82. A love song -そして君に恋をする-
それは祝宴で玲の舞を観た、数日後の土曜日のこと。
土曜日はほとんどいつも、私と玲は一緒に乗馬をしていたけれど、たまたまその日は何の約束もしていなかった。
お昼ご飯を作ろうと、棚から鍋を取ろうとしたその時。
うっかり手がすべって、小ぶりの鉄鍋が私の頭の上に落ちてきた。
(しまった。)
そう思った次の瞬間。かこんと音がして、当たったところが悪かったのか、私は床に倒れて気を失った――。
◇
「……薫! 薫、しっかりしろ!」
とおくで誰かの声が聞こえてた。
その人はあせったような感じで、何回も薫の名前を呼んでいた。
めちゃくちゃきれいな声……。
しばらくして、ゆらゆらと身体が空中に浮いている感じで揺れた。
気持ちいいなあ……ハンモックみたい。そして、それと同時に、お香みたいな良い匂いがふんわり漂っていた。小学校の帰りにおじいちゃんのおうちに寄って、お兄ちゃんが舞の練習をする板張りのお部屋。そこに一緒に行って練習風景を見ているとき、こんな香の匂いがいつもしている。
私はなぜだかものすごく安心して、もう一度気が遠くなる。
なつかしいな。
なんでなつかしいんだろう。
お兄ちゃんの郁に、薫は毎日会ってるはずなのに?
【A love song ーそして君に恋をするー】
「……薫はどうかしたのか?」
すごくクールな感じの男のひとの声がした。
「速水邸の土間で倒れてたみたいなの。鍋が隣に落ちてたから、頭に当たったんじゃないかって言って、玲が慌てて抱えてきて。こぶができてるから濡れた手ぬぐいで冷やしてるところよ」
今度は女のひとの声。てきぱきしてる。
薫のこと話してる……?
私はぱちっと目を開けた。
白い天井。
着心地悪いなと思って腕を動かすと、淡いオレンジ色の着物……? お正月に着る訪問着にそれは似ていた。そしてなんか、自分の手が大きいような……?
「あ、薫! 気がついた?」
白い着物に赤い帯をしめた美人が笑顔で駆け寄ってきた。
(……だれ。)
私はびっくりして飛び起きて、ベッドに座って端の方に後ずさる。
その女の人も、後ろの方の椅子に座ってた長髪で緑の着物姿のイケメンも、驚いたように私を見つめた。
って言うか、ここ、どこ……?
「……薫……?」
女の人は、不思議そうに私の名前を呼ぶ。私のことを知ってるらしい。
飛び起きた拍子に、部屋の隅にある大きめの鏡に映ってる人が、目の端に見えた。その人も淡いオレンジ色の着物を着ていた。黒髪のおかっぱで、目が大きくて、私に似てる……と思って手を動かしたら、その私に似た女の人も同時に動いた。
これ、私……薫だ。
大きくなってる。
かたかたと体が震えるのを感じながら、私は恐る恐る聞いていた。
「あの、えっと、私のなまえは薫、ですけど……ここ、どこですか?
私、なんか大きいかんじがするんですけど、……あなたたちは、だれですか……?」
少し沈黙が流れて、後ろにいたイケメンが、爽やかな落ち着いた声で呟いた。
「……精神が退行してるのか……?」
せいしんが、たいこう?
意味がわからなくて震えながらじっとその男の人を見つめる。私はこわくて、手が届くところにあった枕をいつの間にか引き寄せて、ふわふわなそれをぎゅっと抱っこしていた。
そうしたら、ほんのちょっとだけ落ち着いた。
イケメンの言葉を受けて、美人さんが私にやさしく聞いた。
「……薫、いま、あなたは何歳か教えてくれる?」
「……十才、です……」
美人さんは私の声に、なるほどと言うみたいに頷いた。そしてイケメンに視線を流して小声で言う。
「どうやら、夏野の言うとおりみたいね」
カヤ、と呼ばれたイケメンは、ふむと頷いて、ほんのちょっと微笑んだ。
「怖がってるから……薬草茶でも飲ませて落ち着かせるか、朱鷺子。
十歳なら甘い飲み物の方がいいかもしれねえけど」
「ちょうど西の国から入った紅茶と蜂蜜があるから、それを使うわ」
トキコと呼ばれた女の人が微笑んで立ち上がり、部屋の隅に置いてあるかまどの方に歩いて行った。
私は、めちゃくちゃ胸がどきどきしていた。こわすぎるし、なんか、変だ。だって、かまどって、昔話みたい。
ここどこなの。
そして、このひとたち誰なの。
お父さんもお母さんもお兄ちゃんもいないのかな。
薫ひとりで知らないところに来ちゃったのかな。
そこまで考えて涙目になったとき、ぱたんと軽く、部屋のドアが開いた。
「朱鷺子、薫は気がついたか?」
……すらっとした男のひとが、歌ってるみたいな声で薫の名前を呼びながら、入ってきたのはその時だった。
その人は、藍色の着物を着てすっと立っていて、お星さまみたいな綺麗な目をしていた。ベッドの隅で震えながら枕をだっこしている私と、一瞬、見つめ合うみたいな感じになる。
さっき、カヤと呼ばれたイケメンがちょっと笑いながら言った。
「玲、薫はいま、十歳らしい」
あきら、と呼んだ。なんでだかわからないけど、その名前は薫の胸の奥に、月の光みたいにやわらかく光って入ってきた。この人の名前はあきらくん。覚えた。
「……は?」
あきらくんは意味がわからないという風に、カヤという人の方を振り向く。カヤは続けた。
「何かの拍子に、一時的に記憶が退行したんだろう。おびえてるから、落ち着かせようと思ってな。今、朱鷺子が紅茶淹れてる」
あきらくんは、へえ、というように何度か頷いて、もう一度ゆっくり私の方を見る。そして、きれいな動きで、私が枕を抱いて隅っこに座っているベッド、その脇に置いてある椅子に座って。
「そんなに身体かたくしてたら、疲れるだろ?
大丈夫、ここは薫にやさしい人ばっかりだから……とりあえず、俺と一緒に紅茶飲もっか」
ふふっと笑ったその顔がやさしくて、私は力一杯抱きしめていた枕をそっと脇に置く。体が震えてるのも少し収まっていた。それを見て、ほっとしたみたいに息をついて、あきらくんは言った。
「自己紹介しよっか。俺の名前は玲」
「……あきらくん」
私が呟くと、あきらくんの目がなぜか、ちょっと不安そうな感じに揺れた。あれ、名前呼ばれるの嫌かなって、私は心配になって、あわてて言っている。
「あ、私、日髙、薫です。あの、名前で呼ぶの嫌だったら、なんて呼んだら」
私の言葉に、あきらくんは目を丸くして私を見た。でも次の瞬間、くすくす笑いだして。
「おまえから君付けされるのになれてないから、ちょっとびっくりしただけ。でもそれも新鮮でいいな。好きなように呼んだらいい。別に、呼び捨てでも、君付けでも、どっちでも」
おまえ、って言われた。でもその言い方が甘くてやわらかくて、知らない人のはずなのに、ぜんぜん嫌な感じはしなかった。そして私は、この人は年上だから呼び捨てはちょっとな……って気持ちがあって、もう一度、そうっと彼の名前を呼んだ。
「じゃあ、……あきらくん」
その名前を呟くと、心の中でぴかっと光って、すぐには消えずに私の胸をあたためた。どこだかわからなくて知らない人ばかりのところで、それだけが私を助けてくれるような感じがした。
彼は、トキコと呼ばれていた美人さんから、紅茶を淹れた湯飲みを受け取って、私に手渡す。
「こぼさないようにな。熱いから、ゆっくり飲んだらいい」
その綺麗な声も、どこか寂しそうな瞳の色も、私は気になって仕方ない。でも初めて会ったのに、そして大人の男のひとに寂しそうなんて言ったら失礼だよねと思いながら、私は紅茶を一口飲む。
さっきトキコさんが、蜂蜜を入れるって言ってた。
そのやわらかい甘さが胸にゆっくり広がって、私はもう一度、ほっと息をついている。
「おいしい、です」
呟くと、あきらくんは微笑んで。
「それは良かった。もし、頭が痛いとかなかったら……、飲んだら俺と、散歩しないか?」
「うん。行きたい」
ちょっと身体があったかくなって、あきらくんの笑った顔にもうれしくなって、私は頷いていた。
「ここは治療室って言って……そうだな、学校で言うと、保健室みたいなところなんだけど」
飲み終えた私の湯飲みをトキコさんに返してくれながら、あきらくんは言った。
「裏口から湖に出れるようになってるから、ちょっと歩いてみようか。風に当たったら気持ちよくて、何か思い出すかもしれねえし」
思い出すって何なんだろう、と思いながら、私は鳥の雛みたいにあきらくんの後ろに続く。
彼は、トキコさんとカヤに「ちょっと散歩に連れていってくる」と一言伝えて、私たちは外に出た。
背中を追って行くと、そこには透きとおった大きな湖があって、遠くには綺麗な緑の山々が見えた。さらさらと風が吹いていて、植えてある木々の葉っぱが日の光にきらめいて揺れていた。気持ち良すぎて、ふわっと体が軽くなるような、そんな場所だった。
木の階段を降りようとした私に、自然にあきらくんが手を伸ばす。
「ありがと」
にっこり笑ってその手を握って、私が階段を三段まとめてぴょんと飛び降りると、少し驚いたように私を見た。でも、あきらくんはすぐにまた優しく微笑んで、私の頭をよしよしと撫でる。
なんだろう。
ほんのちょっとした仕草とか、やさしく私を見る目とか、笑った顔とか。
その全部が、忘れられない宝物みたいな感じで胸の中にずっと残る。
このひと一体なんなんだろう。
そんなことを思いながら、なぜだか私はあきらくんにそのまま手を引かれて、湖の脇の小道を、ゆっくり歩いた。それは、黙っているのに、その静けさが全然怖くない、不思議な時間だった。
「何か喋りたかったら、好きなことなんでも話していいんだぜ」
突然、あきらくんがそう言った。私は、うん、と頷いて。
「なんか、こわくないから。薫はあきらくんと黙って歩いてるの好きみたい」
そう言ったら、あきらくんは首を傾げて薫を見た。
「そうなんだ。それは、なかなか良いな」
私はまた、うんと頷く。
そう。なかなかいいと思っていたんだ。
そして彼が歩くと、その着物からふわりと良い匂いがしてきて、それもよかった。
私はあきらくんの手が私より少し冷たいことも気持ちがよくて、自然ににこにこして、彼の隣で歩みを進めた。
十分くらい歩いただろうか。
「ちょっと待って」
何か思い付いたみたいに、あきらくんがそれだけ言って、足元に咲いていたオレンジや黄色のたくさん花びらがついたかわいい花を、何本か摘んだ。
そして、少し湖から脇に離れた方に進んで、開けたところにぽつんとあった、つやつやした黒い丸石の前にその花を置いた。隣には、お水か何かが入った小さな杯がお供えみたいにして置かれていた。
「……お墓?」
私が聞くと、あきらくんは、うん、と頷いた。
「俺の母さんのな」
えっと思って、私は彼の隣に屈んで手を合わせる。
「あ、いいよ、別に。この国にはそういう風習あんまりねえし」
ぜんぜん気にしないって風に言うあきらくんを不思議な気持ちで見て、私は言った。
「亡くなったひとは見守ってくれてるから、手を合わせて、ありがとうって伝えるんだよ」
私が言うと、あきらくんはびっくりしたように目を見開く。
「でも、ここはそうじゃないなら、私だけやったらいいかも。うちのお母さん厳しいんだ」
私は、なんだか、たったひとつ、どうしても伝えたかったことを胸の中で言葉にした。
あきらくんのお母さん。
私、薫は、ここがどこかわからないんだけど、さっきからずっと、あきらくんに会えてよかったなあと思っています。ありがとう。
それだけ伝えて立ち上がると、隣であきらくんも、私と同じように手を合わせてた。目を開いて立ち上がって、なるほど、って呟いてる。
「すっきりするな、これ」
そして私を見下ろして、それだけ言った。
私は思わずにこにこして、あきらくんがすっきりしたなら良かったなと思ってた。
この、なんだかちょっと優しすぎる感じのこのひとが、すっきりしたり、うれしかったり、楽しかったりすることが、もっとたくさんあればいいなあ!
そんな風に思ったんだ。
(……ありがとう)
どこかから風に乗って、あきらくんに似たきれいな歌みたいな、でも女のひとの声が聞こえた気がして、私は石の方を振り向く。
気のせいかな。
でもきっと、あきらくんのお母さんも、嬉しかったかもしれなかった。
来た道をなんとなく黙って戻っていると。あきらくんは、さっき摘んでた花びらでいっぱいの丸い花、オレンジ色のそれを選んで、もう一本手折った。
この花なんだったっけ、と私はぼんやり考えている。
なんか、とてもうれしいことが前にあったような……。
「これは薫に」
彼に手渡されて、私はありがとうと言ってそれをもらっている。
「この花、こっちでは花金鳳花って言うんだけど……薫の世界では、ラナンキュラスっていうんだって。
ばあちゃんが教えてくれた。
おまえの誕生日の花が、ラナンキュラスなんだって。もうすぐ誕生日だよな。俺のことを、その日になってもまだ、思い出せてなくても……今年は一緒にお祝いしような」
ラナンキュラス。
その花の名前と一緒に、胸に滑り込んできた場面があった。
去年の誕生日。
なんだか玲とぎくしゃくしていた時期で、私は自分の誕生日を言えなくて、それを玲に教えるのが一ヶ月遅れになってしまった。
そうしたら、玲がおばあちゃんに相談して、プレゼントしてくれたものがあった。
私の目から、ぽろぽろと涙が零れた。
それを見た玲、驚いてそっと私の涙を指先でぬぐう。
「何か痛かったりしたか? トゲとかはなかったはず……」
「玲」
私、なんで忘れたりしていられたんだろう。
急に呼び捨てで呼んだから、玲は驚いた顔で私を見つめる。
「私、おばあちゃんが作って、玲がプレゼントしてくれたラナンキュラスのネックレス、置いてきちゃったの、ずっと後悔しててっ……」
それだけ言って、片手はラナンキュラスの花を持ったままだったから、もう片方の手で止まらなくなった涙を必死で拭く。
そうしたら、玲が心底ほっとしたような声で、呟いた。
「思い出した……」
私は泣きながら頷いている。
「ごめん。一瞬でも忘れたりして。なんで? いちばん忘れたり、したくないのに……」
「うん」
玲は微笑んで、やさしく頷いて。そのまま泣いてる私のことを、ふわりと抱きしめる。
「でも、思い出しただろ?」
頭の上から玲の声が、何か大切なメロディーみたいに耳に響いた。
私は黙って頷いている。
そして、祈った。
玲のお母さん。
このひとに会えて、幸せです。
私も幸せにします。って、そんな風に。
そして、顔を上げて、玲を見てそっと言った。
「今もらったこのラナンキュラスも、お母さんにお供えしようよ」
それを聞いた玲はちょっと眉根を寄せる。
「これは俺が! おまえにあげたの。母さんにはさっきお供えしたからいいの!」
「ええ~もう一回、玲に会えて幸せですってお祈りしたい~」
駄々っ子みたいに私が言うと、玲は一瞬沈黙して、その後でふわりと、まるで花が咲くみたいにうれしそうに笑った。
そして反射的に? なんだか我慢できなくなったという風に、私のこめかみに軽くキスをする。
「もう~玲! ごまかさないでよ~!」
「ごまかしてない。うれしい」
それは、さっきまでずっと感じていた玲の切ない雰囲気をまるごと払拭するような、きらきらが零れるみたいな声で、瞳の色だった。私は彼のひかる笑顔を見つめて、少し安心している。
「それはよかった」
ほっとした私の声が、風に乗って玲に届く。
玲は頷いて、言った。
「ばあちゃんが作ってくれたネックレスは、日本に行った時に取ってきたらいいだろ?」
私も笑う。
「うん。……この前、速水のお母さんのタンスに、ちりめん細工? みたいな小さなお花がいくつか入ってるの見つけたんだ。速水に聞いて、もし使っていいって言われたら、私ちょっと自分でも作ってみるよ。着物に合うかも」
「針とか使えるのか? 怪我して泣くなよ?」
「もう~! 練習するもん!」
文句を言う私に、玲、ははっと笑って。
そのまま私たちは、翡翠宮に戻ることにした。
あのね、小さい薫。
ここは知らない世界で、怖いこともあるけど。
この人は薫の、とてもとても大切な人になるんだよ。
薫はあきらくんのことを、大好きになるよ。
そして、あきらくんも、薫にたくさん幸せをくれるんだよ。
玲のことをまだ知らなかった十歳の私に、心の中でそんな風に伝えながら。
私たちは、湖からの気持ちのいい風に吹かれて、顔を見合わせて二人で笑う。
「ね、玲」
私が名前を呼ぶと、玲はにこにこして、私を見つめた。
「もし冷たい風が吹いてくる日も、こんな風に仲良くしようね」
そう言ったら、少し真顔になって。そして、彼は微笑んで頷いた。
「そうだな。雨の日も、風の日も……、雪の日もな」




