第22話:目覚めと出発
――静かな朝だった。
差し込む陽光が薄いカーテン越しに揺らぎ、室内を柔らかく照らしている。
かすかに聞こえる鳥の声と、外のざわめき。
それらの音が、夢と現実の境界をぼかしていた。
「……ん、……?」
静流はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりと霞む視界の先、白い天井。
だが、すぐに違和感を覚えた。
温かいものに抱きついている自分。
腕に力を入れると柔らかいそれはモゾモゾと動き、抱きしめ返してきて胸の間に収まった。思わずいつものように胸元に見えたうなじに顔をうずめ、ちろりと舐めるとビクッと跳ねるように驚き嬌声を上げた。
驚きで跳ねたエリンは、一瞬目を開けかけて――また夢に戻るように力を抜いた。
暫く寝ぼけたままイタズラを続けた静流は不意に思い出した。今いるのは異世界だったと。
視線を動かした瞬間、現実が急速に輪郭を取り戻す。
彼女はベッドの中で、誰かに抱き締められていた。
いや、正確には、自分の腕がその相手の腰にまわっている。
――エリンだ。
息が止まり、胸が跳ねた。
その感触は夢にしてはあまりにも現実的で、肌に残る温もりは否定の余地を与えなかった。
(……なんで……?)
目に映る彼女の金の髪に触れる。
少し寝癖がついていて、甘い香りが近かった。
呼吸をするたびに胸の奥がざわめく。
(……昨日の記憶……宴会で……キノコ料理……ジュースを飲んで……それから……?)
脳がぐるぐると回転するが答えは出ない。
代わりに――心臓の音だけが耳の奥でうるさいほど響いた。
エリンがゆっくりと目を開けた。
瞬き一つ、そして……静流と目が合う。
二人の距離は、息が混じるほど近かった。
「……お、おはよう……静流」
「……おはようございます……?」
彼女の吐息が頬にかかる距離だった。
離れようとしたのに、腕がうまく動かない。
自分の指先が、彼女の柔肌に触れてしまっている。
(やわらかい…………)
エリンに触れていることで安心感を覚える一方、何故このような状況になっているのか分からず、どくどくと心臓が速く動いていた。
そのとき――
部屋の入り口から、低い息の音が聞こえた。
「……起きたか」
ヴァルターだった。
扉の前で椅子に座り、目を閉じたまま、剣に手を添えている。
(……何故ヴァルターが同じ部屋に……!?)
静流の身体がびくりと強張り、エリンも同時に顔を赤くした。
「ヴァル!? ちょっと、いつから起きてたのよ!?」
「さっき起きた……」
短く、平然と答えるヴァルター。
だが、まぶたの下でわずかに動く瞳が、すべてを知っているように見えた。
「……っ、ち、違うのよ!?」
「説明は要らん。俺は何も聞いてない」
静流は思わず目を伏せ、心臓を押さえた。
……豊満な胸部が邪魔で距離が遠い。しかしその鼓動が激しいことは感じられる。
――エリンにイタズラをしたのが知られているかもしれないと思うと恥ずかしい……。
エリンは息を吐き、髪をかき上げながら苦笑する。
「……まったく、朝から心臓に悪いわ」
「……そうですね」
静流は小さく呟いた。
その声はまだ震えていたが、少しだけ柔らかく笑っていた。
外では、鳥の声が再び鳴き始めている。
張り詰めた空気の中に、ほんの少しだけ“温度”が戻った。
――静かな朝が、ようやく動き出した。
ベッドの上にいた静流とエリンは、ようやくゆっくりと身体を離した。
「……寝ぼけてたみたいです。ほんとにすみません……!」
許して欲しいという気持ちを込め上目遣いで言う。
エリンはそんな静流の様子を見て小さく微笑み、軽く寝癖のついた金の髪をかき上げながら嬉しそうにしていた。
「いいのよ、気にしないで。……むしろ寝ぼけながらでも……嬉しかったわ……」
「……それならよかったです……」
少し安心し言葉を詰まらせる静流。
エリンはレズビアンなので大丈夫だとは思っていたが、自身の精神は男なので少し罪悪感が残った。
エリンはくすっと笑いながら、ベッドの端に腰掛けた。
「……でも、変だったわね。昨日の夜、あなたの体調が急に悪くなったの。キノコ料理を食べた後、ジュースを飲んで……すぐ眠っちゃったのよ。覚えてる?」
「……そこまでは、なんとなく……。あの後、何かありましたか?」
問いかける静流に、エリンが少しだけ顔を曇らせる。
「……宴の中で、酔った木樵たちがちょっと危ない雰囲気だったの。でも、ヴァルターが一瞬で黙らせてくれたわ。あなたはそのまま眠ってたけど……本当に危なかったのよ」
静流は驚いたように目を瞬かせた。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……助けてもらってたんですね」
「そう。でも気にしないでね?仲間なんだから当然でしょ?」
エリンはそう言って、そっと静流の髪を撫でた。
その柔らかな手のひらの感触を受け入れる。
甘えているようで少し複雑だ。
けれど、不思議と――嫌ではなかった。
ヴァルターの声が、そこで静かに割り込む。
「……仲間、だからな。でも油断しすぎると良くないぞ」
彼はまだ扉の前の椅子に腰かけたまま、静かに立ち上がった。
剣を腰に戻し、少し伸びをしてから振り返る。
「……二人とも支度をしろ。出発の準備をする」
「はい……」
静流は慌てて毛布を直し、脱げていた衣服を着直す。
エリンも同じように着替えを整えながら、ちらりとヴァルターの背を見つめた。
その表情に、ほんの少しの寂しさが見えた。
――ヴァルターは、二人の間に流れる空気を感じ取っていた。
静流とエリンの距離感が近いことを。
笑い声が重なったとき、自分だけ少し離れた場所にいる感覚。
だが、彼は微笑んだ。
ほんのわずかに、誰にも見えないほど小さく。
(……いいことだ。仲間が笑っているなら、それでいい)
そう心の中で呟き、ヴァルターは扉を開けて朝の光の中へ出た。
その背中を見送りながら、静流はぽつりと呟いた。
「……ヴァルターは優しいですね」
「そうね。でもヴァルは優しすぎるところがあるの。自分の感情を置き去りにして、誰かを守ろうとする。……だから、放っておけないのよ」
エリンはそう言って、静流の肩にそっと手を置いた。
その温もりに、静流の心がまた少しざわめく。
――身体は女、心は男。
二人の“仲間”としてここにいるが、精神と肉体のズレが自身の対応を曖昧にする。
これから上手くやっていけるか心配だけれど、仲間を傷付けずに共に生きて行きたい。
――静流は自然とそう思っていた。
――――――――――――
――朝の支度が整った。
鏡に映る自分の顔に、まだ“自分”という実感が持てない。精神と肉体の不一致はどうにもその心を重くさせる。
宿の外に出ると、朝霧が薄く立ちこめており、街全体がまだ目を覚ましたばかりのようだった。
焚き火の煙が漂う中、パンの焼ける香ばしい匂いと、遠くの鍛冶場の金属音が重なる。
静流は小さく息を吐きながら、腰のポーチを確認する。錬成素材、携行用の魔石、緊急用の回復薬。
――どれも昨日のうちに整えておいた。抜かりはない。
「静流、準備できた?」
背後から声をかけてきたのはエリンだった。
金の髪を後ろで束ね、軽装の神聖な雰囲気の衣服で身を包んだ彼女は、昨日よりも少し頼もしく見える。
「はい。忘れ物はないと思います」
「ふふ、あなたって几帳面ね。……そういうところ、助かるわ」
柔らかな笑みを向けられ、静流は少しだけ頬を赤らめた。
ヴァルターはそのやり取りを横目で見ながら、剣の刃を点検している。
彼の表情には緊張感はなく、ただ静かに出発の準備を進めていた。
そこへ、ギルドマスターのラゴウと、補佐のアリシアがやってきた。
真剣な面持ちで冒険者たちを見回している。
集まったのは十数名の冒険者たち。大半はブロンズランクの冒険者で、昨日の宴にいた顔も混じっていた。
「――全員、集まったな」
ラゴウが低く、しかしよく通る声で言った。
その瞬間、場のざわめきがすっと消え、皆の視線が彼に集中する。
「これより、ゴブリンの集落制圧作戦を開始する。今回の目的は、集落の完全殲滅と巣穴の封鎖だ。……いいか、逃げた個体を見逃すな。被害が再発する」
いつもの荒っぽい口調を改めて告げるラゴウ。
一拍置いて、冒険者たちの顔を順番に見渡した。
その視線には、いつもの陽気さはない。
「今回の作戦の役割を説明する。まず、周囲の警戒と退路の封鎖は、お前たち一般冒険者の仕事だ。決して深入りするな。敵を取り逃がさないようにだけ集中しろ」
静まり返った空気の中、冒険者たちが一斉に頷いた。
「次に、殲滅を担当するのは、ミスリルランクのヴァルターとエリン。お前たちは主戦力だ。無理はせず、確実に仕留めてくれ」
「了解した」
「任せておいて」
ヴァルターの低い声と、エリンの凛とした返事が重なる。
その響きに、場の空気が一段引き締まった。
ラゴウはうなずき、静流の方へ目を向けた。
「今回の道案内は、このゴブリン集落を発見した静流が務める。お前が見つけた場所へ皆を案内してもらう。現場に着いたら、地形の把握と巣の位置を正確に伝えてくれ」
「……はい、任せてください」
静流は一歩前に出て、はっきりと答えた。
緊張と同時に、わずかな誇りのような感情が胸に広がる。
アリシアが少し微笑みながら声を添える。
「静流さん、無理はしないでくださいね。あなたがいたから、私たちは動けるんですから」
「ありがとうございます。……気をつけて行ってきます」
そのやり取りを見ていたラゴウが腕を組み、短く頷いた。
「――よし、以上だ。出発は五分後。各自、最終確認を済ませろ!」
号令と共に、冒険者たちが一斉に動き出す。
武具の音、靴底の土を踏む音、風を切る音。
それぞれが自分の役割を理解し、整然と準備を進めていた。
静流は万物保管庫を誤魔化す為に背負ったリュックを確かめると、ヴァルターとエリンのもとに並ぶ。
「静流。緊張してるのか?」
「……正直、少しだけ」
「大丈夫。私たちがいるもの」
その言葉に、静流はわずかに息を吐いて頷いた。
やがて、ラゴウが前に立ち、右手を高く上げた。
「――出発しろ!」
短い号令とともに、静流たちの後ろを十数人の冒険者たちが一斉に進み出す。
朝日が昇り始め、森の木々が黄金色に染まっていく。
その中で、静流は一歩ずつ前へと進む。
独りでの攻略を断念したゴブリンの巣へ、再び。
だが今回は違う――。
もう独りではない。
仲間と共に、力を合わせて進むのだ。
その背中には、ヴァルターの冷静な気配と、エリンの温かな視線が寄り添っていた。
そして、三人の足音が、冒険者たちの足音と共に朝靄の中へと消えていった。




