78. 西羅
私たちは翡翠に連れられて、西羅の部屋に入った。
豪華な調度品が置いてあるけれど、物は少なく、意外なほど実用的な部屋。
その奥の椅子に、がっしりしていて薄い茶色の髪……見ようによっては金髪にも見える髪色の、威圧感ある男の人が、力が抜けたようにだらりと腕を両脇に投げ出して、座っていた……。
彼の黒地に緑の模様が入った着物は、胸元や足の合わせの辺りが着乱れていた。
たしかに、その緑にも見える暗い色の瞳は、濁ったように何も映していないみたいだ。
一見だらしない風情というか、力が抜けている感じだけれど……そんな雰囲気の中でも、わかる。
すっと通った鼻筋に薄い唇、瞳を縁取る鳶色の睫毛……この人、通常の状態だったら、美丈夫と言えるほど、凜々しい人なんだろうと思えた。
私と夏野、滝の三人が部屋の入り口で立ち止まっていると、急に低く響く声で西羅は言った。
「……誰だ」
先にひとり、部屋の中央に進んでいた翡翠、さすがの雰囲気で動じずに口を開く。
「……侍女の翠です。……お茶をお持ちしました」
事前に翡翠は、精霊草を煎じた物を半分ほどお茶に混ぜ、急須に入れて、その手に持っていた。
西羅の傍に静かに歩み寄り、脇のテーブルに伏せられていたお湯のみを取って、それを注ぐ。
コポコポと、かすかな音が部屋に響いた。
「……不要だ」
ずっしりと重い、低い声。
玲みたいになめらかじゃない、でも、調子を崩していても凄みがあり、聞いている者の身体に響く。
きっと軍を指揮しているとき、この人の声は、兵たちの心を高揚させ鼓舞するだろうと思わせた。
「少し水分を取られなければ、お体に障ります」
翡翠の言葉に、西羅、笑い出す。
「今更、健康を害したといって、関係なかろう? ……まあ、いい。喉が乾いてはいるな」
おかしくなっていると何度も聞いていた。
でも。
その受け答えは、ぱっと聞いただけでは、まったく変な感じがしなかった。
いつもはもっと、整然と理論的に話す人、だったのかな……。
翡翠が湯飲みを渡し、西羅がぐっとそれを一気に飲み干した時、私はそっと翡翠の傍に歩み寄った。
滝と夏野は、私の後ろにいてくれている。
後ろで二人が私たちの護衛のために、刀に手をかける音が小さく聞こえた。
しばらく、私と翡翠は西羅の目の前で、沈黙して待った。
沼の底にいるみたいだった西羅の濁った瞳が、徐々に鋭さを増して……そして彼の目が、立ち並ぶ翡翠と私を、捉えた。
翡翠と私、ほとんど同じ二つの顔が、西羅の瞳の中で像を結ぶ。
「……翡翠……?」
低い声が確かめるように翡翠の名前を呼び、彼は怖いものを見たかのように、ゆっくりと立ち上がる。
西羅は、私と翡翠を交互に見つめた。
「なぜ、翡翠が二人……? ……幻、なのか……?」
翡翠が私の隣で、一歩前に進もうとした瞬間、西羅の表情がゆがんだ。混沌と狂気……そんな言葉が頭に浮かんだ。そして、まるで身が引き裂かれるみたいな叫び声を上げ、彼は後ずさろうとして……さっきまで座っていた椅子が、がたんと倒れる。
「……近づくな……! 翡翠は、行方不明のはずだ……俺を残して……いなくなった……!」
振り絞るようなその声が、私の胸の奥に直に響いた。
わかった。
翡翠が行方不明になった、その事実だけで。
彼の中で、コップの水が溢れるみたいに、何かが……恐怖か何か、そういうマイナスの感情が溢れてしまった?
愛し合うようになっていった、と、水牢で翡翠は言っていた。
お互いが、お互いのことを思っている、と。
なのに、気持ち的なすれ違いがこの状況を生んだのであれば。
助けられると、思った。
一度に飲ませると効き目がありすぎると朱鷺子が言って、精霊草を煎じたものは、少し時間を空けて半分ずつ飲ませるようにと言われていた。そして、朱鷺子はこうも言っていた。
『心が動揺しているときにこの薬はよく効く』と。
私は言った。
「……翡翠。この、最後の煎じ薬の半分を、……飲ませよう」
私が持っていた薬の小瓶を翡翠に渡す。
翡翠は頷き……彼女はさっと西羅の胸に飛び込むように、駆け寄った。
翡翠は素早く薬を口に含み、西羅の唇に自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬のことで、私も夏野も滝も、息を呑んで二人を見守る。
その一瞬、時間が止まったみたいだった。
西羅の喉が動き……飲んだことが見て取れた。
でも、次の瞬間。
西羅の筋肉質な太い腕がわずかに動いたのを見て、私は咄嗟に駆け出していた。
私は翡翠を跳ね飛ばそうとした西羅の腕を避けて、翡翠の身体を引き戻そうとして……完全には間に合わず、彼の腕が凄いスピードで翡翠の肩に当たり、引き寄せた私もろとも跳ね飛ばされた……!
バランスを失い床に倒れ込む私たち二人を、滝が駆け寄って支え、私たちと西羅の間に夏野が立つ。
「翡翠!」
思わず私も滝も、彼女の名を叫んでいた。
反動で床に崩れた翡翠の肩を、私は隣で必死に支える。
「……何の真似だ……! ここに翡翠が、……いるわけがない……!」
西羅の身体は、傍目にもわかるほど、がくがくと震えていた。
彼はまだ、完全には意識が覚醒できていない。
わからないんだ。
まだ、翡翠のことを完全に思い出せていないから。
「翡翠、しっかりして……目を開けて!」
私の声と動きに、翡翠がうっすらと目を開ける。
「……薫、大丈夫よ……」
小さな声で、でも、翡翠の綺麗な声は、ゆるぎない強さを持って、その場に響いた。その声が届いたのか、震えていた西羅の身体、その震えがぴたりと止まる。
「滝」
そして翡翠は、流れるように滝の名を呼んだ。
「私を立たせて。そして、申し訳ないけれど、西羅の前までつれて行って」
「あぶねえだろ……?」
心配する滝の方を翡翠はちらりと見て。頷いて、確固たる口調で命じた。
「大丈夫です。……連れて行きなさい」
その威厳は、東軍の将、姫将軍そのものだった。
滝が渋々と翡翠の肩を支えて立たせている間に、西羅から守るように私たちの前に立ってくれていた夏野が、西羅に近づく。
夏野は刀を下ろさず、いつも通りの冷静さで声をかけていた。
「西羅、……聞こえるか?
翡翠はここにいる。罠でも幻でもない……目を覚ませ」
彼の声には、どこか西羅への同情が混じっているように聞こえた。
西羅の瞳が、ゆっくりと夏野を捉える。
「……ここに……いるだと……?」
夏野は頷き、夏野の隣に翡翠を支えて、滝が歩み寄った。
「西羅」
そして翡翠が、凜とした綺麗な声の響きで、彼の名を呼んだ。
「西羅。私はここにいるわ。幻でも、罠でもない。翠という名前で、ずっと傍にいたの。一緒に、戦を終わらせましょう」
彼女の声は、草原を渡る風みたいに涼やかで、でも、力強かった。
青白い顔で、細い声で、でもその声には、西羅のことを信じるという絶対的な意志が秘められていた。
「……翠が、……あの侍女が……翡翠だった、だと……?」
西羅の身体は、再びがくがくと震え出す。
「……ずっと……?」
翡翠の言葉を繰り返して、半信半疑という様子で西羅は翡翠を見つめた。
静かな優しい沈黙が流れて、翡翠は頷く。
「翡翠……俺は、何をしていた……?」
彼の声は、まるで罪悪感に震えるみたいに、どこか儚くその場に響いた。
そして西羅は、翡翠を見た。
「……すべてを疑い、……見失っていた……おまえへの愛情も、……何もかも……」
翡翠は微笑み、言った。
「……私が行方不明になったのは……あなたを、この国を、すべてを良い方向に向かわせるには、どうしたらいいかと思ったから……。終わらせましょう、西羅。
そして、あたらしく、はじめましょう」
西羅は呆然と、でもまっすぐに、翡翠を見つめた。
「あたらしく、はじめる……?」
翡翠はつよく頷いた。
「愛だとか、……大好きだとか……もちろん、それも嘘ではないのだけど。
言葉であらわせる気がしない。
ずっととなりで……一緒に生きていきたいと思っているわ」
翡翠の言葉に、西羅は目を見開く。
「あなたと私が和平を結べば、戦は終わりにできる。
そして、新しい風雅の国を、一緒に、作りましょう」
西羅の瞳がうるむように一瞬揺れた。
そして彼は、確かに、頷いたのだ。




