76. 沙羅の街、砂原亭にて
青の間での話し合いの結果、玲は桔梗さんと翡翠宮に留まり、私と夏野、そして滝の三人で西の砦に馬で向かうことになった。
「距離的には割と近くて半日で着くが、砦まで馬で行くと格好の的だ。
ちょっと遠回りして、沙羅の街という西の砦に隣接した街がある。
西軍の領域だが、その街の端から忍んで行くのがいいだろうな」
と、夏野が言った。
夏野の夜光鳥を使って翡翠に日程を知らせると、"了解"と書かれた返事には、やはり夏野が言っていたのと同様に、沙羅の街経由で、と記されていた。
そして、その街の東端にある"砂原亭"という喫茶兼居酒屋で午後二時すぎに落ち合おう、と。
私たちは早朝、神殿の裏、厩舎の前で待ち合わせた。
二月下旬、まだ風がつめたい。外套を羽織った玲が見送りに来てくれた。
「ないと思いたいが……罠の可能性も考慮しとけよ」
玲が心配してそう言うと、滝が赤毛を揺らして笑った。
「翡翠に騙されるなら俺は本望だぜ」
「滝はそうかもしれないが……」
玲はあからさまに眉根を寄せた。
そして、すでに愛馬の炎群に乗った滝の、黒地に赤で模様の入った胴着、その襟元をぐっとつかんで顔を寄せ、玲ははっきりと言った。
「もし、まかり間違って操られた翡翠が攻撃してきても……絶対死ぬなよ、滝」
私は、湖のほとりに座り込んでいた滝の背中を思い出す。
滝は涙ぐんでしまうほど翡翠のことが好きなんだもんね。玲も心配ひとしおなんだろうと思って見ていると、滝はわざとみたいにへらっと笑った。
「死ぬかよ。俺様は不死身だ」
「……油断するなよ」
念を押す玲に、静かに笑って夏野が言う。
「玲、大丈夫だ。そのために俺も行く。絶対にそんなことにはさせない」
夏野の言葉にやっと玲は頷き……私を見つめた。
「薫も、くれぐれも気をつけろよ」
私、少し微笑み頷く。
そして玲を置いて、私たちは出発した――。
◇
途中の草地で、翡翠宮の料理長が作ってくれて持参していたお弁当を食べて、私たちは途中の村に馬を置かせてもらい、歩いて沙羅の街に入る。
翡翠の街は人の出入りを制限していない、と夏野が言っていたけれど、沙羅の街も同じらしい。検問みたいなことも特になく、するりと街に潜入できた。
翡翠の街は比較的端正な感じなんだけど、沙羅の街は砂地のためか、市場のようになっていた。違いがあって面白い。そして、翡翠が夜光鳥を使って指定してきたという"砂原亭"はほとんど街の端にあり、割とすぐに見つかった。
「こんにちはー……」
扉を開けると、小さな鐘がついていてカランと音がする。
時間は午後二時、店を見回すと、奥に店主らしい口ひげを生やした細身のおじさんが一人。傍に簡素な着物を着た綺麗な女の人がひとり……と思った瞬間、その人がやわらかな笑顔になった。
「夏野、滝、……そして薫。よく来てくれたわね」
あのとき、南の谷の水牢で会ったときと変わらない、凜と響く美しい声で翡翠が私たちの名を呼んだ。
「……翡翠……」
呆然とした滝の声。
「早かったな」
と、いつもながら冷静な夏野。
「……よかった、会えて……」
ほっとして、私も言っていた。
翡翠はにっこり笑って、私たちに店の出入口近くの席を手で示し、軽い足取りで歩み寄って自分も座る。
店主らしいおじさんが、人数分のお茶を持ってきてくれた。
「ありがとう、真砂。しばらくここで話をさせてね」
「勿論です、翡翠さま」
翡翠の名を知っている風の、真砂と呼ばれた店主の顔を、私たちはまじまじと見る。
翡翠は言った。
「実は、西の砦に父と交渉に来るとき、こちらで食事を取らせてもらっていたの。真砂は翡翠の街出身で……この一年、色々と助けてもらっていたのよ」
「見つからねえわけだな」
苦笑するように夏野が言って、翡翠、少ししゅんとした表情になる。
「夏野も、滝も……勝手にいなくなってごめんなさい」
どう見ても操られている風情ではなくて、私はそれにもほっとしていた。
すると、滝が言った。
「……別に俺は、翡翠が無事ならそれでいい。……元気そうで、ほんとによかった……」
声が少し掠れたことに私は気付く。二月に行方不明になったと聞いていたから、翡翠と会うのは、夏野も滝もほとんど一年ぶりのはずだ。私は、滝、よかったね……と、しみじみと彼を見つめた。
翡翠は微笑んで、頷いた。
「ここから先は、私が案内するわ。精霊草は、薬草庫に在庫があった?」
「いや、少し前に北の森に行くことになってな。その時に取ってきていた」
夏野が腰につけた皮袋から、煎じた液体を入れた小瓶を取り出す。
「足りないときのために、薬草も持ってきたよ」
それは私が持っていて、翡翠に見せると、彼女はふわりと笑った。
「ありがとう、薫。もし夏野が持っている煎じたものだけで事足りたら、これはまた翡翠宮の在庫にしてね」
私たちは目を見合わせて頷く。
ふと、夏野が翡翠に訊いた。
「……西羅がおかしくなっているという話は、南の谷で薫が翡翠に会ったという話の関連で、少し聞いていたが……翡翠の『癒しの光』はまったく効かなかったのか?」
……癒しの光???
滝も、そうだよな、と頷いて、翡翠を見つめている。
私はきょとんとして、翡翠と夏野を交互に見た。
翡翠は言った。
「流してはいるのだけれど……私の治癒の能力は、相手の心が閉ざされているとあまり効かないのよね。血を止めることはできるけれど、流れ出た血を戻すこともできないし」
「西羅の暗示の力の方が強いと言うわけか」
と夏野。翡翠は頷く。
そこで私は思い出す。
水牢で翡翠が助けてくれたとき、感覚のなかった足があたたまり、抱きしめてくれたときも、ふわりと身体が軽くなる気がして不思議に思っていたことを。
「……水牢でも、その力を使ってくれた……?」
私が聞くと、翡翠はやわらかく微笑んだ。
「あの時は話す時間もなかったから……私の母は神官の家系で、玲の伯母なの。神官の血には、玲のように『通り道』を使えたり、舞を舞ったりする能力の他に、人によっては、治癒の能力を持つ人がいるのよね」
「翡翠には治癒の能力がある、ということだ」
と、夏野が補足してくれる。
「……玲は、舞を舞ったりもできるの?」
玲の体調がよくなかったから、今まで見る機会がなかったのかな? 玲が舞うところをまだ見たことがなかった私は、そっと聞いた。私は兄が幼い頃から、祖父に舞を習っていた。玲が舞うという話は、これまで以上に親近感を感じる話だった。
すると、翡翠も夏野も、滝も一様に頷く。
「……こちらに戻ってきてからは、あいつの体調が完全じゃなかったからな。時間がなかったというのもあるが……。その内、回復したら、神殿の祈祷の時なんかに見ることもあるだろう」
と、夏野が言う。
「どんな感じなの?」
普段から玲の立ち居振る舞いは優雅な印象があるので、違和感はまったくなかった。
すると、夏野が言った。
「俺も何度かしか見たことがないが……あれは、至宝だと思ってる」
至宝。
この上なく価値ある宝物?
「それは、楽しみすぎるね……」
私は少し微笑んで……私たちは、西の砦でどのように西羅に薬を飲ませるか、話し合いを開始した。




