70. 玲と夢の雪 ー夏野ー
六歳のとき、父さんに連れられて俺は初めて神殿に来た。
石造りの大きな建物の中に入って、僧医たちに挨拶した後。
「じゃあ、玲。俺はまた薬草探しに行ってくるわ」
それだけ言って去って行く父さんの背中を見ていたら、はらはらと季節外れの雪が舞ってきた。
その後ろ姿が見えなくなるまで、俺は神殿の門の傍で立ち尽くしていた。
いつも父さんはすっきりと背筋を伸ばして立っていたのに、今まで見たことがないくらい小さく丸まった背中も、別れ際に一度も俺と目を合わせてくれなかったことも、その時のすべての光景が、六歳の俺の心の奥に、事実として刺さるように刻まれた。
……まあ、あれから十年以上経った今の俺なら、俺を神殿に置いていかなきゃならなかったアイツの苦しさも、多少はわかるような気が、しなくもないが。
神殿に預けられてすぐ、夏野と仲良くなった。
戦災孤児の夏野は俺より一年早く神殿に預けられていた。俺のことを心配した翡翠が、初日に同じ年生まれの夏野を俺に紹介したんだ。
玄奥も清涼も、神殿の僧医たちは優しく楽しく育ててくれたし、すぐに俺は夏野と仲良くなり、気にした翡翠もよく見に来てくれたりしていて、神殿でつらいことなんてひとつもなかった。
だが、冷たい石造りの神殿にひとり残された孤独と底知れない寒さみたいなものは、言葉にできないまま、別れ際の雪と父さんの背中の記憶と一緒に、俺の胸の奥にずっと残ることになる。
春に神殿に預けられて最初の冬が来るまで、何度となく、去って行く父さんと舞い落ちる雪の夢を見ていた。
俺は学び舎も、神官業務の勉強も、神殿の掃除や料理も毎日楽しく取り組んでいた。だがそんな中で、少し体調を崩すと、その夢の雪がどんどん降り積もり、夢の中で自分の身体が埋まっていってしまうようになっていた。
年が明けて一月。
神殿での初めての冬は厳冬で、俺は凍った湖に夏野と遊びに行った時、うっかり滑って冷たい水に腰まで浸かってしまった。
夏野が慌てて俺の身体を引っぱり上げ、ずぶ濡れで震える俺をおぶって、神殿に連れ帰ってくれた。
その夜、俺は高熱を出して寝込んだ。
「誘ったのは俺だから。ぜったい今夜は俺が玲についてる」
言い張る夏野に、僧医の清涼が仕方ないという風に、
「では、十時になったら迎えに来ますね」
と、一度俺の部屋から出て行った。
「…………父さん……」
熱に浮かされて、俺は父さんを呼んでいたらしい。
ふらふらと手を伸ばしたら、誰かの小さな手がぎゅっと握ってくれて、うっすら目を開けると目の前に心配そうな夏野の顔があった。
「ごめんな玲。俺が誘ったから。俺、今夜はずっとついててやるからな」
耳元で夏野の静かで、でも優しい声が聞こえて、俺は涙目になって夏野を見る。
「……かや……?」
「目、さめたか?」
ほっとしたように笑顔になる夏野。俺はまだぼんやりして夢と現実の区別がつかず、
「ぼく……雪に埋まっちゃった……」
と呟いた。
最初、はて? という顔をして、でも夏野はすぐに何か思い付いたように笑顔になる。
そして、急にごそごそと、俺の横に潜り込んできた。
「なにしてんの……?」
身体が凍りつくみたいに寒かったのに、夏野が潜り込んできた途端にふわっと暖かい感触がして、俺は泣くほど安心していた。すると夏野が言った。
「俺も寒いから! 一緒に寝てやるな」
「……うん……かや、あったかい……」
「おうよ。次は暖炉の夢見るぜ」
俺はふと笑って、うん、と頷いて安心してすうと眠った。
父さんが太陽だとしたら、夏野の笑った顔は月みたいだ。暗い夜にそこにいて、そっと照らしてくれる。
驚いたことに、夢の中で雪に腰まで埋まっていた俺は、その雪が膝のあたりまで溶けていることに気付いた。
もしかしたら、俺は大丈夫かもしれない。
神殿に来て、そんな風に最初に思ったのは、夏野とのその出来事だった。
そして"僕"ではなく"俺"と言うようになったのも、この時からだったと思う。
夏野は子供の頃からいつも冷静で一見冷たいようだが、その心の奥には物凄く熱いものがあり、夏野からの友情で俺は人のあたたかさというものを知ったような気がしている。
そう、夏野の『暖炉の夢』という一言がきっかけで、少しずつ俺の心は温まり、雪の夢を見る頻度は減って行った。
翌日、夏野が食事を運んできてくれて、
「俺もここで食べてやるよ」
と言って一緒に食べていた時、少し熱も下がって回復途中にあった俺は言った。
「夏野、ありがと。俺、がんばる」
そうしたら、 夏野がにっこり笑って言ったんだ。
「おう、一緒にどこまでも行こうぜ」と。




