93. 浄化の滝
朝は悪夢で目覚めたけれど、姫教育の時は傷の痛みも気にならず、楽しく終わった。
その夜は疲れていたのか、夢も見ないで久しぶりに熟睡できた。そして翌日は金曜日。午後は、体調がほぼ回復してきた玲との、乗馬訓練の日だ。
私は、ちょっとしたデートとも言える玲との乗馬が大好きで、毎回とても楽しみにしていた。
「今日は天気もいいし、俺の体調も問題なくなってきたから、少し足を伸ばして浄化の滝ってところに行ってみようと思ってるんだ」
愛馬・天藍の綺麗な青毛を撫でながら、玲が言った。五月の爽やかな風に吹かれて気持ち良さそうに微笑んでいる。私はそれを聞いて、わくわくする気持ちを止められずに聞いている。
「その滝って、どの辺りにあるの?」
「湖をぐるっと回って、少し距離はあるんだけど……ちょうど翡翠宮と湖を挟んだ対岸って言うのかな。山から流れる綺麗な水が滝になってるところがあるんだ。
横の方に湧き水もあって、神官業務で祈祷の舞をやる時とか、そこの水を使ってお清めしたりすることもある」
「そうなんだ。すごく綺麗なところって感じだね」
「うん。俺も好きな場所なんだけど、この前の祝宴の時は、簡易的な舞だったし、俺も完全な調子じゃなかったから、そこまではしなかったんだ。馬で片道一時間と少しくらいだけど、行ってみるか?」
「うん、楽しみ!」
優しく微笑む玲に、私はにこにこと頷き、二人で浄化の滝まで、ちょっとした遠乗りをすることにした。
◇
到着した浄化の滝は、高い岩場の上から細い水の流れが簾のように何本も流れ落ちている、とても綺麗なところだった。岩場に当たってくだける水しぶきが太陽の光できらきらと輝き、滝の脇には木々の緑が揺れている。
「綺麗なところだろ? 翠の簾って書いて翠簾の滝って名前が付いてるんだけど、浄化の滝って別名で呼ばれることが多いかな」
玲が気持ちよさそうに伸びをしながらそう言った。
私は頷いて、すう、と息を吸い込む。清涼な空気が胸を満たして、それだけでも身体中が清らかになるような、そんな気持ちにさせられる場所だった。
滝が落ちていく谷底は結構深そうだなと、私は大きな滝壺を覗き込むように見る。谷底には透明感にあふれた大量の水が、でも底が見えないほど深く、青く揺らいでいた。
"目覚めろ"
……え。
急に、頭の奥に暗く低い声が響いた気がした。
声は続いた。
"そして、受け入れろ"
……なに。
心の中に暗い靄みたいな影が広がって消えた。
その瞬間、助け手という役割も姫教育も何もかも、投げ出したいと思ってしまった。
「……薫?」
玲が私の名前を呼ぶ声に反応できずに、私は魅入られたように滝壺に一歩踏み出そうとして、後ろからふわりと玲に、抱きかかえるみたいにして止められた。耳に玲の優しい声が流れ込む。
「ここの滝壺はかなり深くて、落ちたら上がって来れないから、絶対落ちないようにな」
玲の声で胸の中の靄が霧散して、ほっとした私は彼の横顔を見上げた。
「……上がって来れないんだ」
「昔、亡くなった人もいるらしい。なるべく一人では来るなよ。手すりとかなくて危ないからな」
「それは怖いね……」
真顔で教えてくれる玲に、そうか、と私は頷いた。こんな綺麗なところでなくなった人もいる。光と闇は表裏一体ってことなのかな。
そして今の暗い声、なんだったんだろう。気のせい?
「滝の裏側に通れるような道があって、奥に湧き水が湧いてるんだ。それは北の森の聖水みたいな感じで、体調が悪いときに飲むと回復したりする」
それを聞いた私、玲の澄んだ声とその内容で、さっきの声が打ち消されるような気がして、思わず笑顔になった。
「それはすごいね! 深呼吸しただけでも身体の中が綺麗になった感じがするもん。水も綺麗なんだね」
玲は微笑んで。
「その裏側の道の方から、滝の水も柄杓みたいなやつで汲めるんだ。それで、そうやって汲んだ滝の水で、祈祷前に水をかぶって、精神統一みたいなことをすることもある」
胸に広がっていた不安は、玲のなめらかな声で消えていく。私はほっとして、話の内容にも少し笑った。
「色々大変なんだね!」
素直な気持ちでそう言ったら、玲は肩をすくめた。
「慣れたら、たいしたことないけど……子どもの時は、秋口にそういうことをやることになって、風邪引いたこともあった」
「……ほんとに大変なんだ」
私の表情が微妙に固まったことに気付いたのか、玲は悪戯っぽく笑って。
「うん。でもまあ……今は大丈夫。それに、風邪引いたら薫が看病してくれるんだろ?」
私は照れて、「そ、そうだね」と頷いた。
「でもさ」
私は玲に背後から腕を回されていて、なんだか安らぐなあと思いながら、滝の音をBGMに、頭の上から聴こえてくる彼の低い声を聞いていた。
すると、玲は言った。
「薫は、戦いを終わらせたいと思ったり、俺の体調を良くするには、って朱鷺子や夏野に聞いて北の森行きを決めたり、勝手にひとりで色々決めるなって俺を叱ったり……基本的に前向きなんだよな、いつも」
そうなのかな。
それは反射的に浮かんだ疑問だった。ここ数日の夢の映像が脳裏に浮かぶ。本当に前向きなら、玲に炎をぶつけるなんてひどい夢は見ないのでは?
そして、さっきの暗い声と靄。
そんな話は玲にするべきじゃないと思った。玲だって前向きだと言ってくれている。……でも。
「そうでもないよ」
否定する私に、玲はくすっと笑う。
「自分ではわからないかもだけど、俺は割と諦めが早い方だから、俺にとってはそうなんだ。ちょっとあやかりたいくらいだ」
玲の優しい声に私は力をもらって、そんなふうに思ってくれてるならもっと気持ち的に強くあらねばと、玲の方を振り向いて彼と目を合わせて、ありがとうと笑った。
目の端で、滝壺の水面が私を誘うみたいに揺れていたけれど、私は夢も謎の声も思い出したくなくて、それを見ないふりをした。




