70.どこでもなく、どこにもない
エリいわく。
最初に目覚めたときは右も左もわからず、ただ研究者たちの言葉に唯々諾々と従うばかりだったという。
記憶も無く、自分が何者なのかもわからず、ただ検査と実験の日々。
わかるのは研究者たちから告げられた自分の名前(それも本名かどうか怪しい)と、自身に宿るクオリア。
そして一般常識の類と――――戦闘技術だけ。
サクラと戦った時に見せた格闘術は、目覚めた時から身についていたそうだ。
欠けているのはエピソード記憶。
エリの記憶からは、自身にまつわる来歴がすっぽりと抜け落ちている。
どこで生まれたのか。どこで育ったのか。家族はどこにいるのか。どんな学校に通い、どういった経緯を辿ってあの研究所に至ったのか。
身に着いた知識なども、どこで得たのかはわからない。
その手がかりはきっとあの研究所にある。
学園都市の研究所は大半が関係者以外立ち入り禁止になっているが、エリは研究所出身ということもあり、リミッターにIDパスがインストールされているらしい。
そんなわけでサクラとエリの二人はともに夜を過ごした次の日、善は急げとばかりに研究所を訪れたのだが――――
「え…………」
「ここが……エリちゃんの居たっていう研究所……ですか?」
更地。
エリの言う研究所があったはずの土地には、なにかの残骸だけがかすかに残されていた。
驚くあまり、サクラの口調はおぼつかない。
エリがここを出てから約二日。そんな短期間で建物ひとつが綺麗さっぱり消え去っている。
主要地区から少し離れた郊外にぽつんと立っている研究所……だったはずのその建物は、もう無い。
解体されたのかとも思ったが、それにしては様子がおかしい。
申し訳程度に残る壁や床の残骸の断面がやけに綺麗なのだ。
まるで空間ごと抉り取られたかのような、奇妙な光景だった。
「うそ」
消え去った研究所に反してしっかりと原形を残す塀の正門をくぐり、エリはおぼつかない足取りで跡地に近づいていく。
エリと同じく呆然としていたサクラも、慌ててその後を追った。
まっさらな地面を、エリはうろうろと歩く。ここに居たのはそう長い期間ではないと彼女は話していた。
しかしその時間を確かめるかのように、エリはかつて存在したはずの廊下や部屋があった位置をなぞっていく。
「……うそ、こんなの……」
「エリちゃん……」
ぽつりとつぶやいたエリ。
その足元から伸びる影が、いやに物悲しく見える。
ふと、彼女は正面の地面を指差した。
「ここ。ここが、私の寝る場所だった」
次に数十メートルほど歩き、また指を差す。
何度もエリはそれを繰り返した。
「ここは私が目覚めた部屋。ここはよく検査に使われてた部屋。ここは……そうだ、一度カウンセリングを受けたんだっけ」
ぽつり、ぽつりと平坦な声が落とされる。
サクラはそれを何も言わずに聞いていた。
なけなしの記憶を拾い集めているようなその背中を見ていると、胸が苦しくなる。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
エリが何をしたというのだろう。
目覚めた時には記憶がなく。
右も左もわからず、ただ周りにいた大人たちに従って。
急に放り出されたと思ったら行き場も用意されておらず。
そして、それでも拠り所としていた場所は消えて無くなっていた。
エリは立ち止まり、沈黙が訪れる。
何かを言いたくて、それでもサクラは口を開けなかった。
そんな中、エリは銀髪をなびかせて振り返った。
初夏に似合わない冷たい風が吹き、二人の横髪をさらっていく。
「ごめん」
「え……」
「いろいろ付き合わせてごめん。今日は帰る」
平坦な表情。
しかし今のサクラにはわかる。
何の感情も無いなんてことはない。絶対に。
エリはサクラの横を通って出口へと向かう。
帰る。帰るってどこに?
彼女にはもう、帰る場所など無いというのに。
思わずエリの手を握る。指先は、冷たかった。
どうすればいいのかわからない。それでも何かを言わなければと、上ずった声を吐き出す。
「そ――そうだ、今からお布団買いに行きましょう! 昨日は無理に一緒のベッドに寝ることになっちゃいましたから……それから帰って、昨日のお鍋がまだ残ってるので一緒に食べませんか? 調子に乗って食材を買いすぎちゃったから食べきらなきゃなんですよ……! それから、それから――――」
手に触れる微かな感触で喉が詰まった。
見ればサクラの手にエリのもう片方の手が触れている。
その手はゆっくりとサクラの指を一本一本優しく剥がしていく。
親指から小指まで、サクラの指が完全に剥がれる。感じていた微かな体温が消え、どこか肌寒く感じた。
「ありがとう」
「…………っ」
エリは、笑っていた。
かすかだが、その口もとに確かな笑みを浮かべていた。
「学校でいろいろ気にかけてくれたり、泊めてくれたり、お鍋も美味しかった……それと、友達だって言ってくれて、ほんとは嬉しかった」
エリの頬が白く見える。
傾いた陽を受けてなお、血の気が失せたような肌だった。
彼女は消え去ったふるさとの上に立ち、全てを諦めたように笑っていて――初めて見る笑顔としては最低の部類だった。
それでも夕日に照らされたその表情は胸が締め付けられるほどに綺麗だと、サクラはそう思ってしまう。
「でも友達だから……もう頼れない。これ以上寄りかかったら離れられなくなってしまいそうだから」
「エリ、ちゃん」
実はもう先生には話をつけてあるんだ。
寮が見つかるまではホテルに泊まっていいんだって。
そう言ってエリはサクラに背を向けて歩き出す。
エリがどんどん小さくなっていく。
「私はもう大丈夫。学校には普通に通うつもりだから、良かったら仲良くしてくれると……うん、まあ……そんな感じで」
言いたいことはいくつも頭に浮かぶ。
『そんなこと言わないで』とか『もっとうちにいればいい』とか『あたしに任せてください』だとか。
しかしそれらは全てサクラが”言いたい”ことでしかなく。
つまり、”言うべき”ことではない。
首を絞められているような気分だ。
何ひとつ言葉が出てこない。
首を絞めているのは自分なのに、そんなことはわかりきっているのに、どうしても口は開かない。
そうしているうちにエリはどこかへと去ってしまい――サクラはただ呆然と更地に立ち尽くす。
袖の腕章は、空しいくらいに軽かった。




