政治力は発揮され、勇者は魔法を覚える
久し振りに、その日はゆっくりとした晩だった。
学食に行かずに、夕飯は購買部で買ったパンを部屋で食べた。
今まで自分の部屋がなかったから知らなかったけど、こうやって部屋に引きこもるのも、心が落ち着いていいものである。プライベートの時間というやつだ。
こんなに快適だと、現代人に引きこもりが増えているのも納得である。引きこもりとは精神的な問題なのではなく、建築的な問題なのだ。
でも、引きこもりが続くと、異世界への憧れが募ってくるような気もする。無性にどこか遠くに行きたくなる。
古に室戸岬の洞窟で引きこもった空海も、同じことを考えたのではないか。
悟りを開いたなんて言われているけど、実は異世界を垣間見たんじゃなかろうか。
ただ、平安時代には異世界という言葉がなかったから、大悟という表現になっただけで。
それにしても、東京を発って以来、毎日濃い日々を過ごしている。
生まれて初めて電車に乗って、バスの中で独出君に会って、入寮して、貨幣経済デビューして。
一日目は入学式にオリエンテーション。ネズミ君たちに会ってパーティを組んだ。
二日目が初回授業で、マタドール先生に肩を苛められて、ダンジョンに入ってガーゴイルと戦って。
で、三日目の今日だもんな。入寮日を入れてもまだ四日目か。もう一月ぐらい経ったような気がする。
異世界に行くなんて、まだ想像できないな〜、なんてことを色々と考えているうちに眠くなって、その日は早めにベッドに入った。
次の日、ザビエル暦四月第一週四日目。教室に行ってみると、人だかりが出来ていた。
なんだろう、と思って見ると、生徒たちの中で頭一つ分背の高い嫌味な顔が。
どうやら玉音を中心に、生徒たちの輪が出来ているようだった。中には、他の科の教室から来た者もいた。
まるでパンに何重にもピーナッツバターを塗り重ねたような、甘く痛々しいニヤケ顔。
気持ち悪いったらありゃしないが、それでも元がイケメンの玉音がやると一定の効果があるみたいで、瞳を輝かせた女子生徒たちに取り囲まれていた。
まったく、スター気取りかよ。
輪の中には、男子生徒までいる。
人の気持ちを掴むのがうまいんだったら、異世界に行かずに政治家にでもなったらどうだ。
ネズミ君情報によると、アイツのお父さんも実力はないけど優秀な勇者と組んでたそうだから、親譲りの政治力というところか。
「玉音君、異世界ってどんなところだった?」
「いやあ、いいところだよ。空気も綺麗で水もうまい」
何言ってんだ。ここは富士山の麓だぜ。
「闇の大魔王は怖くなかった?」
「怖いさ。怖いけど仲間がいてくれたから」
クッサイ台詞だな。本当はびびって紙おむつでも装備してたんだろ。
「私たち昨日ダンジョン潜ったんだけど、道が分からなくて。あれ、どっちに行ったら良かったのかな。玉音君、教えて」
この質問には玉音は答えられないなと思ったら、ここで授業開始のチャイムが鳴った。
「おっと、授業の時間だ。君たちも自分の教室に戻りたまえ。では、また異世界で会おう」
そりゃそうだ。アイツはエレベーターで連れてってもらったんだから。
やっぱりネズミ君の言う通り、上級生の力に乗っかっただけなんだろうな。
まだ「え〜、ズルい〜」なんて言っている女子生徒たちを、「勉強は学生の本分だから」なんて見え透いた嘘をついて追い返そうとしている。
よくもまあ、あんな作り笑顔をキープできるものだ。あの顔は本当にピーナッツバターを塗り固めて作っているのかもしれない。
女子生徒たちはなかなか帰ろうとしなかったが、急に「キャアア」と蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ブエノスディアス。ご機嫌いかがコモエスタス!」
とかなんとか言いながらマタドール先生が現れて、毛むくじゃらな腕で愛情たっぷりに生徒たちを順に抱き締めていったものだから。
「おお、ロシエント。ハポンのアミーゴスは恥ずかしがりデスネ」
午前中だけだが、今日も勇者科の授業はみっちりと詰まっている。
今日は前半後半に分けて、異世界物理学の理論と演習を学ぶ。
そうなのだ。勇者はこの日から魔法が使えるようになるのだ。
早く回復魔法を覚えたかったけど、先ずは攻撃魔法からだ。
簡単な火の玉を出す魔法を習得するのである。
学園内で攻撃魔法が使えるのは、ダンジョンの中と演習場だけだ。これらの中だけは、特殊な結界によって異世界と同じ物理法則が働いている。
演習場に移動する際、学園の牧場で羊飼い科の生徒たちが羊の世話をしているのが見えた。なんだか牧歌的でいい。
そういや僕が着ている制服も、ウール100%だ。ここは生徒にポリエステルの制服を着せるような、ディストピアの学校ではないのである。
先ずは深呼吸をし、精神を集中させてポーズを取る。右手は上に、左手は手の平を上に向けて前に差し出す。右足は少し後ろに引いて爪先立ちでクロスさせる。フラメンコダンスの形だ。そしてさっき覚えたばかりの、火の玉の呪文を唱える。
「熱いハートの目を覚ます、火傷するよな一目惚れ。砂漠の海の熱帯夜、堕ちた太陽燃え上がれ。フエゴ!フエゴ!バモスフエゴ!出でよ、火の玉!」
到底素面で言えるような呪文ではないのだが、みんな同じことをやっているので恥ずかしさは軽減される。
このくらいで恥ずかしがってちゃ、異世界なんて行けないぜ。
独出君も、東北訛りの朴訥とした声で唱えていた。津軽の男は情熱的なのだ。
呪文を唱え終わると、僕の手の平の上、5センチぐらいのところで、チリッという、火打ち石を打ち合わせたぐらいの火花が散った。
「それじゃ厄祓いにしかなりまセニョリータ。もっと情熱的に呪文を唱エスパニョール」
マタドール先生の檄が飛ぶ。独出君や板東さんも苦労しているみたいだった。
「そこのアミーゴ、エクセレンテです。ムーチャスフラメンコしたくなるような火の玉です」
見ると、玉音がこれ見よがしに火の玉を見せびらかしていた。
この嫌味ったらしい顔が一皮剥いた玉音の本当の顔だ。さっきの取り巻きの女子たちに今の顔を見せてやりたいぜ。
みんな恥ずかしい呪文を唱え、何度もトライを続ける。そのうちに、マッチの火ぐらいのものがつき始めた。
僕はといえば、まだ火打ち石である。きっとこれは実家にマッチもライターもなかったせいだ。
火といえば、理科の実験でやったアルコールランプぐらいしか思い浮かばない。それも結構遠い記憶だ。
授業終了の時間が迫り、焦る。もうほとんどの生徒が成功しているようだった。
クソー、もっとこう、火打ち石じゃなくて、ドカーンと一発、そう、隅田川の花火みたいな。
集中して、必死に呪文を唱える。僕のフラメンコ魂を見せてやる。
「熱いハートの目を覚ます、(恥ずかしいから中略)、出でよ、火の玉!」
あっ!
ボワッと火がつき、手の平から5センチぐらい上に、丁度野球のボールぐらいの大きさの火の玉が現れた。
おおお!す、すっげー。
メラメラと燃えるそいつは、「ようやく会えたね、勇者さん!」と言っているように見えた。
「アチッ!」
と、思わず手を引く。手の平の上5センチは熱い。
手を引いても、しばらく火の玉は燃え続け、やがてシュルシュルシュルと、力を失って消えた。
そして授業終了のチャイムが鳴った。