103. 夏野の名言
「……薫、解熱の薬湯を煎じた。起き上がれるか?」
かたんと、枕元の台に器を置く音が響いた。同時に耳に届いた夏野の静かな声に、私はうっすらと目を開ける。
「……どうにか……」
呟きながら上半身を起こすけれど、頭はぐらぐらするし、掛け布団がお腹の方に落ちてぶるっと震えた。
「俺が器を持っておくから……飲めるか?」
私は頷き、夏野が私の口元に持って来てくれた器に右手を添えて薬湯を飲み干す。
「……なんか、ちょっと楽……」
そう言ったら、いつも冷静な夏野にしては珍しく、ふと息をついて。
「それは何よりだ。……稽古着のままだとごわごわして寝づらいだろう? 少し動けるようなら、天幕を下ろしておくから治療室の寝間着に替えたらいい。着替え終えたら教えてくれ」
浴衣と羽織を受け取ると、夏野はベッド脇に束ねられていた仕切り用のカーテンを引き、間仕切りみたいにしてくれた。天井から吊されてるから天幕って言ってるのか……。
なるほどと思いながら、少し動けるようになった私、寒いながらも着替えさせてもらう。土で汚れた稽古着のままで龍樹さんのお家に行くことは、さすがに避けたかった。
数分後、着替えたよと声をかけると、夏野がもう一度カーテンを開けてくれた。
「玲が戻ってくるまでもう少し寝てな。これで額冷やしとけよ」
滝が奥から持って来た濡れ布巾を受け取って、おでこに当てると冷たくて気持ちよかった。人心地ついた私、ちょうど傍の椅子に座っていて目が合った滝に、気になっていたことを聞いてみる。
「……玲、腹立ってじっとしてられないって言ってたけど……だんだん、玲が怒るときって心配してるんだ、ってわかってきたけどさ……私以外の人にもあんな風に怒ることある……?」
それを聞いて、滝は少し考えるように目線を天井の方に流した。
「あんまし見たことねえな」
やっぱり無いよね。私だけなのか。
玲がああやって怒る度に、嫌われちゃったと思って胸が凍りつくみたいになるんだけど、嫌になったのか聞くべきなんだろうか……ちょっと小学生みたいかな。
そんなことを考えていたら、部屋の奥のかまどの方に行っていた夏野がさらっと言った。
「あれは玲の甘えだ。龍樹さんにも同じくらい怒るから、気にしなくていい」
夏野の声に、滝が「ああ!」と笑った。
「言われてみりゃあ、龍樹さんにもすぐ怒るよな。甘えか~なるほど!」
そのまま滝はくっくと笑って。そうしたら、夏野が杖をつきながら私のベッドに近づいてきて、枕元にもうひとつ、お湯飲みを置いた。
「これは薬湯じゃないんだが……生姜湯。寒そうにしてるから、飲めるようなら飲んどけ。少し身体があたたまるだろ」
さっき熱冷ましの薬湯を飲ませてもらい、浴衣に着替えて少し気楽になっていた私、もう一度起き上がって生姜湯もいただく。
「甘えてると玲は怒るの?」
聞くと、夏野はにやりと笑って、さっき私が飲んで脇に置いていた薬湯用の器を手に取り、私に見せる。
「例えば、この器に、水をたくさん入れすぎたらあふれるだろう?」
そうだね、と私は頷く。夏野は続けた。
「今日みたいなときの玲の怒りは、それだと思うが」
「……キャパオーバー?」私はそっと言った。
「キャパってなんだ?」滝が聞いてくる。
「私のいたところで、容量を超えるみたいなことを言うんだけど」
「そういうことだ」
夏野は微笑んで、器を持って流しの方に歩いて行く。そんな夏野を見て、滝がまた笑って言った。
「なるほどなあ、それあるんだろうな。たぶん、玲のここまでならできるって範囲を、おまえがぽーんと超えるんだ」
「そんなことないよ。私、できないこと多いし」
私は即座に否定している。だって私は翡翠みたいに、姫将軍として育ったわけでもなく、強くもない。必死で皆にいろんなことを教えてもらって、その場その場の対応をしてきただけだと思っていた。
そうしたら、滝は首を振った。
「いや、超えてる。おまえの鍛錬してた俺だからわかる。あんな短期間でああいうことは、翡翠にもできねえ」
断言されて絶句する。そんな高い評価、想定していなかった。滝は続けた。
「おまえは、もともとガキの頃から姫やってた翡翠と比べられてんだぜ? できなくて当たり前だろ。それでもおまえは食いついてくる。だから皆、割と最初からおまえのことを認めてる」
「そうなの?」
「俺は、夏野が、上出来だなんて言う相手を見たことがねえよ。初陣のとき言ってたろ。なあ、夏野?」
話を振られて、器を洗い終えて部屋の中央の椅子に座っていた夏夜、頷いて。
私も夏野が、初陣の後に上出来と言ってくれたことは記憶にあった。目を丸くして夏野を見ていたら、彼は言った。
「玲はたぶん、薫のことは家族同然に大事なんだろう。北の森に行こうとした時がいい例だが、俺や滝が無茶をしようとすると、玲は不機嫌になることがある。それは、玲の対応能力を超えるからだと俺は思ってる」
夏野の言葉、はちみつみたいに心にしみた。
私が玲に対して思っている、嫌われたくない、役に立たなきゃだめだって怖さがじわりと溶けていく。『家族同然に大事だと思ってる』って夏野の言葉が胸の奥に届いた瞬間、涙が一粒ぽろっと落ちた。
「おっと、何泣くんだおまえ! 俺たちが玲にどやされっだろ!」
滝は慌てて、夏野はにやにや笑ってる。
私は涙を拭って、少し笑った。
「夏野、滝も、ありがと。なんかちょっと元気出た……」
そう言ったとき、治療室の扉が静かに開き、同時に玲の声がした。
「馬車の準備できたぜ」
「あ、ありがと玲」
涙をぬぐう私と目を合わせて、明らかに慌てた表情になる玲。
「なんで薫、泣いてる? 不安だろうからついててくれって言ったのに、夏野も滝も何してる!」
また急に声を荒げるから、私は涙が止まり、夏野も滝も吹き出した。
「笑うところじゃねえだろ!」
動揺したのか、なんだかあたふたしている玲に思わず私も笑ってしまう。
「元気づけてたら薫が安心して泣いたんだ。別に苛めてたわけじゃない」と夏野。
「そうだぜ~俺たちはお前だけじゃなく、薫の味方でもあるんだぜ?」と滝の声。
「そうだよ玲。それに私、さっきより、ちょっと楽になってきたよ」
微笑む私に玲は小さな声で、それならいいけどと言って、私たちは皆で笑った。
玲は家族同然と思ってくれていて、そして、滝は味方だと思ってくれている。自分はしあわせなんだと思うことが、こんなに勇気をくれると思わなかった。
私は心強い三人の男の子たちを見渡して、なんだかとてもほっとして微笑んだ。




