94. 翡翠宮に住まないか?
浄化の滝から翡翠宮に戻ってきたのは夕方だった。
季節は初夏、まだ西日にならない時間帯。
玲は天藍を、私は紅玉を厩舎に戻して、騎乗した後のお世話であるブラッシングや、ぬれタオルで汗を拭いてあげたりして、馬たちのお手入れも終わりに近づいた頃。
ふと、私の方を振り向いて、玲が言った。
「薫、翡翠宮に住むようにしたらいいんじゃないか?」
天藍を優しく撫でながら、自然な口調だったけれど、そう言った時の玲の瞳は真剣だった。
「部屋はいっぱいあるし、食事も風呂も、いちいち自分で火からおこさなくていいし、そっちの方が色々と楽じゃないかなと思ってさ」
続けてそう言った玲に、私は少し考える。
たしかに、剣術稽古や乗馬訓練の後で私が住んでいる速水邸に帰って、お風呂と夕飯の支度をするのは手間ではある。玲の近くにいたい気持ちも、もちろんある。でも……。
私はにっこり笑って言った。
「うん、でも、速水は神殿に住み込みで巫子修行してるし、私、速水の家の台所やお風呂、完璧に使えるようになったから、家の保存って意味でも速水邸に住んだ方がいいんじゃないかな?」
そう聞いて、玲はあっさりと、そっちが住みやすいならそうしろよ、と笑った。その優しい笑顔に、ほんの少し胸が痛んだ。
速水邸が住みやすいって言ったことも嘘じゃない。でも、心の奥には、別の気持ちもあった。
浄化の滝で、玲は私のことを、前向きだと言ってくれたけれど。
私は青い炎の夢と滝で響いた声のことが、とにかく気になっていたのだ。
あんな夢を見ている私は、まだまだ精神が弱いんじゃないのかな?
それに、目覚めろ、受け入れろって、助け手としてってことなのかな。
そんな諸々に惑わされるってことは、玲を守りたいなんて大きなことを思ってるけど、足りないんじゃない?
そう思うと、身体の血が下がるみたいになって、指先が冷たくなってくる。
ぽつんと心に落ちていた墨の一滴みたいな気持ちが、少しずつ滲むように大きくなりつつあったけれど、私はまだ、そのことを玲に言えなかった。
夕方、速水邸に戻って、ひとり分の夕食を作る。僧医の清涼さんや速水が神殿から分けてくれる食材で、野菜を切って、簡単なスープを煮る。ほっこりした良い匂いが漂っていたけれど、頭の中ではぐるぐると、さっきの考えが渦巻いていた。
玲は「好きだ」と言ってくれた。吐血から気がついた玲が、冷たい手で私の手を握って、目を見て言ってくれたあの言葉が、今でも胸に焼き付いている。
私は『助け手』という役割で、姫将軍の翡翠の身代わりとして、この風雅の国に来たと言われてきた。
翡翠と私はそっくりと言われていて、実際に私たちは鏡写しみたいに似ていた。
でも、生まれたときから姫として育った翡翠が持つ優美さや威厳は、私にはまったく無い部分だった。
他にも何か私の足りない部分で、もし玲や皆が「もういいよ」って思ったら?
私がここにいる意味、なくなっちゃうんじゃないかな……。
ぶるっと身体が震えた。
心の奥にあった私の自信のなさや恐怖、ずっと抑えてきたマイナスの気持ちが少しずつ膨らんでくる。速水邸に住むことは、玲と少し距離を置いて、甘えずに自分を奮い立たせるためかもしれない。……なんて、考えている自分が情けない。
「いたっ!」
急に左腕が痛み、持っていた野菜をとり落とした。一月に北の森で、風狼にやられた傷跡を触ってみると、少し熱い。
「……ちょっと熱持ってる……」
ため息をついて、簡単なスープで夕食を済ませ、冷たく絞った手ぬぐいで傷跡を冷やした。
玲、大好きだよ。本当は翡翠宮に住みたい。そばにいたい。
でも私はもっとがんばらなきゃ。助け手としての価値がなくなってしまわないように。
雨戸を締めて、もう寝ようと布団を敷いた。ふと、文机の上に載せていた、これまで姫教育で教えてもらった戦術や薬草知識の私のメモ、その紙の束が目に入る。
最初の頃、紙は大事に使えよと玲に言われて、私は日記みたいなものは付けずに来たけど。
「……一枚、一行日記みたいに書いていこうかな」
それは、私が気持ちを強く持っていられるようにするための、ちょっとした思いつきだった。
寝る前に墨をすって、ほんの少しだけメモをとっていた一枚を見つけて、今日の日付を書く。
『五月十五日。
玲と浄化の滝に行った後、翡翠宮へのお誘いは断った。まずは速水の家で、きちんと生活していく』
それを書いたら、なんだかとてもすっきりした自分がいた。
布団に横になって目を閉じる。
(大丈夫、大丈夫。)
私は心の中で呟いてみる。
傷の痛みも、心の奥の小さな穴から染み出してきた自分の弱さも、考えていると怖さが増してくる。でも、どうにか向き合いたい。
まずは日記に書いたみたいに、一人でここに住んで、きちんとやっていきたかった。
そうやってこの風雅の国で生きて行くって気持ちを、しっかり自分の中に持っていたかったんだ。




