十月二日 雪
3時間で精神の病魔に襲われながら書いた処女作です。温かい目でご覧ください。
京都を眠らせ、百万遍に、雪降りつむ。
世界を眠らせ、京の五山に、雪降りつむ。
京都の夏が、尋常でなく暑いのはとても有名です。
それでも、観光客の若い女の子やカップル、海外からの旅行客は、そんなことを知ってか知らずか、真夏の祇園祭の人混みに意気揚々と繰り出します。その結果、熱中症で人がバタバタと倒れます。
このとき、祇園祭を見学する京都人たちは、観光客の知らない、少し高い建物から、涼しげにその人混みと山車をひく人々を見下ろします。
一方、祇園祭にいくような余裕がない学生、興味のない学生は、夏休みを利用して、旅行をしたり、教習所に通って免許を取ろうとしたり、サークルに入り浸ったり、バイトをしたり勉強をしたり、鴨川で水遊びをしたり、花火をしたりしています。
でも、今年の夏は、少し様子が違うようです。なぜなら、年々膨張した太陽が、今年の夏、まさに地球を飲み込もうとしているからです。京都の暑さも、それはもう、人が生きていられないくらいの気温に達していましたし、ほとんどの人々は、世界の終わりに怯えながらも、仕方なく部屋に篭り、クーラーや扇風機で暑さを凌いでいました。太陽が地球を飲み込む時期は、正確にはわかりませんが、八月、九月頃だそうです。
一、二ヶ月以内に世界が終わることがわかっているとき、人はどんな行動をとるでしょうか。自殺志願者は、自殺方法に強い希望があるか、太陽に飲み込まれて焼け死ぬのが嫌な場合のみ、安心して自殺に踏み切るでしょう。悲しむ人だって、すぐ死んでしまうんですから。殺したいほど嫌いな人がいる人は、一番すっきりする方法で、その人を殺すでしょう。裁判も何も起きません。警察が仕事をしていれば、警察に捕まるかもしれませんが。
では、生きたい人たちは?今の人生を、死ぬまで続けたい人たちはどうするでしょうか。今回は、二浪して、長年の夢であった、左京区の大学に入学した、一回生の男子学生に焦点をあてて、その様子を見ていきたいと思います。
八月。映画サークルに入った僕は、毎日のように、秋に開催される予定の学園祭で上映する映画を撮っていました。ニュースではずっと、地球が太陽に飲み込まれて、いよいよ終わりを迎えるという話を、特徴のない、綺麗な顔のアナウンサーのお姉さんが、取り乱すことなく伝えていました。専門家は、「これはもうどうしたって避けられないことで、地球に終わりがきた、限界が来たということです」と意味のない説明を繰り返していましたが、実際、世界が終わるか否かはという意見は、半々くらいにわかれていました。僕はニュースを見ないので、これは友人から聞いた話です。世界が終わるのが本当なら、秋の学園祭は開催されません。その頃には地球も、僕たちも、跡形もなくなくなっているでしょう。
この話が初めて出たのは、一昨年の夏、僕が予備校で浪人をしていた頃でした。その頃の僕には、やりたいことや、将来の目標なんてひとつもなくて、ただ、京都府左京区にある、少しだけダサくも見える、花のような時計台、そしてその前にそびえ立つ、立派なクスノキのある大学に入る事だけを夢みていました。特段、理由はありません。楽しそうだと思ったからです。でも僕が予備校で一生懸命勉強していたあの夏のある日、実家のテレビに、君の悪い音と共に、速報が表示されました。「再来年の夏頃、地球が終わる」、大体そんな内容だったと思います。お母さんは狼狽して、お父さんに助けを求めました。お父さんはなぜか冷静に、「こんなもの、根拠があるはずがない」と言い放ちました。僕は、もしこれが本当なら、夢だった大学に入学してすぐに、夢だった日々が終わってしまうという絶望に苛まれました。その日も予備校ではいつも通り授業が開講されました。先生はあのニュースに触れることなく、いつも通り授業を行いました。そして最後に、「みんな気になることがあると思うけど、今は受験に集中して」と言いました。先生は怖くないんだろうかと、僕は不思議に思いました。
予備校からの帰り道は、いつも通りでした。こういうどうしようもないとき、というか、どうなるものだか見当もつかないとき、人というのはあまり騒がないものなのだと思いました。夜の生ぬるい空気の中で世界の終わりについて歌っている路上ミュージシャン。いつも一人ぼっちで歌っているそのミュージシャンの周りには、いつもの何倍もの人がいて、中には涙ぐんでいる人もいました。路上ミュージシャンは、昔のヒッピーのような格好をして、正直に言えば小汚かったのですが、その歌声には確かに魂がこもっていて、決して上手とは言えないギターの振動は、彼の本気を感じさせました。彼は、生きていたい、まだ音楽を奏でたい。もし誰も、人っこ一人聞いてくれなくても、まだ歌い続けたい。そういう風に見えました。僕は、一年だけでもあの大学に入る。あの環境に入ってやるんだと、なぜだか不思議とその時、心の底から思えました。
家に帰ると、お母さんが泣いていました。お父さんはお母さんの背中をさすって、地球が消えても、ずっと一緒だよ、と声をかけ続けていました。同じ言葉を繰り返して、お父さんは、自分に言い聞かせているようでもありました。うちのお母さんは、若い頃からかわいくて有名で、有名大学に通っていたお父さんとサークルだか合コンだか何かで出会い、結婚しました。お母さんは今時珍しく、専業主婦をしていたのですが、いつでも家事を完璧にこなし、毎日のごはんは、まるでレストランのようでした。お父さんは研究職で高給取り、優しい人柄で、髪の毛は白髪ではありましたが、五十代になった今でもふさふさでした。さっきまで「根拠がない」と否定的だったはずのお父さんは、もう少しで地球が終わるなら、と、会社をやめると言い出しました。愛する妻と、子どもである僕と、少しでも長くいたいからだそうです。僕は来年受験をして、京都に行く予定でしたが、お父さんのその決断を、なんだかうれしく思いました。お母さんは次第に泣くのをやめ、目を赤く腫らしながら、僕たちにお茶を淹れてくれました。温かいお茶は、僕たちを想像以上に安心させてくれました。お茶を飲み終わったあと、僕たち家族は、三人で、歪な握手と抱擁を交わしました。三人とも、少しだけ、手が汗で湿っていましたが、それがよりいっそう、僕たちの気持ちをひとつにしました。その夜、僕が部屋で一人で勉強していると、横にある夫婦の寝室から、微かな息遣いと、シーツの擦れる音が聞こえてきましたが、僕は全く、嫌な気はしませんでした。僕ももう大人だったということでしょう。
その後、僕は無事に志望校に合格し、家を出ました。お母さんはいつものようにまたぼろぼろ泣いて、お父さんは、飯だけはちゃんと食えよ、と何度も何度も手を握って目を潤ませていました。引越しのトラックの出発と同時に、僕は京都へ旅立ちました。これがきっと、もしかしたら、家族との最後の別れになる。そう思うと、新幹線に乗った途端、僕の両目からも涙が溢れてきました。車窓には、青々とした田んぼや、誰が住んでいるのかわからないぽつんとした廃墟のような、民家のようなものや、なんの会社かわからない大きな看板が見えました。僕はそれを視界に入れながら、大粒の涙をぼろぼろと流し続けました。愛のある家庭に生まれ、愛情を一身に受けて育ち、二浪もさせてもらって、夢だった大学に入学する。すばらしいことしかありませんでしたが、たった一つ、忘れてはならない悲しいことは、大好きな両親と、もう二度と会えないかもしれないことでした。僕は大粒の涙を、人目もはばからずにぼろぼろ流し続け、行きのホームで買った500ミリリットルのお茶を一気に飲み干しました。
京都で、僕は寮に入りました。ボロボロの、今すぐに潰れてもおかしくないような寮です。耐震性か何かの問題で裁判にもなっているらしく、住民には立ち退きが命じられていました。それでも、いくらなんでも楽しそうなその寮に、どうせ地球が終わるなら、僕は住んでみたかったのです。スーツケースをひいて寮に着くと、髭の生えた、小太りで年齢不詳の、寮の主のような人に名前を聞かれました。寮の前にはよくわからない大きな鳥のような動物がたくさんいて、たしかに、今にも壊れそうな佇まいをしていました。主に名前を聞かれて答えると、すぐに部屋に案内されました。玄関には、ボロボロのこたつで煙草をふかしながら麻雀をする、髪の長い男の人や、金髪の女の人がいました。まるで令和とは思えない光景でした。床にはお酒の空き缶や空き瓶が転がっていて、部屋に続く階段には、いつから貼ってあるのかわからない、政治的な張り紙がいくつもありました。その他にも、犬の肉で鍋をします、時計台に登ります、なんて変わった張り紙もあって、僕はその時点で、ワクワクが止まりませんでした。案内された部屋は、ほとんど廃墟と言っていい様相を呈していました。畳には埃やゴミ、いつのものかわからない埃まみれのチラシが散乱していて、これは僕の予想ですが、ダニだらけの黄ばんだ布団が乱雑に三枚敷いてありました。古びた窓にはカーテンがなく、蜘蛛の巣がたくさん張り巡らされていて、廃墟のような部屋に美しい陽の線を落としていました。主は、「ここ」とだけ言って部屋を出て行きました。階段を降りていった音がしたあと、またすぐに引き返して上がってくる音がして、「なんて呼べばいい?」と聞かれました。僕は苗字だけ答えて、主は「わかった」と頷きました。主は、「次の総会は来週だから。あと、新歓は今日の夜。食堂で」と言って、大きなゲップをしたあと、また階段をどすどす大きな音を立てて降りていきました。主はしっかり、お酒と汗のにおいがしました。
スーツケースを置いて、健康診断のために寮を出ると、東京とは全く違う、京都の、古くて新しい、雑多なにおいがしました。寮は大学のすぐ横にあるのですが、その辺りには手書きの乱雑な看板や、印刷したような綺麗な、でもよくよく見ると手書きの看板や、ふざけ倒した看板がいくつもたっていました。後から知ったことですが、あれは「立て看」と言って、京都の景観を守る「景観条例」とやらによって、すぐに大学当局によって撤去されてしまうそうです。僕はこの雑多な雰囲気が好きで入ったのに残念だ、と思いましたが、先輩によると、撤去されてはまた新しい似たような看板が、翌日には同じくらいの数、立っているとのことでした。
健康診断に行って帰るのは、一苦労でした。いわゆる「新歓ロード」という、サークルや部活への勧誘をするビラを配る道があって、僕たち新入生は、その間を潜り抜けていかなければならないのです。断るのが苦手な僕は両手で持ちきれないほどのビラをもらって、健康診断を終え、寮に戻りました。その頃、僕は眼鏡をかけ、お母さんがどこかのスーパーで買ってきたチェックのシャツを着ていたので、テニスサークルや、飲み会ばかりするサークルの「イケてる」先輩には見向きもされませんでしたが、それでもそれなりの枚数のビラをもらうことができました。寮に戻り、黄ばんだ布団の上にもらったビラを一通り広げてみると、一番に目を惹かれたのは映画サークルでした。僕は映画をほとんど見たことがないけれど、カメラに興味があったからです。早速、ほとんど空っぽのスーツケースに手を突っ込んでガサゴソと荷物をかき分けて手帳を取り出し、映画サークルの新歓の日程を書き入れました。新歓には多くいった方がいいと、同じ高校の同級生に聞きましたが、僕はこのときすでに、この映画サークルしかないと、なんとなく心に決めていました。
しばらく映画サークルのビラを眺めていると、さっき玄関で麻雀をしていたロン毛のお兄さんと、この寮には似つかわしくないような、いかにも普通の、清潔感のあるお兄さんが部屋に入ってきました。ロン毛は、「新入り?」と呟きながら、部屋にズカズカ入ってきました。意外と優しいその声は、くるりというバンドの岸田さんを彷彿とさせました。清潔感のあるお兄さんは少し年上なようで、「院生だから、少し離れてるけどよろしくね」と、こちらも優しく言いました。その後、「あ、ここ、俺ら三人部屋だから」と付け加えてくれました。ロン毛のお兄さんは柿本さん、院生のお兄さんは曽田さんというそうです。ロン毛は文学部で、もう六年も学部生をしていると言いました。曽田さんは理学部で院生をしていて、ゆくゆくは研究職につく予定だそうです。ロン毛の髪にはフケがたくさんついていて、全くイメージ通りの、汚い寮生でした。この寮には風呂がないのです。一方の曽田さんは、なぜかいつも清潔で、お花のような香りをいつも漂わせていました。噂によると、曽田さんは彼女の家に入り浸っており、寮にはなかなか帰ってこないそうです。だから僕は実質、ロン毛と二人部屋。でもロン毛は、不潔なこと以外はとても優しい人で、なんでも教えてくれました。寮の入り口にある食べ物の自販機の中では何がおいしいか、コスパの良い近所の飲食店はどこか、大学の食堂の中でどこが一番おいしいのか、授業の履修登録で気をつけた方が良いことは何か、教科書は定価で買うと損である、など。
その夜、僕はロン毛に連れられて寮の食堂に行きました。寮の新入生歓迎会、略して新歓があるからです。当然、食道もボロボロではあったのですが、きらきらした豆電球が所狭しと飾り付けられていて、誰かが笛や太鼓を叩いていて、一歩入ったところから、まさにお祭り状態でした。ロン毛が紙コップを差し出して、「甘酒。飲める?」と優しく言いました。正直甘酒は苦手でしたが、祭りの雰囲気に呑まれて、一気に飲み干しました。ロン毛は満足気な顔をして、「あそこのおっきな鍋に食べ物もいっぱいあるから。勝手に取って食べていいよ」と言って離れて行きました。その後ロン毛は、笛や太鼓に合わせて、ギターのようでギターでない、不思議な楽器を即興で、合わせて弾き始めました。ロン毛はよく見ると、童顔でつぶらな瞳をしていましたが、無精髭がそれを全て覆い隠しているようでした。
ロン毛に案内された大きな鍋の近くに行くと、紙の器とコップ、ペットボトル飲料がいくつかが用意されていました。大きな鍋は全部で三つあり、カレーとコーンポタージュ、もう一つの赤いスープは何だかよくわかりませんでしたが、僕はそれに惹かれて、それを大きなおたまで混ぜていた方に、それが何だか聞いてみました。彼女(彼)は、大きくて、明らかに男性でしたが、赤いミニスカートを履いて、足元はゴムのサンダルでした。彼女は思ったよりも大きな声で、「ボルシチだよ!ロシアの味噌汁!」と言いました。僕はそれをもらって、立ったままロン毛たちの演奏を聴きました。聴いていると、どうやら即興の曲以外にもコピーもやっているようで、僕の知らない、なんだか懐かしくて陽気な曲を演奏し始めました。
今日、人類が初めて木星についたよ
ピテカントロプスになる日も近づいたんだよ
ボルシチの温かさ、その曲のどこか悲しい陽気さ、豆電球の明るさ、今までに触れたことのない、不思議な雰囲気と人々に囲まれて、僕はなんだか楽しく、それでいて寂しい気持ちになっていました。ボルシチの彼女(彼)が僕の隣に来て、「どう?おいしい?楽しんでる?」と大きな目を見開いて笑顔で言いました。僕が「おいしいです。楽しいです」と答えると、「私もここに住んでるから。よろしくね」と言って、またボルシチを混ぜに戻って行きました。演奏を聴き終えると、僕はなんだかひどく疲れてしまって、残りのボルシチを持って、ヨタヨタ部屋に戻りました。いつから敷いてあるのかわからない黄ばんだ布団は、案の定埃のにおいがしました。
翌朝、朝日に照らされて目覚めると、横でロン毛が、昨日のままの格好でいびきをかいて寝ていました。僕はダニに食われたのか、身体中がかゆくて仕方なくて、午後の三時からやっているという小さな銭湯に行くことに決めました。
今日の夜は、映画サークルの新歓です。初めて会う人たちの中で恥をかかないために、僕は入学前にお母さんに買ってもらった新しい、大学生らしい、麻の白いシャツとジーンズを着て行くことに決めていました。着替えて寮を出て、時計台の前に行くと、中古の教科書を売る人たちが大きな声をあげていました。履修する授業をすでに決めていた僕は、そこで必要な教科書を一通り揃え、大学を散策したのち、ロン毛に教えてもらった「大学で一番おいしい」という食堂で昼食をとりました。大学の食堂の基準がわからないので、おいしいのかはわかりませんでしたがまあ、不味くはありませんでした。食堂を出たあと、僕は夢だった、鴨川散歩に行きました。鴨川沿いでは、ダンスやソーラン節のような踊りの団体、テニスサークルのお花見などが行われていて、散りかけの桜の花びらを運ぶ風に吹かれて、僕は大きなくしゃみをしました。
午後三時に初めて行った、百万遍の古い銭湯は、少し排他的な雰囲気で、番台のおばあさんから小さな石鹸を買って浴場に入り、僕は終始萎縮しながら体を洗い終え、そそくさと外に出ました。濡れたままの髪の毛を、春風が優しく乾かしてくれました。その後、これを機に日記でも書き始めてみようかとぼんやり考えながら途中のコンビニでノートを買って一度寮に戻り、今朝、ようやく届いたばかりの引越しの段ボールの上で先ほどのノートの表紙を、綺麗に折り目をつけて開きましたが、すぐに閉じました。日記というのは、夜に書くものだと思ったからです。僕は表紙に、今日の日付と「日記」という文字だけ、丁寧に書いて、そのまま、相変わらず汚い布団に倒れ込み、昼寝をしました。なぜだか少しだけ会いている窓から入ってくるおだやかな、動物と土と春の混ざり合った風が心地よく、僕はすぐに意識を失うように眠りにつきました。
目覚ましに起こされたのは午後六時。映画サークルの新歓は、大きな三つの黄色い星がトレードマークの西部講堂で行われるそうです。
てことで、ここからは僕の日記になります。ここから、僕は世界の終わりに向けて、京都を満喫していきます。読みたかったら読んでください。
五月三日
今日は西部講堂で映画サークルの新歓があった。先輩たちの自主制作映画がスクリーンに映し出されてるのを見ながら上映を見ながらプラスチックのコップでファンタを飲んだ。「高橋さん」という女の子と少し話した。僕は、一目惚れした、なんて絶対に書かない。
五月十日
今日は二回目の映画サークルの新歓で、百万遍あたりの、「村屋」というジャングルのようなお化け屋敷のような居酒屋に連れて行かれた。やっぱりここは面白い。高橋さんは自宅で一浪し、見事文学部に合格した話を、飲み慣れない梅酒のソーダ割りを飲みながら頬を染めてべらべらしゃべった。若干引き気味の男もいたように見受けられたが、僕は顔を真っ赤にして自らの武勇伝を話す高橋さんに目が釘付けだった。いや、別に好きとかではないが、高橋さんは、魅力的な女性だと感じた。
五月十二日
ロン毛の体臭やら口臭やらが臭すぎて部屋で眠れない。僕は廊下で寝る羽目になったが、廊下に猫が歩いていたのは良かった。
五月二十日
ついにサークルに正式に加入。高橋さんが入っているかどうかはわからなかった。
五月二十一日
高橋さんが同じサークルに入っていた!しかも同じチームで撮ることになった。まあ、これも運命と言えよう。サークル全体は二十人くらい、その中で女子は五人くらい。僕は高橋さんしか覚えてない。
※
高橋サチです。文学部哲学科に入りたくてこの大学を目指しました。一度目は正直記念受験だったけど、宅浪で一年で入れたのは我ながら天才だと思います。でも、浪人するときになって「地球が滅亡する」とか言われて、本当に焦りました。確かに、この世界が存在している意味ってわからない。いつなくなってもおかしくない。そんな風に思っていたんです。だから、どうせなくなっちゃうなら絶対に入りたいと思って、必死で勉強しました。映画サークルに入った理由?うーん、そうですね、朝ドラが好きだったから、ですかね。
※
こんなインタビュー記事があまり写りの良くない高橋さんの写真と共に、サークルのフリーペーパーとしてバラまかれていまいした。ありえない。高橋さんはもっとかわいい。なぜ高橋さんはこんなものをばら撒かれることを許容したのか。僕が世界で一番かわいい高橋さんを撮ってやる、このバカ。
というわけで、僕は脚本の佐々木と相談し、高橋さん単独主演の短編映画を撮ることにしました。高橋さんが最も輝くのは、図書館の窓辺に違いないと僕は主張したのですが、佐々木が「どうしても村屋で撮りたい」と言うので、ひとまずそうすることにしました。結果的には、またあの顔を真っ赤にして笑う高橋さんが見られたので良かったことにしましょう。高橋さんは、廃墟のような居酒屋でベロベロになるシーンで本当にベロベロになり、お化け屋敷のような部屋を通り抜けた先の廃車の横のトイレに一時間以上こもっていました。
ですが、やはり村屋の高橋さんでは納得できない僕は、鴨川で花火をする高橋さんを撮ってみてはどうか、と佐々木に提案しました。佐々木はネズミ花火が好きなようで、急に乗り気になり、僕は線香花火を緊張しながら持ってはしゃぐ高橋さんの横顔を存分にカメラに収めました。
六月六日
六月六日に雨ザーザーとでも思ったか。今年の六月六日は最高の晴天で、件の時計台に登りたがる奴らが続出した。しかも、今年の時計台登りは一味違った。舞妓さんがいたのだ。なんでも、「向日葵」という名前の、十五だか十六才の、修行中の舞妓さんで、縛り付けられる生活に嫌気が差して祇園から着の身着のままで逃げ出して、我が大学の時計台に辿り着いたらしい。折ってきた女将さんや大将は、重い着物のまま必死で時計台に登り出した向日葵さんを、呆気に取られてぽかんと見ていた。先に時計台に登っていた寮の奴らが向日葵さんを手助けして、向日葵さんは無事時計台のてっぺんに辿り着いた。駆けつけた機動隊の皆々様も、汚い大学生に紛れた舞妓さんに驚いた様子で、メガホンを使って「降りなさい、今すぐ降りなさい!」と叫んでいる。「戻りなさい、向日葵!」と女将さんらしき老婦人。向日葵さんはべえ、と舌を出して「戻るもんかね」と九州弁で叫んだ。機動隊の必死の誘導で地上に降りた向日葵さんを含めた学生達は、そそくさと逃げ出し、向日葵さんもどこかに消えてしまった。機動隊も大したものではないな、と僕は半笑いで眺めていた。
六月七日
昨日は鴨川で夜を越した。佐々木と二人で、今後の映画の構想を練りながら酒を飲んでいたのだ。鴨川はゆっくりと水の音を立てながら流れていた。遠くで光る京の街の灯りが綺麗だった。朝五時頃、佐々木と別れて寮に戻ると、玄関で高橋さんと向日葵さんを含めた学生数人が雑魚寝していた。僕が帰ってきた物音で向日葵さんは目を覚まし、「あ」と小さな声を出してあくびをした。僕は反射的に、「戻らなくて大丈夫なんですか」と優等生ぶったことを言った。向日葵さんは、「どうせもうすぐ世界も終わるし、あんなところ行くもんじゃなかったわ」と吐き捨てるように言った。そこで僕はやっと、世界が終わると言われている話を思い出し、「いや、僕は世界は終わらないと思います」と言った。向日葵さんは、「こんなに暑くなったんに、まだそんなこと言うとるんけ」と眉間に皺を寄せる。確かに、まだ六月だと言うのに、京都の街はサウナの中のように暑かった。毎日毎日、梅雨の時期だと言うのに雨も降らず、太陽がじりじりと照り付けていた。そうこうしているうちに高橋さんが目を覚まし、「ああ向日葵さん、大丈夫?膝は?」と向日葵さんの着物を躊躇なく捲った。確かに向日葵さんの膝には大きな傷があって、血の出た跡が生々しく残っていた。向日葵さんは笑いながら、「ああ、こんなもんなんてことないわ」と笑った。高橋さんは、「見つかるまでここにいていいからね。何の心配もしなくていいよ」と向日葵さんを抱きしめた。向日葵さんは涙ぐんでお礼を言った、昨日の今日でここまでの仲になるとは、女の子というのは不思議なものだと僕は思ったが、高橋さんならあり得るな、とすぐに考えを改めた。向日葵さんの言う通り、地球はこのままでは太陽に飲み込まれそうなほどに暑くなっている。十一月に開催される学園祭で上映する予定の僕たちの映画は、上映できるのだろうか。
僕はロン毛がいびきをかいて汚い腹を露出して眠っている部屋で黄ばんだ布団に倒れ込むようにして眠りました。高橋さんと向日葵さんが僕を起こしに来たのは、十三時過ぎのことだったように思います。「いつも佐々木くんと言ってるラーメン屋、向日葵ちゃんが行きたいって。案内して」と高橋さんが言うので、「いいけど、歩ける?」と僕が言うと、「うちのサークルの軽トラで行こう」と高橋さんは胸を張りました。聞くと、なんでも高橋さんはマニュアルの免許を持っているそうで、うちのサークルのボロボロのマニュアルの軽トラを運転できるとのことでした。僕はよろよろと起き上がり、西部講堂の前に停まっている軽トラまで移動して、荷台に乗り込みました。助手席に乗った向日葵さんの、「なんか久しぶりにわくわくするわあ」という声が聞こえたあと、ガタガタとエンジンのかかる音がして、軽トラはボロい音を立てて動き出しました。僕は大声を出して、一乗寺にあるラーメン屋までの道案内をしました。高橋さんの運転は、案外荒っぽくて、何回かエンストもしていました。危なっかしい運転も高橋さんらしくはありましたが、荷台の僕はいつ投げ出されるかと気が気ではありませんでした。ラーメン屋の横の空き地に斜めに軽トラを駐車した高橋さんは、「うん、まあ上出来やわ」と自分を説得するかのように呟きました。向日葵さんは、「ええ匂いやね。豚骨?」と嬉しそうに一番に店内に入って行きました。向日葵さんと高橋さんは、男でも食べるのがつらいような量の、もやしのたっぷり乗ったこってりしたラーメンを秒速で食べ終えて、「おいしいねえ!」と満足気に笑って水をがぶがぶ飲み干しました。僕は二人よりも遅れて食べ終わり、なぜか三人分の会計を払わされました。向日葵さんは、「出世払いで」と笑い、高橋さんは「地球終わるし何とでも言えるな」とけらけら笑いました。僕は「終わらないですよ。ちゃんと出世払いしてくださいよ」と不満気にぼそぼそと言いましたが、二人は聞こえていないのか、上機嫌で軽トラに戻っていき、僕はまた荷台に乗る羽目になりました。高橋さんの荒っぽい運転で、僕はなんどか吐きそうになりましたが、西部講堂前の広場に着くまで我慢して、西部のトイレで少しだけ戻しました。
七月二十五日
時は飛んで七月二十五日。そもそも僕は三日坊主なのに、ここまで日記を続けていること自体が奇跡に近いのだから褒めてほしい。今日は高橋さん、向日葵さん、佐々木という謎のメンバーで、下鴨神社のみたらし祭という夏祭りに行った。蝋燭を持って裸足で神社内の川に入り、それを奥にある定位置に奉納して帰ってくるのがメインイベントのお祭りなのだが、高橋さんと向日葵さんは屋台をやたらと喜び、佐々木もきゅうりの漬物を五本も食べた。僕はその様子をカメラで撮り続け、結局は楽しいイベントになった。僕は相変わらず高橋さんの笑った顔ばかり撮っていたが、真っ白な化粧を落とした長い髪の向日葵さんは、意外にも幼い顔立ちで、夏祭りにとてもよく似合っていた。向日葵さんを追っていたお茶屋の皆さんは、諦めたのか完全に見失ったのか、最近は完全に見かけなくなっていた。佐々木は、見習いの仕出し屋の若者が向日葵さんに手を出したのがバレたのだと、どこから仕入れたか全く根拠のない情報を言いふらしていたが、当然根拠はない。この頃は、京の街も世界も、太陽にいつ飲み込まれてもいいような暑さで、本当に地球の終わりが近いように思われた。夕方六時以降にやっと外出できるような天候で、世界の終わりを信じる人も信じない人も、「どうせ世界は終わるのだから」と言い訳をして、クーラーを十八度くらいにしてガンガンにつけていた。向日葵さんはすっかり寮に馴染んでおり、最近彼女と別れたという噂の僕の同部屋の院生「曽田さん(冒頭に登場したのだが覚えておられるだろうか)」にすっかりお熱のようだった。世界が終わるというニュースをすっかり信じ込んでいる両親からは、「そろそろ帰ってこい」という連絡が絶えなかったが、僕は映画を撮り終えることに必死で、それどころではなかった。家族と会いたい気持ちはもちろん変わらなかったので、世界が本当に終わりかけ、映画を上映した暁には帰るつもりでいた。しかし、そもそも映画を上映する予定の十一月の学園祭が本当に開催されるのかも怪しいところではあったので、僕はどうしたものかと思い悩む一方、高橋さんにこの熱い想いをいつ伝えるのかにも苦悩していた。映画を撮り終わる前に伝えて気まずくなっても困り物であるし、実は予備校時代から彼女がいるという佐々木にも止められていたので、僕は悶々とした毎日を過ごさざるを得なかったのである。
七月三十日
祇園祭の最終日。最近は、地球が終わると言う言説を信じる自殺志願者が、次々と自ら命を絶っていた。山車を担いだ一行が行列をしている最中に、四条大橋のたもとにあるかの有名な東華菜舘から同じ大学の学生が飛び降り自殺をして、大混乱が起きていたそうだ。熱中症で倒れる人々も続出し、祇園祭は阿鼻叫喚だったということである。その頃には向日葵さんと曽田さんは付き合っているのか付き合っていないのか、そういう雰囲気になっており、いつも二人で行動していた。相変わらず、曽田さんはスマートで、女性の扱いがうまかった。僕は真夜中、汚い部屋の中でいびきをかロン毛の横で、曽田さんに「いつ高橋さんに告白するのか」と一度尋ねられた。僕が映画を撮り終えてからだと主張すると、「そんなことを言っていたら地球なんかすぐに終わっちゃうよ」と微笑みながら釘を刺された。
八月は本当に、この世のものとは思えないほどに毎日焼けるように暑く、クーラーの効かない寮の中も天国のように涼しく思えました。九月の紅葉の始まった頃に哲学の道と祇園で撮影をしようと目論んでいた僕たちは、それまでなんとか元気に生きながらえようと、ガリガリくんソーダ味(佐々木はコーンポタージュ味など変わったものを進んで購入し、その度にまずいと毒を吐きながら完食していました)を食べながらどうにか日々を過ごしていました。哲学を学ぶ高橋さんは地球の終わりやこの世の存在について語ることをやめませんでしたが、暑さに疲弊した僕たちは、まともに聞くことはできませんでした。
九月十二日
なかなか紅くならないもみじを恨みながら、僕たちは相変わらず毎日汚い寮でガリガリくんをかじっていた。その頃にはもう、十一月の学園祭が開催できるなんて信じている人はほとんどおらず、佐々木も諦め気味になっていた。僕は両親からの「帰ってこい」という連絡に「映画を撮り終えたらすぐ帰る」と毎日のように返事をして、クーラーの効かない部屋で汗をダラダラ流しながら寝そべっていた。
九月二十日
「明日にでも地球は太陽に飲み込まれる」というニュースを定食屋で眺めながら、高橋さんと向日葵さんと曽田さんと佐々木はぼんやり揚げ物だらけの定食を食べていた。ハイライトという名前のこの店は、僕らの大学の学生御用達の店で、安くてボリュームがあることで有名だった。相変わらずよく食べる高橋さんと向日葵さんは、ガツガツと揚げ物を平らげながら地球は終わらないと話していた。曽田さんは「いやいや終わる終わる」と爽やかな笑みを浮かべながら優雅に水を飲んでいた。佐々木は彼女から何らかの理由で別れを告げられたらしく、魂の抜けたような顔で定食を眺めていた。僕は半ば諦め気分で、明日には一度実家に戻ろうかと考えながら、ゆっくりと揚げ物を口に運んでいた。こういう時、女性は強いということを思い知らされる。子供を産むというのは大変なことだ。僕たちは弱い。
十月二日
高橋さんが突然、「八坂神社にお祈りに行こう」と言い出した。八坂神社には、節分祭のときだか一年中なのだかわからないが、日本中の神様が集結するらしい。どうしても地球を終わらせたくない高橋さんは、八坂神社にお祈りをすることで十一月の学園祭で僕たちの映画を上映するつもりのようだった。ロン毛は「僕らは灰になる」と大きな声で寝言を言いながら、汚い腹をボリボリかいていた。暑くて暑くて仕方のない昼過ぎ、僕らが西部に停めてある軽トラに乗り込もうとすると、向日葵さんが突然「あっ」と大きな声を出した。見ると、いつか見覚えのある、向日葵さんのお茶屋さんの女将さんと大将と、割烹着をきた若者が汗を流しながら息を切らし、そこに立っていた。向日葵さんはすかさず荷台に飛び乗り、運転席に座った高橋さんに向かって「出して!」と叫んだ。曽田さんと、なぜかそこにいたロン毛、佐々木と僕も、動き出した軽トラの荷台に急いで飛び乗り、「向日葵!」と叫ぶ三人を置いて走り出した。僕が「どうせ明日には世界は終わるし神様なんていないよ、戻ろう向日葵さん!」と半ば無意識に叫ぶと、高橋さんが開いた窓から「何言ってんの、映画、撮り終わってないでしょ、学園祭で流すんでしょ、世界は終わらない、終わらせない」と涙声で叫んだ。向日葵さんが、「あんた、まだサチちゃんに好きって言ってないやないの!」と風の中で叫んだ。僕咄嗟に、「なんで知ってるんだ!」と口答えすると、高橋さんが「ずっと待ってるのに」と叫び返した。僕は何が何だかわからないまま、「高橋さん!」と叫んだ。「何!」という高橋さんに、熱い風にかき消されながら僕は「大好きです!!!」と叫び返した。高橋さんは涙声で「言えるじゃんか!!!」と叫んだ。軽トラはボロい音を立てながら八坂神社の方向へ向かっていく。曽田さんとロン毛が笑いながら、「青春やな」と呟いた。佐々木が「ずるいなあおまえ」と笑う。高橋さんが、「この世界にはな、愛しかないの!!向日葵ちゃんを追ってきた人もね、向日葵ちゃんのことを怒ってるんじゃないの、大好きなだけなの」と泣きながら叫ぶ。熱風が、僕らの声を京の街へ運んでいく。その時突然、空から雪が降り出した。それはそれは冷たい、この暑さにはとても似つかわしくない美しい雪だった。僕らは何も言わず、それを眺めていた。僕らの頭は、瞬時に同期された。みんな、何も言わずにそれをわかっていた。
「京都を眠らせ、百万遍に、雪降りつむ。」
「世界を眠らせ、京の五山に、雪降りつむ。」
頭の中で、その言葉が繰り返された。京の街は一瞬で、真っ白に染まっていった。軽トラはエンストし、僕らは真っ白な百万遍に取り残された。京の五山も祇園も、哲学の道も嵐山も、世界中が真っ白に染まっていた。僕らは突然冷えこんだ真っ白な世界で、同期された脳内でそれを見つめていた。ぼんやりと、いつまでも、いつまでも。
遂行を一切できなかった本作。駄作ではありますが、後に芥川賞を受賞することになります。