96.天は地、地は天
目の前に迫ったモンスターという脅威をはじき返して現れた少女。
銀鏡アリス。サクラのひとつ上の先輩だ。
「アリス……先輩?」
「…………」
アリスは答えない。
今も起き上がろうとしている、目も鼻も無い黒いワニのようなモンスターから視線を外さない。
油断するな、と言われている気がした。
モンスターは起き上がったかと思うと、まるで上に吸い込まれるような動きで天井に――天地が逆転したこの場所では床だ――立つ。
重力に縛られない異様な挙動にサクラが目を剥いていると、予備動作も無く飛びかかって来た。
だがその動きは空中で止まる。透明な何かに噛みついた状態で、モンスターは身動きが取れなくなった。
サクラはその”何か”を知っている。
「鏡……」
アリスとの戦いで嫌というほど味わった鉄壁の守り。
鏡のクオリアの力で展開された透明な鏡の盾が、モンスターの巨大な顎による攻撃を微動だにせず受け止めたかと思うと。
バキン、という破砕音と共にモンスターの口内にずらりと並んだ牙が砕け散った。
空中でのけぞるモンスターを前に、鏡の盾が分裂し、無数のビットに姿を変える。
その鏡面が一斉にモンスターを向くと窓から差し込む月光を受けて輝き――レーザーの束を口の中へと注ぎ込んだ。
「――――――――!」
声も上げずに消滅していくモンスター。
静かにため息をついたアリスはあたりに耳を澄まし、周囲に他の敵がいないことを確認すると、背後のサクラに向き直った。
「あ、あの、ありがとうございま痛っ」
脳天にチョップが突き刺さった。
じんじんと痛むつむじを抑えながら見上げたアリスは眉を吊り上げ、薄い唇を引き結び、あからさまに怒っている。
「手のかかる子ほどかわいいなんて言葉は嘘っぱちだよね。銀鏡は心配かけない子の方が好き。めんどくさくないし」
「う……ご、ごめんなさい……」
アリスの知らない様々な出来事があったとは言え、サクラが誰とも会わず連絡も遮断した上、こうしていきなり現れたのは事実。周りからすれば、何が起きたのかさっぱりわからないし心配もするだろう。
しゅんと俯くサクラに、アリスはばつが悪そうに顔を背ける。
「……こっちからしたら、わかんないんだよ。いきなりいなくなられたらさ……何かあったのかなと思うし、心配もするよ……銀鏡って相談相手にもなれないのかーとかいろいろ考えちゃうし」
「ち、違うんです! 先輩が悪いとかじゃなくて……あたしが悪くて」
「ああもうそんな泣きそうな顔しないでってば。こんなこと言うつもりじゃなかったのになー……」
はあ、とため息をつく。
「銀鏡こそごめん。サクラの顔見たら、まあ事情は分かんないけどいろいろあったんだろうなってわかったし。……とりあえず無事でよかった」
「……はい。助けてくれてありがとうございます」
うっすらと笑うアリスに、サクラはようやく表情を緩めることができたのだった。
* * *
「ふうん。第一層はカナがいるから余裕として、第二層の群れを倒して来たのはえらいね。やるじゃん」
「え、えへへ」
アリスに頭を撫でられて、思わず笑みが漏れる。
二人は静まり返った校舎を歩いていた。寒さは二人の周囲バリアのように展開されたアリスの鏡が反射することで幾らか和らいでいる。
アリス本人はというと、最初から第三層を担当することが決まっていたからかダッフルコートを着用していた。
これだけで大丈夫なのかと聞いてみると、学園都市製だから防寒性は見た目以上に高いうえに動きやすいのだという。
「それにしても黄泉川先輩が来られないなんてね。何があったの?」
「それが説明すると長くなるというか、あたしにもよくわかっていない部分が多くて……」
サクラの心の中に入った結果、錯羅回廊を出入りしたのと同じようにクオリアが使えなくなってしまった――厳密には使えないわけではなく、極めて弱化してしまった状態だが――という事情を説明するにはサクラの心の中に入った理由を説明する必要があり、そのためにはサクラの置かれた状況を説明する必要が浮上する、とややこしい事この上ない。
アリスはそのことを察したのか、それとも対して興味がないのか、「まあいいけど」と締めた。
「めんどくさそうだし……それよりこの層の仕上げをしないとね」
「さっきのモンスターで最後じゃないんですか」
「いやいや。あんなの前座も前座だよ。本体がどこかにいるはず……さっき戦ったのは、そうだな、親玉の角質みたいなものだね」
「角質……」
サクラの攻撃をいともたやすく弾いたアレが、前座。
ならばその大本はいったいどれほど強大なのかと項垂れたくなる。
「いや、サクラが弱いんじゃないよ。クオリア使えるようになったのが四月だっけ? 出来過ぎでしょ」
「……そんなの、いざという時の言い訳にはなってくれないじゃないですか」
「…………」
影が差すサクラの横顔に、アリスは思わず口をつぐむ。
確かにね、と思わなくはない。
結局、力を磨いた期間に実力が伴っているかどうかは実戦の結果に関係は無い。
そこにあるのは勝敗だけだ。
失敗の理由にはなってくれるかもしれないが――自分に見合った相手と都合よく戦えるのは、レギュレーションの設定された『試合』だけであって、この錯羅回廊においてはそうではない。
サクラをここまで打ちのめすなんて、どんな相手と戦ったんだろうと気になりはしたが、重要なのはそこではない。
「あのね、サクラ――――」
アリスが何かを言おうとしたその時だった。
ドカン! と破砕音が響くとともに、サクラたちの足元が――天井が砕け、青い触手のようなものが何本も飛び出して来た。
「なっ……」
触手は瞬く間にサクラたちを拘束し、階下――天井が下であることを鑑みると階上か――へと引きずり込んでいく。
青い触手はイソギンチャクのような質感で、どれだけ振り払おうとしてもビクともしない。それどころかどんどん力を増し、腕くらいならへし折れてしまいそうだ。
「サクラ! あっちから来た……好都合だ! 逆らわずにこのまま行こう!」
「えっ、ちょ……鉢合わせた瞬間大変なことになったりしません!?」
「それは銀鏡がどうにかする!」
そんな無茶な、と言いたくなったが、アリスがそこまで断言するからには信じた方がいいだろうと判断する。
その間にもどんどん足元を突き破って階を移動していく。いったいこの校舎は何階建てなのかと十階くらいまで数えていた辺りで、最後の天井を突き破った。
「屋上……?」
サクラの目の前には真夜中の空と、屋上の景色が広がっている。
しかしやはり天地は逆。屋上が頭上に、まるで天井のように広がっていて――そして。
触手の主がそこに立っていた。
それは全身が硬質なフジツボが何かで構成されたような人型のモンスターで、両腕は先ほど戦ったワニもどきのように大顎そのものになっていて、その口の中から青い触手が生えていた。
異様なのはサクラたちと違い、そのモンスターだけが重力の影響を正しく受けているかのように屋上に足をつけてこちらを見ているということだろうか。
そんなふうに外見を注視していると、触手が縮んでいく――このままでは両腕の大顎に二人まとめて噛み砕かれる。
「斬れ、鏡!」
その声に応じてどこからか飛んできた鏡が、まるで丸鋸のように二人を縛る触手を断ち切る。
解放されたものの上手く着地などできるわけがなく、サクラは不格好に叩きつけられる。
「う、いてて……あれ」
サクラが倒れているのは、空中だった。
屋上が天井なら、空は床――ということなのだろうか。
錯羅回廊に物理法則は通用しない。
「サクラ、構えて。私たちでこいつを倒してさっさと終わりにしよう」
さかさまに立つモンスターを見据えるアリスに倣うように、サクラも立ち上がる。
ここ最近はずっとひとりきりで戦ってきたから、誰かと肩を並べるというのはこんなにも頼もしいものなんだな、と。
のんきに思ったりした。




