9.月読の回想-2-04
ある晩のこと。
草木も眠る丑三つ時、尋常ではない様子の喜与が走って名月神社の鳥居をくぐった。そのまま、奥の林まで駆けていく。髪は振り乱し、夜着も着崩れている。左手には藁人形、右手には五寸釘を握りしめ、大木に向かって右腕を振りかざした。その手を咄嗟に掴む。
「喜与……」
「――!」
「人を呪わば穴二つと言うだろう。馬鹿な真似はやめぬか」
見たこともない形相で、私をキッと睨みつける。その瞳からは今にも涙がこぼれそうで、だが必死に唇を噛みしめている。唇の端は少し切れ腫れぼったく、血がにじんでいた。
「月読様……。あなたが本当に神様なら、呪ってください。天罰を与えてください。私が今まで受けてきた仕打ちを、あの人たちに――!」
私の胸ぐらを掴み、喜与は叫んだ。支離滅裂な言葉の端々に、伴藤家への恨みがあふれ出す。喜与は私の胸を小さな拳でゴンゴンと叩きながら、子供のように泣き喚いた。悲痛な喜与の気持ちが流れ込んでくるようで、心が痛む。
「喜与」
どうすることもできない気持ちがもどかしく、感情のままにそっと抱き寄せた。小さな体はすっぽりと胸に収まる。抱きしめながら頭を撫でると、喜与は少しずつ落ち着きを取り戻していく。こんなことしかしてやれぬ自分を恨んだ。
「すまぬ」
「……月読様が謝ることは何もありません」
「私は神なのに、助けてやれぬ」
「……」
喜与は黙りこくった。
人は皆、口を揃えて「神様、神様」と言う。願いが叶うわけでもないのに、神を崇める。それに応えてやれる神もいるだろうが、生憎私はそういう類いの神ではない。ただの拠り所にしかなれないのだ。それが、もどかしい。
「どうしたら喜与を助けられる? どうしたら喜与は笑ってくれるんだ?」
「仕方ありません。この世に神などいないのです。これは私の運命だったのです。私が死んだら、月読様と同じ世界に行けますか?」
「行けるわけがなかろう」
「じゃあ死んだらどこに行くのでしょう? 私も月読様と同じ世界で生きたい。月読様と草花を愛でながら笑っていたい」
喜与の瞳から、また雫が溢れる。綺麗な涙が頬を濡らし、月明かりの下キラキラと輝いた。