92.Arise Alive A life
世界が崩れる。
空も地面も、崩れた聖堂でさえも、全てがテクスチャのように割れていくと、あたりの景色が元のサクラの部屋へと回帰した。
サクラはエリの死を理解した。
その事実を正面から受け止めた。
今まではただ押しつぶされて、逃げるように彼女の痕跡を確かめようとして、ぺちゃんこになった心は誰も彼もを拒絶していた。
こうして受け止められたのはきっと、ココがいてくれたからだろう。
今も背中を撫でてくれている彼女が共に背負ってくれたから、サクラはエリの気持ちを拾い上げることができたのだ。
「ごめんなさい、天澄さん。あなたの心に強い負担をかけてしまった」
伏せた長い睫毛がココの頬に影を落とす。
そんな顔をしてほしくないな、と思う。
ココはあまりほとんど笑わない人だが、だからこそ悲しませたくは無かった。
「……謝らないでください。本当は、あたしが望んでいたんです。あの時エリちゃんに貰った言葉をきちんと受け取れなかったこと、あたしはずっとずっと後悔していて……でもそこへ踏み込んだら、エリちゃんを失ったことを認めてしまうから、だからずっと逃げてたんです」
心は多面体だ。
ひとつの物事に様々な面を見せる。そしてその面は矛盾を抱えていることが常だ。
あの瞬間を振り返るのが怖かった。
だけど、あの瞬間を確かめたいとも思っていた。
しかしすり減ったサクラにはそこまでの勇気は無く。
きっとひとりでは、逃げ続けて悲しみに潰されていただろう。
今こうしてココが自らの戒律を破り捨ててまで介入したことで、あたかも荒療治を施されたかのようにサクラは自らの記憶を振り返ることになった。
心が引き裂かれるほどの苦しみを味わったが、それでも彼女の遺したものを拾い上げることができたのは――間違いなく良かったのだ。
そうでなければ、サクラはエリの意志を置いていくところだった。
「みんなが忘れてしまっても、痕跡までもが消えてしまっても。あたしがこうして覚えていれば――エリちゃんが助けてくれたあたしがこうして生きていれば。あの子が存在した証になると思うんです」
だから、と。
サクラは顔を上げる。
涙は流れ続け、心は軋む。悲しみはまだ癒えない。癒えるはずがない。
しかしそれでもサクラは笑う。心からの笑顔を浮かべてみせる。
「だから……ありがとうございます、せんぱい」
その言葉に、ココは眩しいものを見つめるように目を細める。
過去は見た。客観的に映像として目の当たりにしただけだが――それでも。
この苦しみを経て、この少女は笑うことができるのか。
「……天澄さん。私はあなたのことを、心の底から尊敬する」
「ふふ。なら、お互いさまですね」
そうして笑いあった瞬間、ココのスマホが振動した。
慌てて取り出すと、相手は――最条キリエ。
「どうしたの?」
『ココ! 今どこにいるんだ!?』
「えっと、それは……」
『いや、それはいい、とにかく来てくれ! さっき理事長から通達があって――――』
漏れ聞こえてくる話の内容はサクラにはよくわからなかった。
ただ、キリエがここまで焦りを見せているところは初めてで、なにかひどく切羽詰まっていることだけが理解できた。
ココはキリエの話を聞くと、視線を彷徨わせてこう言った。
「……ごめんなさい。実はさっきからクオリアが使えないの」
サクラは驚いてココを見る。
まさかと思ったが、彼女の表情からそうは感じられない。
そこからココはキリエと数度言葉を交わし、通話を切った。
「あの、なにかあったんですか……?」
「…………」
ココはサクラを見つめ、幾度かの逡巡の末に口を開く。
「……錯羅回廊のモンスターたちが急激に活性化して、現実世界へと溢れ出そうとしているようなの」
「え…………?」
「あの異空間のモンスターたちは、基本的に外敵が来ない限りはそこでただ暮らしているだけ。だけど少数の個体は私たちの目には見えない境界を通って現実世界を目指そうとしている――私たち生徒会がたびたびモンスターの討伐に出ているのはその防止という面もあるの」
「じゃあ今の通話って、もしかしてキリエさんたちがそのモンスターたちの討伐に行くっていう連絡だったんですか?」
その問いにココは頷く。
「活性化したモンスターは第一層から第五層まで、全ての層から侵攻してるみたい。幸いにも――と言っていいのかはわからないけど、現状私たちが到達した階層よ。だけど……」
「手が、足りない……」
「……そうね。キリエがいても、さすがにすべての階層はカバーできない。だから私に連絡が来たんでしょうけど……今の私にはクオリアが使えない」
「そうだ、どうして使えなくなったんですか? もしかしてあたしの心に潜って力を使い過ぎたとか……?」
「違うわ。それくらいで使えなくなったりはしない」
その理由に、ココは心当たりがあった。
錯羅回廊に出入りすると――より正確に言うと、錯羅回廊から出るとしばらくの間クオリアの力が大きく弱まる。
よって今のココは高校生に毛が生えた程度の戦闘力しかない。
この現象はおそらくサクラの心の中に入ったせいだろう。
あの世界は錯羅回廊に酷似している。だからこそ錯羅回廊と同じ作用が働いたのではないだろうか。
「だったら」
その声に、思考を巡らせていたココが顔を上げる。
サクラの涙はいつの間にか引いていた。
「だったら、あたしが先輩の代わりに行きます」
「な…………」
「あたしは……なんでかわからないですけど、錯羅回廊に出入りしても問題なくクオリアが使えます。それにあたしも生徒会の一員なんですから、戦う義務があるはずです」
「ダメよ! あなたは今もまだ傷ついたままなのに……」
案じるような言葉に、サクラは眉を下げて笑った。
悲しみを滲ませたような顔で。
「……確かに、まだすごくつらいです」
友達を救えなかった後悔や苦しみを癒すには、この一週間という期間は短すぎた。
だが、癒えて欲しくないとも思うのだ。
もしも癒えて、昔のことにしてしまったら。
エリのことを忘れてしまいそうで怖い。
現にサクラの中では昔親友をクオリアで傷つけたことが過去になりつつある。
それでも後ろを振り返ったままでは歩くことすらできないのだ。
「エリちゃんは、あたしに『生きて』と言いました。生きるってことは、顔を上げて歩いていくことだと思うんです」
「天澄さん……」
「だからあたしは、まず自分にできることから始めたいと思います。このクオリアで誰かを助けられるなら、あたしはそうしたい」
それは原初の願いだ。
最初は贖罪のための目的に過ぎなかった。
しかし今はサクラ自身のアイデンティティになっている。
過去は関係なく、今のサクラ自身が抱く想いだ。
そんなサクラの姿に、ココは一度、深く息をついた。
「……えっと、先輩」
「わかったわ」
本当は心配で仕方ない。
だがここまでで言われては止められない。
信じるべきなのだろう。
サクラは守るべき後輩だ。
だが同時に、頼るべき生徒会の仲間なのだと、ココは再認識した。
「心置きなく行って来なさい」
「…………はいっ!」
サクラは手を床につける。
するとそこを中心に虹色の輪が生じ、人間が通れそうなサイズまで拡がった。
「ココ先輩」
「……なに、サクラ」
「あたし、いきますね」
「ええ、いってらっしゃい」
サクラはひといきに穴へと飛び込み、姿を消した。
あの先はきっと錯羅回廊へと繋がっている。
「……どうか無事で」
ココはただ、静かに祈るのみだった。