「日向、葵さん。——良い名前だ」
その時、作業台の隅に置いてあった一枚の紙が目に入った。
古びた設計図。母の遺品の中から見つけた、未完成のキーボード設計図。
設計図の端に書かれた文字。ずっと見落としていた、小さな走り書き。
『神楽坂様発注分』
「……え?」
透さんも、それを見ていた。彼の顔が、驚愕に染まっていく。
「まさか——お母様は」
「カスタムキーボードの、設計者でした。でも、私が子供の頃に亡くなって——」
二人の視線が交錯した。
私の母が受けた発注。透さんの父からの依頼。そして今、私が作ったキーボード。
「——繋がって、いたんですね」
透さんが呟いた。
「私たちは、知らないうちに」
◇
それから二週間。
私と透さんは、毎日のように会っていた。キーボード制作の名目で始まった関係は、いつしか深夜のほうじ茶ラテを共有する仲になっていた。
「——葵さん」
「はい」
「東京ゲームショウで、新作発表会をしませんか」
私は目を瞬いた。
「カグラテックとして、協業という形で。『誰もが心地よく打てるキーボード』を、世に出したい」
「それは……」
「あなたの技術を、もっと多くの人に届けたい。——駄目ですか」
透さんの目は真剣だった。
「……やりましょう」
◇
東京ゲームショウ当日。
会場は人で溢れていた。カグラテックのブースには、発表会を心待ちにしているファンたちが詰めかけている。
「緊張してますか」
透さんが隣で囁いた。
「……少し」
「大丈夫。あなたの作品は、世界一だ」
発表会が始まる。透さんがステージに上がり、プレゼンテーションを始めた。
「本日は、特別なパートナーをご紹介します。カスタムキーボード界の伝説——『音葉』こと、日向葵さんです」
スポットライトが私を照らす。歓声が上がった。
「えっ、音葉さん!?」
「本人!?マジで!?」
「三年待った甲斐があった……!」
私はステージに上がり、深呼吸を三回した。これは私の儀式。新しい一歩を踏み出すための、おまじない。
「お久しぶりです。音葉です。本日は——」
その時だった。
会場の後方が、騒がしくなった。
人混みを掻き分けて、一人の男が進んでくる。乱れた茶髪。皺だらけのスーツ。血走った目。
——白石蓮。
「葵ッ!」
彼は叫びながら、ステージに駆け寄ってきた。
「やり直してくれ!頼む、もう一度——」
会場が騒然となった。カメラのフラッシュが一斉に焚かれる。
蓮はステージの前で膝をついた。
「僕が間違っていた。君の才能を、見る目がなかった。だから——」
私は彼を見下ろした。
三年前までは、この人の言葉に従っていた。空気のように振る舞い、存在を消すことに全力を注いでいた。
でも、もう違う。
「白石さん」
私は静かに口を開いた。
「あなたが嫌いだと言った打鍵音で、私は幸せになりました」
会場が静まり返った。
「あなたが『生理的に無理』と言った音で、たくさんの人が笑顔になってくれました。あなたが『うるさい』と罵った手で、私は夢を叶えました」
蓮の顔が歪んだ。
「葵、待ってくれ——」
「さようなら、白石さん。どうぞお幸せに」
私は彼に背を向けた。
その時、透さんが私の手を取った。
「——行こう。新しい世界へ」
私たちは並んで、ステージの中央に立った。
「それでは、発表させていただきます。『誰もが心地よく打てるキーボード』——今から、実演します」
私と透さんは、並んでキーボードを打ち始めた。
カタタタン。タン、カタ。
雨音のように柔らかく、でも芯のある音が、会場に響き渡った。
「——綺麗」
「なにこの音……」
「泣きそう……」
観客がざわめく。カメラが回り続ける。
私は横目で透さんを見た。彼も、私を見ていた。
目が合った瞬間、二人同時に笑った。
——ステージの袖で、白石蓮が崩れ落ちるのを、私は見なかった。
見る必要がなかった。
私の人生の主役は、私だから。
◇
東京ゲームショウから三ヶ月後。
「日向電子」の地下工房は、以前より少しだけ広くなっていた。
「葵、これ設計図できたぞ」
父が階段を降りてきて、紙の束を差し出す。
「ありがとう、お父さん」
「……茶、飲むか」
「うん」
三年ぶりに戻った実家での暮らしは、思っていたより心地よかった。
「あ、葵ー!」
結衣が工房に飛び込んできた。
「見て見て!記事がバズってる!『音葉×カグラテック、伝説のキーボードビルダーと若き天才CEOの熱愛報道!?』」
「ちょっと、これ誰が書いたの」
「私」
「結衣!」
「いやだって、事実じゃん!」
言い返そうとした時、工房の扉が開いた。
「お邪魔します」
透さんが、紙袋を抱えて入ってきた。
「差し入れです。和菓子屋の」
「あ、若様。お疲れ様です」
後ろから氷室さんが現れ、恭しく頭を下げた。
「日向様、本日も若様がお世話になります」
「いえ、こちらこそ……」
「氷室、その『若様』はやめろと言っている」
「滅相もございません」
(絶対やめる気ないな、この人)
◇
夕暮れ時。
結衣と氷室さんが帰り、父は店番に戻った。工房には私と透さんだけが残った。
「葵」
「……はい」
「一つ、聞いてもいいか」
透さんが、珍しく緊張した顔をしていた。
「あなたの母上の設計図。あれを、完成させませんか」
私は目を瞬いた。
「母の……」
「私の父と、あなたの母が交わした約束。十年以上前に途絶えた夢。——二人で、完成させたい」
透さんが、私の手を取った。
「それから、もう一つ」
「……何ですか」
「君の作るものが欲しいんじゃない。君が作る過程を、ずっと隣で見ていたい」
(……それ、プロポーズですか?)
心の中でそう思ったけど、口には出さなかった。
代わりに、私は答えた。
「いいですよ」
「え」
「一緒に、完成させましょう。母のキーボード。——それから、ずっと隣にいてください」
透さんの目が見開かれ——そして、溶けるように笑った。
「……効率的じゃないな」
「何がですか」
「こういう時、もっと気の利いたことを言うべきなのに。——言葉が出てこない」
「いいですよ。不器用なところも、好きですから」
透さんが私を見つめた。私も彼を見つめた。
「——ありがとう。君に出会えて、よかった」
「私も」
工房の窓の外で、雨が降り始めていた。
私は新しいキーボードのキーを一つ、叩いた。
カタン。
雨音のように柔らかく、でも芯のある音。
「——ただいま」
私が初めて打つ言葉は、いつもこれだ。完成したら最初に『ただいま』と打つ。それが私の儀式。
隣で透さんも、キーを叩いた。
「おかえり」
画面に文字が浮かぶ。
私たちは顔を見合わせて、笑った。
◇
一年後。
「日向電子」は小さいながらもキーボード専門店として生まれ変わり、父は毎日楽しそうに働いている。
カグラテックとの協業製品は大ヒットし、「誰もが心地よく打てるキーボード」は業界のスタンダードになりつつある。
白石蓮は——SNSの炎上と会社の株価暴落で立場を失い、今は地方の子会社に飛ばされたらしい。結衣から聞いたけど、特に感想はない。
私の人生に、もう彼の居場所はないから。
そして——。
「葵、これ」
透さんが差し出したのは、一台のキーボードだった。
見覚えのある設計。母の遺した図面。そして透さんの父が求めた音。
「——完成、したの?」
「ああ。君と一緒に、作り上げた」
私は震える手でキーを叩いた。
カタタン。
雨音のように優しく、でも力強い。母が夢見た音。透さんの父が求めた音。そして——私たちが紡いだ音。
涙が頬を伝った。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
透さんが私の手を取った。
「これからも、一緒に作ろう。たくさんの音を」
「はい」
窓の外で、雨が上がった。
雲の隙間から差し込む光が、キーボードを照らす。
私はもう一度、キーを叩いた。
『これからもよろしくね』
隣で透さんが、続けて打つ。
『ずっと、隣にいる』
二人の打鍵音が重なり、溶け合い、ひとつの音楽になった。
これが、私の物語。
婚約破棄から始まった、幸せの音——。




