97.鏡よ鏡よ鏡よ鏡さん
天地の逆転した屋上で、逆さまに空を走るサクラは、屋上に立つモンスターへと指先を突き付ける。
「雷の矢!」
指先から迸った雷が一直線に駆け抜け、モンスターに命中する。
だがそのフジツボのような体表には傷どころか焦げ目すらもついていない。
「うそ、効いてない!?」
沈黙するモンスターだったが、突如として両腕の大顎から大量の触手を伸ばす。
のたうち回り、あらゆる方向からサクラへ襲い掛かる。
「止まるな!」
その声と共に滑り込んできた無数の鏡が触手の先端を受け止め、跳ね返す。
アリスの鏡のクオリアの力だ。
あの触手は少なくともアリスの”反射”で防げる範囲の威力らしいが、相当な威力でないと反射を突破できないことを考えると受けることは避けるべきだろう。
「さっき戦ったモンスターと同じ。たぶんあの口の中にしか攻撃が通らないんだよ」
アリスは先ほど防御に使った鏡から、月光を反射したレーザーを放つ。
だが、向こうも弱点を把握しているのだろう。すぐさま両肩から生えた大顎を閉じ、その身体で全て受け止める。
以前サクラを苦しめた鏡のレーザーさえも通用していない。防御力が高いなどという次元ではなく、そもそも攻撃を受けないという概念のように思える。
「でもこっちが攻撃しようとすると閉じちゃいますよ!」
「そう、だからあいつが口の中の触手で攻撃する時がチャンス……なんだけど」
再びモンスターが攻撃を開始する。
しかし大量の触手による空間掌握力で防御するのが精いっぱいだ。
その上攻撃中でも口の中を直接晒さないよう、身体の向きを調整し続けている。
(…………三層に出るモンスターのレベルじゃないな。勝てないことは無いと思うけど……くそ、めんどくさい)
アリスが今まで相手してきた第三層のモンスターの強さを明らかに超越している。
その上、懸念事項としてはサクラの様子だ。
さっきから顔色が悪く、汗も酷い。消耗が激しいのだ。
思えばここで出会った時からどこか憔悴を隠しているような空気を感じたが、そんな状態でクオリアを使い続けていれば――――
「……う……」
アリスの懸念通り、サクラはとうとう膝をつく。
嫌な汗が噴き出し、身体中がやたらと冷たく感じる。
それなのに頭だけが熱暴走を起こしたかのように熱く、沸騰しそうだった。
そんなサクラをモンスターが見逃すはずがなく、触手の束が勢いよく迫る――――
「させないよ」
甲高い音を立てて鏡の盾が攻撃を防ぐ。
アリスはゆっくりとサクラの前に出ると、周囲に鏡の群れを漂わせる。
「せん、ぱい……あたし……まだ……」
「もう動くな。これ先輩命令だから。破ったら往復ビンタするよ」
「ええ……?」
そんな軽口を叩きつつも、嵐のように荒れ狂う触手を、アリスは全て防ぎきっている。
さっきまでとは明らかに目の色が違っていた。
「……ま、それは冗談だけどさ。これは先輩アドバイスだけど……サボれる時には上手くサボった方がいいんだよ。そしたら頑張るべき時にいっぱい頑張れる。要するに――――」
振り返ったアリスの白い髪が頬に流れる。
緩やかに笑みを浮かべ、言う。
「たまには先輩面させてよ。後輩」
しばらく呆然として。
気づけばサクラは、ゆっくりと頷いていた。
金属の擦れるような咆哮が響く。
アリスが目を向けると、大量の触手が伸びてきていた。
「……はあ」
だが。
アリスはそれらを片手でまとめて掴み取る。
鏡すら使わずに攻撃を防がれたモンスターは、動揺するかのように身じろぎをした。
「めんどくさいなあ……あんまり舐めんなよ」
ブチブチブチ! と触手が引きちぎられる。
断面から青く発光する粘液が撒き散らされ、アリスの頬にかかる。
アリスは手に持った触手を乱雑に放り捨てると、それらは霧のように消え、その代わりにモンスターの触手が生え変わる。
やはり口の中に直接攻撃しなければダメージは通らないらしい。
敵は自分の弱点を把握している。そして、その弱点をカバーするように立ち回る。
周囲に窓のある屋内ならば、窓を鏡のワープゲートにして不意を突くことも可能だっただろうが、ここは屋上。
その戦法は使えない。
「じゃあこれだ」
周囲に展開した鏡を近くに呼び戻すと、アリスはぱちんと指を鳴らす。
すると鏡に映った鏡像がぬるりと抜け出した。
「え……えっ、アリス先輩が、いち、にい、さん……四人!?」
「本体は私だけだよ。それに全員手動で動かすと脳みそ沸騰するから基本鏡像みたいに連動させてる」
これ使ってると死ぬほど疲れるからダルいんだよね、とアリスはため息をつく。
彼女の言う通り、鏡像たちは本体と同じ動きをしている。口も開閉しているが、声を出しているのは一人だけだ。
その時、モンスターがまたも触手を振るう。
今度はサクラを狙って。
しかしその先端は鏡の盾で防がれる。
通じない。モンスターの攻撃は最初から、アリスには一切通用していない。
「さて、じゃあ終わらせようか。鏡像散開」
その声に応え、鏡像たちが動く。
音もなく駆けたかと思うと、四方からモンスターを取り囲んだ。
「群鏡、展開」
本体を合わせた四人から、小さな鏡が一斉に生み出される。
それらすべてがモンスターへとその鏡面を向けている。
モンスターは応戦するように触手を振り回すが、全て抑え込まれ、跳ね返される。
四倍の数を誇る鏡の群れを突破することは不可能だった。
そして。
その数の攻撃から逃れることも、また不可能。
「一斉射撃」
音もなくアリスが手を降ろした瞬間、全ての鏡が月光を反射したレーザーを放つ。
そのほとんどは体表に弾かれる、が――数が多すぎる。全方位から照射されるレーザーはモンスターの両腕の大顎へと飛び込み、そしてその身体を爆散させた。
「……あー疲れた」
ぱらぱらと破片が飛び散る中、全ての鏡が消えていく。
まるで何でもないことのように、サクラでは敵わなかったモンスターを撃破した。
これがアマチュアで最強とも目される銀鏡アリスの力。
あの時アリスに戦いを挑んだのは、本当に無謀だったんだなとサクラは改めて思い知った。
その背中を見上げていると、アリスが振り返って手を差し出して来た。
「ほら、手。立てる?」
「あ……ありがとうございます。先輩、強いですね……」
「何を今さら。さておき、とりあえず第三層はこれで大丈夫そうだね」
アリスの言う通り、モンスターを倒したことで周辺は静まり返っている。
集中して気配を探っても、何かが潜んでいる感覚はしない。
「そうだ、四層と五層は!? 確かキリエさんが担当してるって……」
四層ともなると今のサクラでは対処しきれない。
その上体力も残っていないので、戦力にはなれないだろう。
だが焦るサクラに対してアリスは落ち着き払っていた。
「あー、問題ないよ。そろそろ……」
と、空中をこじ開けるように穴が開いた。
サクラがぎりぎり通れそうなくらいのサイズのそれをじっと見ていると、そこから突然光の束が溢れ出した。
「うえええ!?」
「お、帰ってきたかな」
驚愕するサクラの眼前に光の束が集まったかと思うと、それは徐々に人の形を結んでいく。
金色の髪に、血のごとく赤い瞳。
月光を背にしてなお輝くような美貌を湛えたその少女は、最条キリエだった。
「会長、どうでした?」
「ああ――数が多くて骨が折れたが問題は無いよ。時間がかかり過ぎたくらいだ……ってサクラ?」
キリエは目を見開くと、サクラに近寄って身体のあちこちをぺたぺたと触る。
白くて細い指がそこかしこを這いまわるので、サクラは気が気でなかった。
だんだんと顔が熱くなってきて限界を迎えようとした直前、手が離れる。
「……よかった。たぶん手助けしに来てくれたんだろう? とりあえず大きな怪我はないみたいだし……うん、心配していたんだ。……本当に良かった」
心の底から安堵した様子でキリエは眉を下げる。
サクラはキリエにも連絡をしなかった。誰一人例外なく、全てを拒絶していた。
だが、今やっとわかった。自分の周りには、自分を気にかけてくれる人がたくさんいたのだと。
「心配かけてごめんなさい……またいろいろと話したいこともあるので、みなさんの時間をください」
「……ああ、もちろん。さあ、今日は帰ろう、みんな」
そうして未曽有の危機を乗り越えたサクラは錯羅回廊を後にした。
だが心の傷まで乗り越えたわけではない。
明日を歩くために、サクラには休息が必要だった。




