87.フライング・メモリー
サクラの心の中に潜ったココが見たのは、巨大な鉄の扉だった。
「これは……また様変わりしたものね」
以前の彼女の心は小さな水の惑星のようだった。
抵抗が無く、どこまでも潜っていけるような姿。
だが現在ココが立っているのは真っ黒い道だ。暗くはないが、黒い。明かりがないのに視界が確保できている、不思議な場所だった。
その道を塞ぐようにして厳重に閉ざされた扉が立ち塞がっているのだ。
「あたしの心の中ってこうなってたんですね」
「……え?」
振り返ると、ココと同じく扉を見上げるサクラがいた。
心に深い傷を負った現実での彼女とは違い、今は落ち着いているように見える。心の中という特異な状況下で、肉体から解き放たれているからだろうか。
しかしそこに普段の活発さは失われていた。
「ちょ、ちょっと、どうしてあなたまでここにいるの」
「え? そういうものじゃないんですか?」
「違うわよ、っていうかもしかして前の時にも……」
「はい、先輩の後ろにいましたよ。すぐに終わっちゃったので声をかける暇は無かったんですけど」
嘘でしょ、と心の中で呟く。
ココは警備隊に協力を求められ、何度か捕縛された犯罪者の心へ潜行したことがある。
絶対に嫌だと断ったのだが、半ば無理やり――というか、一般都民の安全を盾にされる形でしぶしぶ了承することになった。
その時は、今のように本人がこうして心の中に出てくることなどなかったのだ。
(ポケットで消えた人のことを覚えていることと言い、この子はいったいどういう……)
普通とは違う。
それは間違いない。だが現状見当がつかない。
「……まあいいわ。とにかくこの扉の向こうにあなたの心の本体があるはずよ」
「あたしの……心……。でもあの扉、すごく厳重に鍵が閉められてるみたいです」
見れば扉には大きな錠や鎖などでガチガチに固められている。
ちょっとやそっとでは開けることはできないだろう。
そしてその事実は同時に、サクラがそれほどまでに心の内を明かしたくない証左でもある。
だが、ココは覚悟の上でこの場所に来た。
サクラの心を暴くために。
ゆっくりと歩き、扉に手を当てる。
振り向くとサクラが不安そうに俯いていた。
「……開けるわよ。いいわね」
この世界の主は、幾度かの逡巡を経て、確かに頷いた。
頷き返すココが細い手に力を込めると扉の戒めが紙屑のように砕け散った。
これが思念のクオリア。こと心に限定すれば、圧倒的で問答無用な力。
重厚な鉄扉が開いていく。
その向こうに広がるのは――――視界いっぱいに広がる草原。
それも遺跡や道路に標識など様々なものがコラージュのごとく混ぜられたような見覚えのある草原だった。
「…………え? ここって錯羅回廊の第一層……?」
ココの言う通り、その風景も匂いも空気もなにもかも、学園都市に存在する異空間――錯羅回廊とまるきり同じだ。
サクラの心があの異空間と繋がっているのか?
それとも心の中が錯羅回廊を模しているだけか?
進むたびに疑問が溢れてくる。
「どうしてあたしの心が錯羅回廊みたいな景色に……?」
「……わからない。心の中の世界はその人の記憶が組み合わさって形成されるから荒唐無稽なつくりになっていることが多いけど……それにしたって”そのもの”すぎる」
それだけサクラの心や記憶に錯羅回廊が根付いているということなのだろうか?
以前聞いた、自力で錯羅回廊への入り口を作れたという事象と合わせて考えると不可解なことこの上ない。
サクラと錯羅回廊に、いったいどのような関係があるのか。
(いや、今そんなことは問題じゃない)
視界を塞ぐ謎の数々でここに来た理由を見失ってはならない。
二人はとりあえず進むことにした。
この場所のどこかに、サクラの記憶があるはずだ。
「…………」
「…………」
歩き出した二人の間に沈黙が佇む。
黄泉川ココはあまり笑うことは無いし、自分から話を振ることも少ない。
全体的に冷たい雰囲気を纏っていることから相手が言葉に困り、こうして会話が弾まないことが多かった。
適度に気を遣わない生徒会役員たちや、直向きに距離を詰めてくるサクラ相手は例外だが、今に限ってはそのサクラが普段の調子を失っている。
背後を窺えば、明らかに血色の悪い顔をした彼女がゆっくりとした足取りで着いてきている。
それにしても広い。
ここまで複雑で広大な心は初めてだ。
探し始めたものの、どこから探せばいいのか見当もつかない。
そんなことを考えていると、後ろでサクラがぽつりとつぶやいた。
「…………ごめんなさい。迷惑かけちゃって」
「謝るのは私の方よ。あなたの意志を無視して、こうして心に土足で踏み入っているのだから」
例えサクラが扉の前で首を横に振ったとしても、ココは扉を開いただろう。
サクラが傷ついている理由を知りたい。知って、彼女を助けたい。
それはサクラ自身の意志を無視したココの想いだ。
「本当はあたしの口から話すべきだっていうのはわかってるんです。でも、話そうとすると……どうしても喉が詰まって息が苦しくなって……」
「言わなくていいわ。……勝手に見るから」
ココは静かに考える。
もし立場が違って、誰かがサクラの心を無理やり暴こうとするのを目撃してしまったら。
きっと私は激昂するのだろうなと、他人事のように思った。
自分で自分が許せないことをしている。
それはある意味滑稽で、同時に心底罪深いことだ――そんな思考に浸っていると、草原を抜ける風に砂が混じり始めた。
「……? これって……」
既視感がある砂風に眉をひそめた途端、景色が変わる。
まるで蜃気楼が揺らぐようにして草原が歪み、目の前に現れたのは砂漠と滅びた都市、そしてそこかしこの大地に突き刺さる巨大な武器の数々。
「第二層、か」
変化した景色は錯羅回廊、第二層のもの。
そう言えば謎のボディスーツの女性に殺されかけていたサクラを助けに来たのもこの場所だった。
「……めちゃくちゃですね」
背後のサクラがどこか吐き捨てるように呟く。
あまり彼女らしくない言い方だなと思ったが、ココとしても同感だ。
心の風景がこうも様変わりするなどありえるのだろうか。
だがこうなってくると、ますます記憶の目星がつかない。
普通の人の心の中はもっとわかりやすい構造になっていて、記憶や思考の核も見える場所にふわふわ浮いていることがほとんどだった。
「とにかく進まないと」
幸いなことに、こうして心に潜っている間は現実世界での時間経過が極めて遅くなっている。
時間だけはあるのだから、根気よく探すべきだ。
砂を含んだ風に逆らうようにして、崩れたビルの間を歩いていく。
すると再び景色が揺らぐ。
またか、と身構えた瞬間、今度は視界が180度回転した。
「……は?」
そこは学校の校舎だった。
最条学園のものではない、一般にありふれた、どこか古めかしさも感じられる建物。
だがその場所にだけ氷河期が到来したかのように内部は濃密な冷気に支配され、壁も床も天井も凍り付き、あちこちに霜が降りていた。
だがそれらが陳腐に思えてしまうような状況が立ちふさがっている。
天井が下。
床が上。
天地がひっくり返っているのだ。
「どういう……こと?」
ココが困惑しているのは、再び情景が変わってしまったから――ではない。
この場所が、サクラの心の中にあることが不可解この上なかったからだ。
「ねえ、天澄さん。あなた……錯羅回廊で訪れた層はどこまでだったかしら」
「え、えっと……一層と二層と……五層です」
キリエに連れられて訪れた第一層、遺跡草原。
失意の中たったひとりで落ちた第二層、砂漠の廃都。
そして、この学園都市に来た日の夜に迷い込んだ第五層、血肉の洋館。
そして、この場所。反転の氷舎は。
「ここは……錯羅回廊の第三層とそっくりなのよ」
「…………っ!」
音もなく息をのむ気配がした。
サクラの記憶を覗くために訪れた心の中。
しかしそこで待っていたのは、サクラの記憶にあるはずの無い光景だった。