表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

94/104

94. 翡翠宮に住まないか?

 浄化の滝から翡翠宮に戻ってきたのは夕方だった。


 季節は初夏、まだ西日にならない時間帯。

 (アキラ)天藍(テンラン)を、私は紅玉(コウギョク)厩舎(キュウシャ)に戻して、騎乗した後のお世話であるブラッシングや、ぬれタオルで汗を拭いてあげたりして、馬たちのお手入れも終わりに近づいた頃。


 ふと、私の方を振り向いて、玲が言った。


「薫、翡翠宮に住むようにしたらいいんじゃないか?」


 天藍を優しく撫でながら、自然な口調だったけれど、そう言った時の玲の瞳は真剣だった。


「部屋はいっぱいあるし、食事も風呂も、いちいち自分で火からおこさなくていいし、そっちの方が色々と楽じゃないかなと思ってさ」


 続けてそう言った玲に、私は少し考える。


 たしかに、剣術稽古や乗馬訓練の後で私が住んでいる速水邸に帰って、お風呂と夕飯の支度をするのは手間ではある。玲の近くにいたい気持ちも、もちろんある。でも……。

 私はにっこり笑って言った。


「うん、でも、速水は神殿に住み込みで巫子(ミコ)修行してるし、私、速水の家の台所やお風呂、完璧に使えるようになったから、家の保存って意味でも速水邸に住んだ方がいいんじゃないかな?」


 そう聞いて、玲はあっさりと、そっちが住みやすいならそうしろよ、と笑った。その優しい笑顔に、ほんの少し胸が痛んだ。

 速水邸が住みやすいって言ったことも嘘じゃない。でも、心の奥には、別の気持ちもあった。


 浄化の滝で、玲は私のことを、前向きだと言ってくれたけれど。

 

 私は青い炎の夢と滝で響いた声のことが、とにかく気になっていたのだ。


 あんな夢を見ている私は、まだまだ精神が弱いんじゃないのかな?

 それに、目覚めろ、受け入れろって、助け手としてってことなのかな。

 そんな諸々に惑わされるってことは、玲を守りたいなんて大きなことを思ってるけど、足りないんじゃない?


 そう思うと、身体の血が下がるみたいになって、指先が冷たくなってくる。


 ぽつんと心に落ちていた墨の一滴みたいな気持ちが、少しずつ滲むように大きくなりつつあったけれど、私はまだ、そのことを玲に言えなかった。



 夕方、速水邸に戻って、ひとり分の夕食を作る。僧医の清涼さんや速水が神殿から分けてくれる食材で、野菜を切って、簡単なスープを煮る。ほっこりした良い匂いが漂っていたけれど、頭の中ではぐるぐると、さっきの考えが渦巻いていた。


 玲は「好きだ」と言ってくれた。吐血から気がついた玲が、冷たい手で私の手を握って、目を見て言ってくれたあの言葉が、今でも胸に焼き付いている。


 私は『助け手』という役割で、姫将軍の翡翠の身代わりとして、この風雅の国に来たと言われてきた。


 翡翠と私はそっくりと言われていて、実際に私たちは鏡写しみたいに似ていた。

 でも、生まれたときから姫として育った翡翠が持つ優美さや威厳は、私にはまったく無い部分だった。


 他にも何か私の足りない部分で、もし玲や皆が「もういいよ」って思ったら?

 私がここにいる意味、なくなっちゃうんじゃないかな……。


 ぶるっと身体が震えた。


 心の奥にあった私の自信のなさや恐怖、ずっと抑えてきたマイナスの気持ちが少しずつ膨らんでくる。速水邸に住むことは、玲と少し距離を置いて、甘えずに自分を奮い立たせるためかもしれない。……なんて、考えている自分が情けない。


「いたっ!」


 急に左腕が痛み、持っていた野菜をとり落とした。一月に北の森で、風狼(カゼオオカミ)にやられた傷跡を触ってみると、少し熱い。


「……ちょっと熱持ってる……」


 ため息をついて、簡単なスープで夕食を済ませ、冷たく絞った手ぬぐいで傷跡を冷やした。


 玲、大好きだよ。本当は翡翠宮に住みたい。そばにいたい。

 でも私はもっとがんばらなきゃ。助け手としての価値がなくなってしまわないように。


 雨戸を締めて、もう寝ようと布団を敷いた。ふと、文机の上に載せていた、これまで姫教育で教えてもらった戦術や薬草知識の私のメモ、その紙の束が目に入る。


 最初の頃、紙は大事に使えよと玲に言われて、私は日記みたいなものは付けずに来たけど。


「……一枚、一行日記みたいに書いていこうかな」


 それは、私が気持ちを強く持っていられるようにするための、ちょっとした思いつきだった。

 寝る前に墨をすって、ほんの少しだけメモをとっていた一枚を見つけて、今日の日付を書く。


『五月十五日。

 玲と浄化の滝に行った後、翡翠宮へのお誘いは断った。まずは速水の家で、きちんと生活していく』


 それを書いたら、なんだかとてもすっきりした自分がいた。

 布団に横になって目を閉じる。


(大丈夫、大丈夫。)


 私は心の中で呟いてみる。


 傷の痛みも、心の奥の小さな穴から染み出してきた自分の弱さも、考えていると怖さが増してくる。でも、どうにか向き合いたい。

 まずは日記に書いたみたいに、一人でここに住んで、きちんとやっていきたかった。


 そうやってこの風雅の国で生きて行くって気持ちを、しっかり自分の中に持っていたかったんだ。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ