豆電球は頼りなく、西海岸は遠い
とにかく二人を追いかけなくては。最後、ランプの明かりは相当行った先で左に曲がったように見えた。鉄子だって走って行けたんだ。それまでは真っ直ぐのはず。
だが、障害物はないと頭では分かっていても、いざ暗闇に向かって歩き出すとなると足が鈍った。早足で駆けるつもりが、ゆっくり歩きじゃないと前に進めなくなってしまった。
辺りは真の暗闇である。少し目が慣れてきたが、見えるのはペンを持つ妙子の手元を中心とした僅かな範囲。それと、足元でぼんやり緑色に光る、ゲンちゃんの瞳だけだ。僅かな光の範囲を外れれば、自分の体があるかどうかすら疑わしい。
耳を澄ましてみても、もはや鉄子の声は聞こえてこなかった。妙子の緊張した息遣いと、チャッチャというゲンちゃんの爪が石床を削る音が聞こえるばかりだ。
東京の空は暗闇だが、地上には24時間星が瞬いている。実家の鶏小屋には電気が通ってなかったけれど、都会育ちの僕は真の暗闇を知らない。
今まで経験したことのない不安とストレスが全身にのしかかる。目が見えない、というだけで、こんなにも能力が奪われるものなのか。
ネズミ君は左に曲がったはず。ならばと、妙子にペンを左の壁に沿って掲げてもらう。
豆電球の光が壁に反射して、ほんの僅か気休め程度に光の範囲が広がった。だが微妙に見える薄い映像が、かえってもどかしくてストレスになる。たった1ブロック先までしか照らしてくれない、ランプの有り難みを痛感する。
壁、壁、壁、壁。いつまで壁が続いているのだろう。境目はまだ見えないのだろうか?1ブロックは15m。まるでジムにあるマシンのように、ただ同じところを延々と歩かされているような錯覚に陥りそうになる。ようやく境目が見えて、ちゃんと前に進んでいることが分かった。
再び壁、壁、壁、壁、境目。これで2ブロック。そうこうしているうちにも、ネズミ君と鉄子は遠くに行ってしまっているだろう。それとも、引き返してくれているだろうか?
3ブロック目。おっと、ここは扉があるぞ。でも開いてないところを見ると、ネズミ君たちが曲がったのはここではないな。
4ブロック目。ここだ!通路が左に伸びている。ここを曲がったんだ。
「鉄子さ〜ん!」
暗闇に向かって呼びかけてみる。だが返事は返って来なかった。もう先に行ってしまっているのだ。
「行こう」
また左の壁に沿って進む。壁、壁、壁、壁、境目、壁、壁。僕はナマケモノの剣を抜いて、障害物がないことを確認するために、前方の空間を薙ぎ払いながら行くことにした。妙子は僕が払った空間に歩みを進める。自ずから、二人の距離が近くなった。
時折、僕の左腕に妙子の肩が触れた。おかしいことに、それだけで妙な気持ちになる。明らかに男子と体が触れたときとは感触が違う。
今みたいにほんの微かに触れたときでも、先週トイレで鉄子に強く抱き締められたときでも、女の子の体からは、柔らかな暖かみというものが伝わってくる。同じ密度であっても、金属に触れるのと綿に触れるのとでは、神経を伝わってくる電気信号がまるで違うように、それはまったくの別物だ。
二人、自然と肩を寄せ合えば、シャンプーなのか香水なのか、仄かにいい香りが漂ってくる。それが女の汗のにおいと混ざり合って、独特の刺激をもたらす。
隣にいる女は、今、何かを強烈に求めている。しかし、彼女の望みは満たされていない。その望みを満たすための鍵は、僕が握っている。乾き切った彼女の肉体に慈雨を注いでやれるのは、僕しかいない。
彼女の華奢な足は、一歩一歩暗闇を彷徨うが、望みのものは見つからない。やがて疲れ切って彼女は倒れる。
だが、その麗しい唇が地面に接吻するかと思われた瞬間、彼女は自分が逞しい腕に支えられているのに気付く。その手を取った彼女は、どこからともなく湧き上がってくる力を感じて、再び身を起こす。
なんだろう、この大きな手。心がじんわりと暖かくなる。不思議と勇気が湧いてくる。私、一人じゃないわ。
そうさ、君は一人じゃない。
二人は手と手を取り合い、暗闇の中へと踏み出していく。そうだわ。もう怖くない。二人なら、どんな困難も乗り越えて行ける。だって、あなたが側にいるから。
そう、君が側にいれば……。
……、ガツッ!
痛ってェ!
剣が、前方の壁にぶつかったようだ。あれ?行き止まりか?
しまった。つい妄想に夢中になっていて、どれだけ歩いたのか分からなくなってしまった。僕らは何ブロック分進んだんだ?マッパーの妙子だったら把握しているか?
「た、妙子さん?」
「は、はい!?」
「ミャ?」
「僕たちどこまで進んだっけ?」
聞きようによっては卑猥な質問を投げかける。
Where were we?
妙子、僕たちどこまで進んだんだ?
Honey,we are about to kiss.
キスの前までです、勇者さん。
Well...,go on.
そうか。じゃあ、続きをしよう。
…なんてクールに決められるほど、僕らは西海岸じゃない。足元をチョロチョロしているフサフサもいるし。
「わ、私も、ちょっと分からなくなっちゃいました!」
「左はずっと壁だったよね?」
「だ、だったと思いますけど…」
「ミャア…?」
正面の壁に豆電球を近づけてみると、扉の付いていない普通の石壁だということが分かった。壁伝いに右も確認すると、こっちも通路とかは伸びてなくて石壁だった。
ここは袋小路か。ということは、ネズミ君たちはこっちには来ていないのか?そうか、さっき左に曲がったけど、もっと先があったのだ。それともこの通路の途中に右に曲がる道があるのか。いずれにせよ、戻るしかない。
「今度は右を照らしながら行こう」
「は、はい!」
「ミャ!」
くう〜、無駄な時間を食ってしまったと、戻りかけたそのときだった。