頭の穴
「ん? なんだこれ……えっ、やばくないか……?」
とある会社のオフィス。自席で黙々と仕事をしていた彼は、背後から聞こえた声に振り返った。そこには、眉をひそめた同僚が立っており、じっと彼の頭頂部を見つめていた。
「……え? 僕ですか?」
「ちょっと動くな……おい、お前、頭に穴が開いてるぞ!」
同僚が声を上げ、周囲の視線が集まり始めた。
「え、あの、ハゲちゃってますか? はは、そんな大声で言わないでほしいな……」
彼は苦笑いを浮かべ、か細い声で返した。以前から、この同僚の無神経さには辟易しており、苦手意識を持っていたのだ。
だが、今回はどうも様子が違う。相手の表情には、からかいや悪意が一切なかった。
「ち、違う! 穴だよ、穴!」
「どうしたの?」
「穴って……え、本当だ!」
やはり冗談ではないようだ。他の同僚たちも次々に集まり始め、誰もが驚きと興味を隠せない顔つきで覗き込んだ。
彼は不安になり、そっと自分の頭に手を伸ばした。髪をかき分け、ゆっくりと指先を這わせていく。すると、異様な感触が指に伝わり、彼は思わず「あっ」と声を漏らした。
本当に穴があったのだ。直径三センチほどの、まるで機械でくり抜いたかのように整った穴が、頭のてっぺんにぽっかりと開いていた。
「なんでこんなもんが……」
「鉄パイプでも落ちてきたんじゃないのか?」
「いや、こいつでもさすがに気づくだろ」
「寄生虫とか皮膚病かも……」
「いやあー!」
女性社員が芝居じみた悲鳴を上げ、周囲の視線が一層集中し、ざわめきが広がっていく。
「痛くはないの?」
一人がおそるおそる訊ねた。
「ええ、まあ……僕も言われるまで気づかなかったです」
「血も出てないし、どうなってるんだ。あっ、結構奥まで入るぞ」
「おい、指なんて入れるなよ。ばっちいな」
「そうよ、病気かもしれないのよ」
「脳みそに触れたらどうするの」
「何を騒いでいるんだ、君たち。仕事中だぞ」
「あ、課長。でも、この穴を見てくださいよ!」
騒ぎを聞きつけ現れた課長が、人だかりをかき分けて彼の頭を覗き込んだ。眉間にしわを寄せると、すぐにうんざりしたような顔つきに変わり、重たげなため息をついた。
「……いいから、仕事に戻りなさい」
その一言で、同僚たちはしぶしぶ席に戻っていった。
注目されること自体には悪い気はしていなかった彼は、少し寂しげにその散っていく背中を見送ると、再びパソコンに向き直った。
――でも、この穴ってなんだろう……?
そもそも、あまり気味のいい話ではなかったのだろう。以降、同僚たちの間で穴の件は徐々にタブーのようになっていき、誰も話題を振ってこなかった。
だが、穴は日ごとに広がっていった。
手で触れるたびに不安が募る。髪で隠そうとしても、うまくいかなかった。病院にも行ってみたが、医師は一様に首を傾げるばかりで、はっきりした診断は出なかった。検査と診察に費用と時間ばかりを取られ、精神が擦り減っていった。
相談する相手もおらず、一人で悩み続けた彼はある晩、仕事帰りに慣れない酒をあおった。その夜は酔わなければ眠れそうになかった。
「もう、なんなんだよ……」
すっかり酔いが回り、足元がおぼつかず、彼は駅のホームのベンチに腰を下ろした。
背もたれに肘をつき、ぼうっとしていると、だんだんまぶたが重くなってきた。眠気に誘われるまま、ゆっくりとまぶたを閉じる。ちょうどそのとき、目の前をふらふらと男が横切った。
酔っ払いがそこにもいたか、と彼はどこかほっとしながら、うつらうつらと意識を静めていった。
しかし、次の瞬間――。
「……えー、私はねえ、昔、ひどい裏切りをねえ、してしまったんですよ」
「え?」
彼はぎょっとし、目を見開いた。男が目の前に立ち、まるでそこにマイクがあるかのように、彼の頭に向かって語り始めたのだ。
「ちょ、ちょっとなんなんですか!」
「あえ?」
「あえ? じゃないですよ。なんですか、人の頭に……」
「だってえ、そこに穴があるから。ねえ? もしもーし! 聞こえてますかあ!」
「や、やめてくださいよ!」
彼は慌てて男を振り切り、ちょうど到着した電車に飛び乗った。吊革にしがみつきながら肩で息をし、窓に映る自分の顔を見つめる。少し頭を傾けると、そこにはぽっかりと開いた黒い穴が確かに映っていた。
その日以来、彼の頭の穴を見た者たちは、次々にその穴へ向かって語りかけてくるようになった。
理由を訊ねると、「なぜか秘密を打ち明けたくなるんだ」と、皆が口を揃えて言う。まるで『王様の耳はロバの耳』だ。
そのせいで、彼は常に周囲を警戒するようになった。帽子を深くかぶり、風が吹けば「ひっ」と小さく声を上げて振り返り、体を強張らせた。首筋に誰かの息吹がまとわりつく感覚が絶えずつきまとった。
家に帰り、布団に潜り込んでも落ち着けなかった。目を閉じれば、穴へ吹き込まれた声が頭の中をぐるぐると渦を巻くのだ。
――浮気がばれたかもしれないんです……。
――会社のお金、ちょっと借りたんだけど……。
――友達とちょっとやらかしちゃって……。
――万引きがやめられないんです……。
誰かの罪や後悔が、まるで自分の記憶のようにこびりついて離れない。寝ても覚めても、頭の中に誰かが棲んでいるようだった。眠れない日々が続き、やがて彼は仕事を休み、家に閉じこもるようになった。
やむなく外出する際は、必ず帽子を目深にかぶり、顔を伏せて早足で歩いた。
だが、そんな生活にも限界があった。ある晩、息が詰まりそうな感覚に耐えきれず、彼はふらりと外に出た。
深夜の公園。ベンチに腰を下ろし、大きく息を吐く。人けはなく、風は静かに葉を揺らす音と、自分の呼吸音だけが耳に届いた。たったそれだけのことが、今の彼にはとても贅沢に感じられた。
だが、そんな安堵も長くは続かなかった。
「……あっ、な、何をするんですか!」
不意に現れた男が、帽子を乱暴に引き剥がした。驚いて立ち上がろうとした彼の前で、男は帽子を握りしめ、絞るような声で言った。
「頼むよ……」
「はあ? 帽子返して、あっ!」
「入らせてくれよお!」
男は叫び、彼の頭の穴に指を突っ込んできた。
「な、何するんだ!」
「入りたいんだよお、この穴にい……」
穴の縁に指をかけられ、首がぐらりと傾く。関節が小さくポキッと鳴った。
「もう疲れたんだ! 疲れたんだよお! 消えたいんだ!」
「や、やめろ!」
彼は男を突き飛ばし、公園を飛び出した。男は追ってこなかった。ただ、哀切な叫び声だけが背後から流れてきた。それは風の音と重なり、しばらくの間、頭の奥で反響し続けた。
『頼む……頼むよお……!』
息を切らしながら自宅に戻った彼は、まっすぐ洗面所に向かった。蛇口を捻り、冷たい水をすくって顔に押し当てる。
――帽子をかぶっていたのに、なぜわかったんだ……。この穴は人を引き寄せるのか? でも、入りたがるなんて……。
「墓穴じゃないんだぞ……」
苦し紛れの冗談を呟いてみたが、唇が震えてうまく笑えなかった。そして、顔を上げて鏡を見た次の瞬間、声すら失った。
穴は、さらに広がっていた。
まるで火山の噴火口。額より上がごっそりと抉られたかのように、底知れぬ闇が口を開けていた。
「なぜ、おれは生きているんだ……?」
もう一度無理に笑おうとしたが、できなかった。自分が生きている理由を考えたくなかった。死にたくなるから。
――さっきの男も、きっと同じだったんだ……。
「はは、はははは……はははは……」
ようやく笑えた。彼は乾いた声で笑いながら、ゆっくりと右手を穴へ突っ込んだ。するすると吸い込まれるように、手は闇の中に消えていった。次に左手を入れる。そして右足を。左足を――。
身体はゆっくりと、そして確実に穴の中へと沈んでいった。最後には裏返したシャツのように、ぐしゃぐしゃにねじれた肉塊が床に残り、それすらも穴に飲み込まれていった。
やがて、そこには何も残らなかった。ただ空中に浮かぶ小さな黒点が一つだけ。それも、ふっと消えた。
穴は埋まる運命にある。
そして、どこにでも存在する。
通りすがりの人間にも、誰にでも。
――なんだ? ここに、穴があるぞ。