論理は勇者を混乱させ、戦士に秩序を与える
「れ!?て、鉄子さん!?」
僕の部屋に鉄子がいる。ベッドの脇で、にこやかに微笑んでいる。
「おはよう、勇者さん」
「お、お、お、おはよう!?」
僕は夢を見ているんじゃなかろうか。起床直後にそう思ったのは、人生で初めてである。
な、な、な、なんでここにいるんだ!?
「はい」
困惑する僕を尻目に、鉄子はニッコリと微笑んで、僕にあるものを差し出してきた。
コップ?なんか白っぽいものが入っているようだけど。はて、今日は胃の検査をする日だったか?僕は多摩川の水を浄水せずに飲んでもピンピンしているほど胃腸が丈夫だが?
「飲んで」
鉄子がコップを押し付けるものだから、戸惑いながらもそれを受け取った。
「な、な、何?」
「朝は体が一番栄養を欲しているのよ。起き抜けにプロテインを一杯飲むと、筋肉に効果的なの」
若干の論理性があれば、朝の起き抜けの頭を混乱させるのには十分である。ぼんやりとした頭では、それがプロテインというもので、鉄子が僕に飲ませたがっているということだけを、なんとか把握するのが精一杯だった。
「飲んで、飲んで」
「う、うん」
仕方なく、言われるがままに飲んでみる。グビ、グビ。まあまあイケるね。
飲み干したのを見ると、鉄子は満足そうに頷いて、僕の手からコップをもぎ取った。
「じゃあ、勇者さん。今日も一日よろしくマッスルにゃん」
鉄子は、コップを持っていない方の手で、招き猫のポーズを取ると、バタンとドアを閉めて出ていった。
な、何が、起きたんだ?
僕はしばらく茫然としていた。そのうちにさっき飲んだプロテインとやらが効いてきたのか、ある程度筋道立った思考ができるようになってきた。
ドアまで行き、鍵が付いていることを確認する。
盗られるものなんてなかったから、実家の扉に鍵は付いていなかった。だから寮に入ってからも、鍵をかけて寝たことなんてなかったことに気付く。
カチャリ、と、僕は鍵をかけてベッドに戻って腰掛けた。もう誰かが勝手に入ってくることはないだろうけど、そうせざるを得なかった。
あれは鉄子だったな。鉄子がプロテインを持って僕の部屋に入ってきた。筋肉に栄養を提供するために。こういうことだよな?
プロテインというのは、確かタンパク質の粉末で、筋肉の主な構成要素はタンパク質。寝ている間は栄養補給できないから、朝一番にプロテインを飲む。タンパク質摂取のために。うん。間違っていない。実に辻褄が合っている。
なんだ、理にかなっているじゃないか。とても理にかなっている。どこも矛盾していない。だからプロテインを飲む。証明終わり。Q.E.D.
…で、なんで鉄子がここにいた???
ここ、男子寮だぞ!え?女子生徒立ち入り禁止なのに、わざわざ忍び込んだ!?僕にプロテインを飲ませるために!??
何かに弾かれるようにベッドから立ち上がり、さっきかけたばかりの鍵をガチャッと開けて廊下を見渡した。もちろん鉄子の姿はもうどこにも見当たらなかった。
おいおい。見つかったら事だぜ。
朝だというのに、冷や汗が出てきた。
「今日も一日よろしくマッスルにゃん」
って、それを言うなら、よろしくお願いしマッスルだろう?
明らかに、得体の知れない異常が進行しているようだった。
「《《一応》》、状態異常を回復する魔法はかけておいたから」
まだ回復魔法が覚束ない新入生のアイドル、毒針の天使こと、保健室担当のデュナン杏里先生は、一応という言葉を強調した。
なぜ毒針の天使と呼ばれているかというと、先生に優しくしてもらいたいがために、わざと僧侶のいないパーティを組む不届き者がいて、そういう輩には鍼治療と称して容赦なく毒針を打ち込むからである。
日本とスイスのハーフで、豊かな金髪が麗しい肉感的な美女だ。
つい、白衣に包まれた魅惑のボディラインに目が釘付けになってしまう。
「ねえ、聞いてる?」
「え?あ、は、はい!ありがとうございます」
危ない危ない。危うく毒針の餌食になるところだったぜ。鉄子のことを心配して保健室に連れてきたというのに、目の前にエロいものがあると、ついエロ勇者になってしまう。
「どこか悪かったんでしょうか?」
そう聞いたのは、鉄子軍団の一人、おかっぱ頭の小さい女の子である。
「うーんと。それがね、私が診る限りでは、どこも悪くなさそうなんだけどね。体のダメージはないし、精神的な異常もないみたいだけど」
「はあ」
と、僕が後を継いだ。杏里先生にこっちを見て欲しかったから。いやいや、鉄子が心配なのだ。
「しばらく様子を見て、まだおかしさを感じるようだったら、精神科に連れていった方がいいんじゃないかしら?」
「と、言うと?」
「つまり、異世界関連のダメージではないってことよね。なんらかの精神病だとしたら、魔法ではなくて、現代医学による治療の出番だということ」
「なるほど」
お礼を言って、保健室を後にする。
その日、授業が終わって、ノブさんの酒場に行ったら、令和の世に不似合いなオーラを放つ一団がすぐに見つかった。鉄子軍団である。
「念のため保健室に行こう」と言ったら、鉄子は最初渋っていた。
取り敢えず早急に昼食を食べなくてはいけない、ということだったので、僕も先に食べることにした。
僕は軽く素うどんを食べ、鉄子はニシン蕎麦に、卵を6個トッピングして食べた。ちょっと卵が多過ぎるように思ったが、いつもの鉄子のように、きつねうどんにきつね蕎麦とか、チャーハンに蕎麦飯といった、エクストリームな食事に比べれば節度があるとも言える。
テーブルには鉄子軍団の女の子たちも一緒だった。
僕らは夕食はパーティで取ることにしているが、昼食は各自に任されている。僕が知らない時間の鉄子は、彼女たちと一緒に過ごしているようである。
軍団の子たちは、鉄子にさしたる異常は感じていないようだった。ただ、ちょっとぼんやりしているかなという程度である。「別に保健室に行く必要もないんじゃないですか」と、金髪マスクの子に言われてしまった。
僕はその子に、鉄子に変わった行動は見られなかったかと聞いてみた。
すると、授業を途中で抜け出してプロテインを飲みに行ったこと以外は普段通りだったという答えが返ってきた。
いや、十分おかしいと思うが?
そんなことを言ったら「3時間置きにプロテインを飲むのは理にかなっているんですよ」と返されてしまった。
筋肉最優先の生活をしている人たちには、世間一般とは違う論理が働いているらしい。
「でも鉄子はいい加減だから、普段はきちんと飲まないんですけどね。ようやく真面目にプロテイン飲むようになったんですね〜」と、感心していた彼女だったが、鉄子が牛乳を飲み始めた途端、目が点になってしまった。
やっと軍団の子たちも異常を把握し、渋る鉄子を保健室まで連れていったのである。
「ほら、やっぱり何ともなかったじゃない。勇者さんは心配症なんだから」
屈託無く笑う鉄子は、いつもと同じに見える。気を悪くしたかとも思ったが、いつもと同じで、細かいところは気にしない(というか、目に入らない)豪快な女戦士であった。
「じゃあ、あたし、昼寝の時間だから、部屋に戻るわね。トレーニングと食事と睡眠。この3つが理想的なサイクルで回ってこそ、理想的な筋肉は作られるんだにゃん」
と、謎のかわいらしさを微笑みで隠して、彼女は行ってしまった。
鉄子軍団の子たちは、みな一様に背筋に薄ら寒いものを感じたようである。
「ゆ、勇者、さん?て、鉄子をなんとかしてください?」
おかっぱ頭の子まで、僕に敬語。
なんとかったってね。どうしよう、ネズミ君、妙子。君たちが帰ってくるまでに、なんとかできないよ。