84.まぶしい世界
円盤が砕け散る。
内部に格納していた瓦礫の数々に混じって、エリとサクラが空へと投げ出される。
「エリちゃん!」
手の届く距離にエリがいる。
同じスピードで落ちていく銀髪の少女は、気を失っているのか瞼を閉じて全身を弛緩させていた。
唯一動く手を必死に伸ばす。
あの時は。
エリがポケットに落ちた時には、届かなかった。
だから今度こそ助けたい。
この胸にある想いを届けたい。
あなたには胸を張って生きていてほしいのだと。
「と、ど、けえええええええ!」
吐血を伴う絶叫を迸らせ、手を伸ばす。
もう少し、あと少し。少しずつ近づいて……指先が触れる。
制服の端をつまんで一気に引き寄せ、自分より少し小柄な身体を強く強く抱きしめた。
弱々しくも確かな鼓動が伝わって来て、生きていることに心から安堵する。
地面が近い。
このまま落下すればタダでは済まない。
だからサクラはほとんど空っぽになった力を振り絞る。
自分と地面の間に反発する磁力を生じさせ、落下スピードを弱めていく。
そして。
墜落死することはなく――しかし華麗な着地などは望めず。
サクラは自分の身体を下にして、不格好に落下した。
「……っ……!」
肩をしたたかに打ち悲鳴を上げそうになりながらも、エリを上手く地面に転がす。
彼女に限っては衝撃をほぼゼロにできたようで、ころころと転がって止まる。
「う……ここは……?」
意識を揺り起こされたのか、わずかに苦し気に呻いたエリは少しずつ目を開く。
あたりを見回すと、ボロボロのサクラを目の当たりにした。
「サクラ……!? あなた、その身体……!」
「え、えへへ。あたしどうなってます? ちょっと……あんまり感覚が無くて」
笑うサクラの顔は額や口から流れた血で汚れている。
両腕はうっ血して変色しているし、もっとも酷いのは下半身だ。
あちこち裂けて出血で真っ赤に染まる脚は両方があらぬ方向にひしゃげている。
磁力と纏雷の併用による速度はクオリア使いの耐久度をゆうに超えてしまったのだ。
もうひとかけらの力も残っていない。
「どうして……こんな……」
「エリちゃん?」
「どうして私なんかを助けに来たの!?」
目覚めたばかりのエリは足に力が入らないのか、四つん這いのままサクラに近づき、その身体を起こす。
身体に力が入っていない。サクラの命の灯は、あまりにも頼りなく揺れていた。
力という力を絞り出し、その命を投げ出すように戦ったサクラは、あまりにも消えてしまいそうな儚さを湛えていた。
「私は、作られた人間。みんなとは違う。あなたみたいに愛から生まれて育ったわけじゃない。こんな不確かな存在のために、どうしてあなたが……あなたみたいな人がそこまで傷つかないといけないの……」
あたりの残骸には見覚えがあった。
円盤が飲み込んでいたそれらは、エリがいた研究所のものだ。
どういう理屈かはわからないが、この円盤のモンスターは現実世界に干渉し、あの研究所をまるごと食らったのだろう。
円盤はエリの心から生まれた。おそらくエリは無意識化であの研究所のことを深く憎んでいたのだ。
自分を作り出した、あの場所を。
サクラの顔を見下ろすエリは泣いていた。
大粒の涙を拭うこともできずに、その雫は雨のようにサクラの頬へと落ちる。
震える肩にゆれる銀髪が、サクラの肌をくすぐった。
「ひとりで良かったのに。誰とも関わりたくなかったのに。もう全部嫌になって、もう消えたいって思って……そうしたらいつの間にかこの場所にいた。だからもう、全部終わりでいいって諦めたのに」
なんで助けちゃうの。
涙に濡れた声で、エリは囁く。
「あなたは幸せでしょ。人に囲まれて、人に愛されて――私がいなくたって幸せに生きていけるでしょ。私とは違って……」
「それは違いますよ……」
静かに聞いていたサクラが、かすれた声で言う。
「ごめんなさい、エリちゃんの苦しみに寄り添えなくて」
「なんであなたが謝るの……? 私、酷い事ばっか言ってるのに」
「エリちゃんが優しいってことは、もう知ってます。他の誰が知らなくても、私が知ってるんです。どんな想いで話しているのかも伝わりました」
身体が動かないのがもどかしい。
足が動けば立ち上がっているのに。
腕が動くなら抱きしめているのに。
この少女が、これ以上傷つかないように。
「エリちゃんの代わりなんてどこにもいないんですよ」
「……でも私は科学的に製造された人間で……たぶん、簡単に量産できるような、そんな存在で……」
「ここにいるあなたは、あなただけです。あたしと同じ時間を過ごしたエリちゃんは、ここにしかいません」
サクラは精いっぱいの笑顔を浮かべる。
これ以上悲しまないように。
悲しみの涙なんて、本当は一滴だって流さなくていいのだから。
思えばエリは最初から人と関わることを避けていた。
それはきっと、傷つかないため。
そして傷つけないためだ。
「……寂しいのって安心しますよね」
「え?」
不意にサクラがそう言って、エリは疑問を浮かべる。
しかし何となくその言葉の意味は腑に落ちた。
「ひとりでいれば誰も傷つけないし、誰にも傷つけられない。あたしもそんな時があったからわかります」
クオリアで親友にケガを負わせたサクラは部屋に籠って人との接触を断った。
この力がまた誰かを傷つけたらと思うと怖かったからだ。
誰とも関わらないというのは寂しかった。
しかしそこには確かな安堵があった。少なくとも誰かを傷つけることは無いと思ったから。
「だけど、それだけじゃ駄目なんです。あの部屋から出て、色んな人に会って、色んな経験をしました。怖い思いもしたし傷つくこともありました。でもあたしは後悔してません。この力で人を助けて、やっと生きててよかったって思えたんです」
「サクラ……」
エリの眼をまっすぐに見つめる。
赤い瞳。これが被造物の証だとしても、サクラは美しいと感じた。
「あたしはエリちゃんにも同じように思ってほしい。世界にはまぶしいくらいキラキラしたものが溢れてるんだって知ってほしい。怖いなら、あたしが一緒に探しますから――――」
感覚の無くなった腕が、ゆっくりと動く。
震える指ででエリの頬の涙を拭う。
「一緒にここを出ましょう、エリちゃん」
「サクラは……どうしてそこまで想ってくれるの?」
わからなかった。
自分にそこまでしてもらえる価値があるのか。
彼女の献身を受け取っていいのか。
エリはまだ怯えてしまう。
「それは…………」
友だちだから、と言おうとした。
しかしそれは理由にならない。
特にエリにはまだ飲み込みづらいはずだ。
「あたしの気持ちがエゴじゃないって言ってくれたのが……嬉しくて。それだけじゃダメですか?」
「……ぜんぜんわかんない」
「ありゃ」
それはわからないだろう――と。
サクラはこっそり思う。
自分があの言葉にどれだけ救われたのか。サクラ自身、驚くほどだったのだから。
「でも、ちょっとわかったよ。帰って、そしたら私もいろんな人と関わってみる。サクラみたいに」
サクラは思わず目を見張った。
あのエリが柔らかい笑顔を浮かべていたのだ。
思わず言葉を失い、目を奪われ――だから気づくのが遅れたのだろうか。
どこからか飛来する光の針に。
「え?」
声を上げた時には、針は円盤の残骸に突き刺さっていた。
どくん、と鼓動が脈打つ。円盤がその機体を自ら持ち上げ、そしてその姿を変化させていく。
無機質な身体から、有機的な姿へと。
まるで怪物の大顎そのもの。
シルエットとしては大口を開けたハエトリグサが近い。
その口を開いた円盤が二人へと迫る。サクラもエリも一緒くたに喰らおうとする。
「危ない!」
おもむろに立ち上がったエリはサクラを思い切り蹴りとばす。
力の抜けたサクラの身体は簡単に転がってエリのそばから離れていった。
「エリ、ちゃん……?」
呆然と呟くサクラの視線の先。
エリは、笑っていた。
屈託なく、心から。
「…………………………」
その声は轟音に阻まれて聞こえなかった。
しかし、その唇の動きだけはいやに鮮明に見えて――――
「――――――――」
円盤がエリを食らう。
その大口で、丸ごと。
瞬間、世界が壊れた。
ガラスのように景色が砕け、全てが白く弾けていく。
まばゆさに思わず目を閉じ、何も見えない光の中。
『恨んでいいよ』
と。
そんな声が聞こえた気がした。
* * *
「…………!」
覚醒した。
自らの意識を無理やりひっぱり上げたかのような目覚めだった。
カーテンに囲まれたベッド。ここは病院……ではなく、見慣れた学園の保健室。
そのベッドの上だ。
身体の傷は、無い。
だがこのベッドの上にいること自体があの空間での戦いを何より証明している。
半ば呆然としていると、勢いよくカーテンが開かれた。
「サクラちゃんっ!」
「あ、え、ハルちゃんんぶぇっ」
思い切り抱き着かれて首が締まる。
肩越しに、呆れたような養護教諭――新子の姿が見えた。
「サクラちゃん、良かった……いきなり変な渦に飲み込まれたと思ったらぼろぼろの状態で戻って来て……死ぬところだったんだよ……?」
「ごめんなさい、また心配かけちゃったみたいで……そうだ」
エリは。
最後の瞬間、彼女はどうなった?
確か復活した円盤の怪物に飲み込まれて、それで――――
「そうだ……!」
ベッドから立ち上がり、走り出そうとする。
だがハルが見た目にそぐわぬ力で抱き留めた。
「さ、サクラちゃんどこ行く気なの!? 傷は治ったけど安静にしてなきゃダメだよ!」
「止めないでください、エリちゃんを助けに行かないと!」
もう一度あのポケットに行かなくては。
入り口になったあの体育館からなら入れるだろうか。
それとも錯羅回廊を経由しないといけないのだろうか。
とにかく一秒でも早くエリの元へ戻らなければ――と。
熱くなった頭に氷を差し込まれるような言葉が空気を震わせた。
「エリちゃんって……誰?」
「…………え」
身体が止まる。
思考が止まる。
今聞いた発言が理解できない。
「サクラちゃんの知り合い? もしかして、今回の怪我はその子と関係してるの?」
「いや、ハルちゃん……エリちゃんは……」
新子先生は知ってますか? というハルの視線に、新子もまた首を横に振った。
エリを知らない? いや、そんな筈はない。
あれだけ学園都市中を騒がせ、多くの生徒や生放送を見ていた人々の前でサクラと激闘を繰り広げた彼女を知らないなんて、そんなことが――――
「まさか」
ひとつ、以前に聞いた話が頭をよぎる。
(いやだ)
湧き上がる予感を必死で抑え、しかし浮かんだ記憶は止まらない。
――――引きずり込まれた誰かがポケットの主に殺されてしまうと、その人は存在ごと消えてしまうようなんだ。
(いやだ!)
――――……ただ命を落とすだけでなく、その人が存在していたという痕跡ごと……例えば書類上などのデータや他人の記憶からも消えてしまう。存在が消えるというのはそういうことだよ。
「………………………………………………………………………………………………ぁ」
そういうことなのか。
最後のあの光景。
円盤のモンスターにエリが飲み込まれたこと。
そしてハルや新子がエリのことを忘れてしまっていること。
それらを合わせて考えると。
「エリ ちゃん が」
その続きを口にすることはできなかった。
その事実を受け止めることが、今のサクラにはできなかった。