69. 幼い玲、龍樹との旅
物心ついた時にはもう母さんは亡くなっていて、俺は父さん……龍樹と二人で薬草採取の旅をしていた。
「綺麗ね!」
あれは四歳くらいの頃だったと思う。薬草を採るために入った森で、木の上に咲くピンクの花々を見て俺は笑った。すると父さんが真面目な顔で、
「玲、これは毒だからな。触っちゃだめだぞ」と言う。
「毒、こわい……」
驚いた俺が目を丸くしてそう言うと、父さんは笑った。
「あっは! 触らなきゃいいんだ。この木は、花も枝も毒があるってことは覚えとけよ」
太陽みたいな笑顔で父さんが言う。
二歳から六歳の頃。大好きだった肩車や笑い声。
でも夜が更ける頃になると、父さんが窓の外を……真っ暗な夜闇を眺めている時、ひどく悲しそうな顔をしていることを、俺は幼いながらに感じ取っていた。
俺の母さんは、深夜に北の森で呪いのために亡くなったと、後で聞いた。
夜、寝る時に父さんが歌ってくれた歌は、幸せな中にどこか切なく響いて、今でも忘れることができない。
ふと夜中に目が覚めると、時折、父さんはうなされていた。そのつらそうな寝顔に気付いた俺が、いつも歌ってくれていた子守歌をそっと歌ってあげたこともあった。
俺にとって、父さんとの旅はあまりにも楽しくて、俺は、それがずっと続くものだと思い込んでいたんだ。
その旅が終わったのは、六歳の時だ。
旅の間も何度となく、亡くなった母さんは神官というもので、いつか俺もその神官になると教えられていた。
俺は母さんのことはほとんど覚えていない。
記憶にあるのは、さらさらの長い黒髪と、「玲」と俺を呼ぶやさしい声、そして綺麗な青と金色の残像……。母さんの瞳の色が青みがかった黒だったとは、神殿に入った後で僧医の清涼から聞いた。
そして突然、その日は来た。
綺麗に晴れた春の日。父さんに連れられて、翡翠宮という御殿に来た俺は、従姉弟でこの国の姫だという、少し年上の翡翠に会った。俺が二歳まで……父さんと旅に出る直前まで、よく遊んでいたと言う。
言われてみれば、その翡翠の幼い中にも毅然とした雰囲気と、その反面、一対一で話している時に見せる繊細で優しい表情には、何かなつかしい面影があった。
憂いを含んだ大きな瞳に、薄い唇。俺の母さんと似た、さらさらの長い髪。二月に十歳になっていた翡翠は、幼い俺でも一瞬見つめてしまうほど、綺麗な少女だった。
その日から一週間ほど、翡翠宮の客間に俺たちは泊まっていた。翡翠の母で"国の母"という称号を持つ紅羽さまの体調が悪いという話で、薬師の父さんはしばらくの間、旧知の仲だった紅羽さまの看病をすることにしたみたいだった。
そして、別れの日は急にやって来た。
しんと寒い朝だった。
父さんは黙って、翡翠宮から神殿へと続く砂利道を、俺の前を先に歩いていた。
俺は黙って父さんの背中を見つめながらついていっていたけれど、前日の夜から、何か言いかけてはやめる様子の父さんに、ただならぬものを感じていた。
神殿の大きな門の前に着いたとき、しばらく立ち止まってその奥の三階建ての大きな石作りの建物を見上げ、そして父さんはゆっくり振り向いて、俺と目を合わせるようにして屈んだ。
「玲。おまえの母さん、奏は神官の娘だった。おまえにも、神官の一族の血が流れてる」
「うん」
今まで何度も聞いた話だった。俺はこくんと頷いた。
「おまえは六歳になった。神殿は、神官を育てる場所だ。おまえはこれから、この国を守る神官になるために、勉強をはじめないといけない」
「……うん」
そこまでは、なんとなく流れとして理解できた。少しの沈黙のあと、俺はまた頷く。
「そこで、これから、おまえが神殿で勉強をはじめるために挨拶にいく」
「うん」
そのまま黙って歩きはじめる父さんの背中に、俺は話しかけた。
「父さんは挨拶したあと、どうするの?」
俺の声に、驚いたように歩みを止めて振り返る。それまで、ぱぱと呼んでいたが、前日に翡翠宮で読んでいた子供向けの本に、父さん、母さんという呼び方が書いてあったのを見て、試しに使ってみたんだ。
「きのう、読んでた本で、子供がぱぱのことを父さんって呼んでたから言ってみた」
にっこり笑う俺を、父さんはしばらくじっと見つめた。その後、ゆっくりと俺の目の前にもう一度屈んで、俺のことをぎゅっと抱きしめた。
髭がちくちくしてくすぐったい、と笑う俺の耳元に囁くように、父さんは小さく言った。
「……俺は、もう一度、薬草を探しに行ってくる」
俺の肩が びくんと震えたことを今でも覚えてる。
でも、何も言わなかった。 幼心に、なんとなくわかっていたから。
沈黙する俺に、父さんはふと息をついて、俺の両肩をつかんで、目をあわせた。
「ぜったい帰ってくる。約束する」
俺は何も言えなくなって、ただ瞬きをした。涙がぽろりとこぼれる。 父さんはそんな俺をもう一度つよく抱きしめた。
十七になった今となっては、大体あんな風に大事そうに抱きしめるくらいなら連れて行ってくれと思うが、去って行ってしまったものは仕方ない。
理屈ではわかる。
神官の直系は俺一人しかいない。
そして、翡翠の街の子供たちは、六歳くらいから神殿の学び舎に通い始める。
父さんが、たった一人の神官直系の俺を、街の他の子と同じ六歳から、勉強を始めさせなければと思っただろうと、理解はできる。
ただ、頭で解っていることでも、心の奥は納得できないってことも、あるんだと思う。
「俺もがんばる。だから、玲も、神官の勉強がんばれ」
父さんの少しかすれた声が耳に響く。
あの時の俺は、父さんの胸の中で頷くことしかできなかった。




