8.錯羅回廊
昨夜のことである。
夢遊病のごとく徘徊していた友人、ハルを追いかけたサクラはいつの間にかダンジョンのような異空間に迷い込んでいた。
そこは血肉の這う洋館のような場所。闊歩していたのはこの世のものとは思えないモンスターたち。
そんな状況で、頭の中に響いた何者かの声が導いてくれた結果、モンスターに襲われそうになっていたハルを救うことができた。
そしてその何者かの正体が、いま目の前にいる――――
「あの声の人が……最条先輩……?」
「そう。あの時はココの能力で念話を繋げてもらっていたんだ」
「他人同士を繋げるの、結構疲れるのよ。できれば勘弁してほしいわね」
ため息交じりに呟く黄泉川ココを尻目に、サクラは混乱しきっていた。
憧れの存在……というよりサクラがキューズを志し、この最条学園に入学を決めた理由であるキリエが昨夜助けてくれた人物だった。
ざっくり言ってしまうと推しが命の恩人だったような状態だ。
「ちょっと待ってください。今うちの預金がいくらだったかお母さんに確認するので!」
「そのスマホをしまうんだ。金銭は求めていない」
「出来れば落ち着いてほしいのだけど……」
二人の制止に、しぶしぶサクラは取り出したスマホをブレザーのポケットにしまう。
ならどうお詫びすればいいのだろう……と考えたが、キリエたちの神妙な表情はそういう話がしたいわけではないと語っていた。
「まず謝らせてくれ。助けるのが遅れて本当にすまなかった……君にあのような大怪我を負わせてしまうことになってしまった」
深く頭を下げるキリエ……だけではなく、ココも小さく顔を伏せていた。
彼女らは、悔やんでいたのだ。
サクラが必死に戦った結果ハルを助けることができた。しかしそれは裏を返せば……何かがひとつでも掛け違っていれば、サクラまで死んでいたということだ。
実際、サクラは失血死寸前だった。
そのことにキリエたちは責任を感じている。
しかし、それはおかしな話でもあった。
「……いいえ。あの時、最条先輩はそこでじっとしていろってあたしを止めてくれました。聞かずに突っ走ったのはあたしです。謝るならあたしの方です……迷惑をかけてしまってごめんなさい」
モンスターを倒した後、倒れてしまったサクラのところに駆けつけてくれたのもキリエたちだった。
感謝こそすれ、謝られるようなことはひとつもない。
「だから気にしないでください。最条先輩と黄泉川先輩は、あたしたちの命の恩人なんですから!」
そうか、とキリエは安堵したように息を吐いた。
彼女が持っているのは強さだけではない。誰かを守らんとする情の深さをも持ち合わせているのだと知り、サクラはますますキリエのことが好きになった。
だが。
(……あたしは弱い)
もっと強ければ。
もしもあんなモンスターたちを容易く蹴散らせる程の力があれば、キリエたちの手を煩わせずに済んだし、ハルをもっと早く助けられたかもしれない。
サクラは机の下で強く拳を握りしめた。
「さて、あのダンジョンについてだが……我々は『錯羅回廊』と呼んでいる」
「へ? さくら回廊?」
「そう、偶然にも君と同じ名前なんだよ。……錯羅回廊はこの学園都市に存在する異空間。少なくとも数十年前には存在が確認されていたらしいが、活性化したのはここ数年だ」
異空間。
馴染みのない単語だ。普通なら到底信じられるものではない。
だが、キリエたちの表情は真剣そのものだ。それにサクラはあの空間を――危険なモンスターが蔓延るダンジョンを、身をもって経験している。
「最有力とされているのがクオリア使いたちの発する感情が集まって生じたものだという説。闊歩しているモンスターは……そうね、混ざりきらずにダマになった良くない感情と言ったところかしら」
ココが引き継いだ解説に、サクラは思わず黙り込む。
良くない感情が集まったもの。確かにあのモンスターたちは、殺意の塊だった。
動物のように捕食を目的としたものではなく、さりとて狩りを楽しむためでもなく。
彼らは、ただそのために生まれた機械のごとくサクラの命を狙った。
「単刀直入に言う。君には錯羅回廊の調査を手伝ってもらいたいんだ」
「あ、あたしがですか!?」
「君はあのダンジョンを経験したから恐れるのも無理はないかもしれない。だが君が迷い込んだのは深層で、本来ならもっと浅い階層から――――」
「そうじゃないです。怖いとかではなくて、あたしはただ……」
俯くサクラ。
落ちこぼれ、と評されたのはまだ記憶に新しい。
戦いの経験だって周りとは比べものにならないくらい劣っている。
アンジュに勝てたのは、彼女が油断していたからだ。
自分の力の無さは痛いほどにわかっている。
「……あたしなんかより、もっと他に適任がいると思います」
「…………」
ココは口を噤んだままサクラを一瞥する。
対称的にキリエは努めて明るく、
「いいや、君しかいないんだ。錯羅回廊には厄介な特性が二つあってね……ひとつは、適性のある者しか能動的に入れないこと。もうひとつは、一度出入りするとしばらくの間クオリアが大幅に弱体化してしまう性質だ。だから我々生徒会でローテーションを組んで調査していたんだが、君は違う。あの異空間から出てきても、問題なくクオリアを使用できた」
「あ……」
そうだ。
錯羅回廊から帰還し目を覚ましたサクラはすぐ模擬戦に挑むことになった。
もしキリエの言う通りクオリアが弱まっていれば、アンジュには勝てなかっただろう。
「こんなことを頼むのは心苦しい。だが、適性のあるものは私とココを含めた生徒会の四人。どうしても限界がある」
適性が無ければ入れない。
それはつまり人手が足りないということだ。
しかし錯羅回廊に入ってもクオリアが衰弱しないサクラがいれば話が違ってくる。
「あれ? 適性を持ってるのが生徒会の人たちっていうことは……」
「もちろん君も生徒会に加入してもらうつもりだよ」
「ええーっ!?」
今日はもう驚きっぱなしだ。
まさか入学した次の日に生徒会に勧誘されるなど。
「ただ、君もまだ学校に慣れていないだろうから業務を担当してもらうということはない」
「え、じゃああたしは何を?」
「生徒会は生徒たちの悩みや意見を受け付けているんだが、毎年一年生はあまり投書してくれなくてね。おそらく遠慮してしまっているのだろう」
そういえば生徒会室の入り口に投書箱が設置してあった気がする。
確かに入学してすぐ生徒会に悩みを打ち明けようというのは中々に勇気のいることかもしれない。
サクラもそうだが、まだ学校に慣れていないことも大きいだろう。
「そこで一年の君を起用したいんだ。サクラには生徒たちの相談窓口になってほしい。同級生にならぐっと頼りやすくなるだろう」
「あたしは……」
「ただ、正直言うと錯羅回廊の探索も生徒の相談窓口も、あまり得にはならない。試合と違ってファイトマネーも入らないしね」
だが、それでも君が必要なんだ――そう告げた瞬間、しばらく無言を貫いていたココが口を開いた。
「私は反対」
「え……」
ココは変わらず無表情のままだ。
だが、その瞳には微かな苛立ちのような感情が含まれているように見えた。
「相談窓口と言えば聞こえはいいけど、ただの便利屋よ。錯羅回廊だってそう。危険なうえに見返りはなくて、それにあなたの適性上、何度も繰り返し調査に参加することになるかもね」
「……言い方は良くないが、ココの言う通りだ。でも私は君と活動したいと思うよ」
キリエの気遣わしげな視線を、俯くサクラは見ることはない。
昨日のこと。キリエの話。ココの話――自分の取るべき選択は、決まっているように思えた。
キリエに期待されている。
認められている。
心から嬉しいと思う。運よく適性があったから、サクラはこうして勧誘されているのだ。
そのことを心に留め、サクラは意を決して口を開く。
「あたしは――――」
* * *
――――ごめんなさい。考えさせてください。
それがサクラの返答だった。
生徒会室を後にしたサクラは思わず項垂れる。
「なんであたしあんなこと……」
実際は断ったのではなく、保留ということになっているが、その場で受けなかった時点でサクラ本人の気持ち的には断ったも同然だった。
その胸中は罪悪感でじりじりと焼かれている。
憧れのキリエに必要とされて。
特別だとまで言ってもらえて。
なのに、サクラは承諾しなかった。
今すぐにでも生徒会室に戻って「受けます」と言うべきなのかもしれないが、そうする気にはなれなかった。
振り返り、扉を見つめる。
すると見計らったかのように扉が開き、ココが出てきた。
精緻な人形のような無表情が目の前に来てサクラは思わず鼻白む。
「ああ、まだいたのね」
「黄泉川先輩」
どうしたのだろうか、と落ち着かない気分になる。
何か失礼を働いてしまっただろうか、そう言えばずっと仏頂面だったような……と今さら恐ろしくなってくる。
そんなサクラの心情を察したのか、
「いえ、叱りたいとかじゃないの。さっきも言ったけど、ちゃんと考えてから結論を出してほしいって伝えに来ただけ」
「そ、そうなんですか? 本当はすぐに受けた方が良かったかなって思ってたところだったんですけど……」
やっぱり、とココは呆れたように眉を下げる。
「結局のところ、便利に使われるだけかもしれないのよ。だから嫌なら断った方がいいわ」
「嫌なんてそんな! あたしは誘ってもらえて嬉しいですし、むしろそのためにこの学園に来たようなものですから」
「……そう。あと、出来ればキリエのことを嫌わないであげてほしいの。あれであなたを呼び出すギリギリまで悩んでたし、関わらせてしまうことを気に病んでるから……」
ああ、と得心がいく。
怒らせてしまったなんてとんでもない。
この黄泉川ココという先輩は、ただサクラとキリエのことを案じて話に来てくれたのだ。
「……ふふ」
「どうしたの?」
「黄泉川先輩、とっても優しいんですね」
目を細めて笑うサクラに、ココは面食らったように頬を染める。
「……あなたってやっぱり変わってるわ」
不満そうに唇を尖らせる。
近寄りがたいほどの美人の意外な一面を見て、サクラの胸の奥は温かくなるのだった。
最条キリエ
好きなもの:学園の生徒 努力 妹
嫌いなもの:学園の生徒を脅かすもの 昔の話