帰宅
「ただいま」
自分の声は外よりも暗い六畳間に空しく響いた。おかえりを返してくれる人がいないことは自明のことなのにいつもなぜか言ってしまう。デスクライトだけをつけ寝間着に着替え、就寝前のルーティンである日記をつけ始めた。
『今日は半年ぶりくらいに倉田さんと会った。失恋した相手なのであまり思い出したくないし実際忘れかけていたのに会ってしまったのは不運すぎるのだろうか?』
普段通りボールペンを走らせ、一字一字を刻み込んでいく。
『彼女は今の私にどんな気持ちを抱いていたのだろう。好意か、悪意か。それとも、無関心か……。今の私にそれを知る術はないのだから、』
彼女のことを忘れてしまいたいのに記録を残してしまっていては意味がない――書くなら綾音とのことを書けばよかったものを、と書きながら少し後悔した。しかし、ボールペンで書いたからにはもううまく消せない。修正液を使おうにもこの少し黄ばんだ味のある紙とは絶望的に相性が悪い。一度書いたら消せず、ただ隠すことしかできない――記憶以上に厄介なものだなと思いつつもまたペンを進めた。
結局会話の内容まで克明に書き記してしまった日記は10分ほどで書き終わり、もう終わりかけている14冊目のノートを引き出しに入れた。不意にその中から11冊目を取り出し、彼女の記録を探し出そうとページをめくる。何かひどいことをされたわけでもなく、私を嫌っていたわけでもないのに、自ら避けようとしているのも良くはない。そんな思いもあるし、怖いもの見たさ、というのもあるのかもしれない。
「えぇっと……あった。」
ようやく見つけた。昨年10月の上旬ごろ、確かにこの時期に私は彼女に告白した気がする。私の記述は鮮明で、水底に沈んでいく記憶を見事に浮上させる。下手ながらに格好つけて書かれた文章は無駄に小説調を意識していて、それは見事に私を過去へ連れ戻した。
夕方6時、空は茜色に染まり、私の影は周囲と同化する。最終下校の時間が迫り、門前払いかと思い始めた頃、私のいた校舎裏に彼女はやってきた。
「らしくないですよ~先輩。こんなところに呼び出して。で、何の要件なんですか?ボク、もう帰りたいんですけど。」
私は気だるそうな姿から目をそらし、周囲をぐるぐる歩き始める。彼女はそんな私を見つめるだけだった。一秒が一分に感じられるほどの気まずさの中で、ようやく次の言葉をひねり出した。
「あのだな……お前たちってずっと『先輩って好きな人いるんですかぁ~』って言ってきてただろ?」
話の切り出し方に悩んでいたのは言うまでもない。いつもよりずっと声に自信がなかったと思う。
「言ってましたね。でもずっと『いない』の一点張りじゃないですか。しかも自分からその話をするなんて珍しいですね。」
「そうだろ?で、結局誰だと思う?」
「誰って……そもそもいないんじゃないですか?ずっとそう言ってますし。」
これは本心だろうか。おそらくここに来た時点でそれとなく察しているはずだ。遊んでいるのかもしれないが、ぶっきらぼうな声の中に少しだけ別の色を感じた。
「そうか、そうか……じゃあ俺のポーカーフェイスってちゃんとうまくいってたんだな。」
突然の言葉に彼女は目を見開いて私を見つめる。この態度で私はさっきの言葉が本心だと確信した。
「……で、それって誰なんですか?私たちに隠すほどの相手だったんですか?」
数秒の沈黙の後、彼女の口から出た言葉には驚きと冷たさが感じられた。
「それはな……」言葉が詰まる。走った後でもないのに心臓は激しく動いている。
「倉田さん、君だ。」