69.夜に溶ける息の音
その後、帰宅した二人は食事と入浴を終えた(サクラは一緒に入ろうと言って聞かなかったのだがエリが固辞した)。
「もう遅いですし、今日はもう寝ましょう」
「……じゃあ私は床で寝るから……」
「ストップです」
サクラは貸したパジャマを着たエリの肩に手を置く。
今まさに床のカーペットに寝転がろうとしたエリは、露骨に嫌そうな目を向ける。
「なに」
「隣、空いてますよ」
「シングルベッドで端に寄っても『空いてる』とは言わないと思う」
「空けてますよ」
「どう考えても狭いでしょ……」
「でも客用布団は用意してませんし、やっぱり一緒に寝ましょうよー! 壁際は譲りますからあー!」
がくがくと肩を揺さぶられるままになる。
しつこい。本当にしつこい。
そういえば日中は何度も絡んできていたのだった、とサクラの頑固さを思い出す。
しかしどうして自分はここまで頑なに拒絶しているのだろう、とエリは素朴な疑問を浮かべる。
身体の休息を重視するなら彼女の言う通りある程度の寝苦しさを差し引いてもベッドを使うべきだろう。
だが、自分はそれを許容できないと感じているのだ。
(……ああもういろいろ癪になって来た……!)
どうしてこんなことで悩まねばならないのだ。
「わかった、わかったから……」
「いいんですか? やったー!」
「なんでそんなに嬉しそうなの……」
はあ、とため息をつく。
今日はいろいろあったが、こいつの家に泊めてもらうことになってからが一番疲れた。
どうぞと手で促すのに従い、ベッドに寝転がって壁際に寄る。
サクラは小型のリモコンで照明を消すと、嬉しそうに隣へ身を預けた。
「楽しそうね」
「はいっ! お泊まりってほとんどしたことないのでわくわくします! あ、電気って常夜灯のほうがいいですか?」
「これでいい」
そうですか、とサクラは薄い掛け布団を掴み、自分たちに覆い被せる。
初夏の今日はまだあまり暑くないが、二人の体温がじっとりと熱を形作る。
しばらく会話は無かった。壁際へ身体を向けるエリは黙りこくったまま瞼を閉じる。
微かな呼吸の音が規則的に空気を震わせる。
静かな夜だ。だが、無音ではない。
この場所でこうして睡眠に入ろうとしているのがエリには不思議に感じられる。
ほんの数時間前まではこうなることなど予想もできなかった。
それもこれも背中のサクラが全てだ。
「……起きてる?」
「はい、起きてますよ」
もう寝ているだろうと思って呼びかけてみたのだが、存外はっきりとした返答が帰って来る。
どうして声をかけてしまったのか自分でもわからない。
ただ、出会ったばかりの自分をここまで気に掛けるサクラのことが気になった。
「…………誰かと寝るなんて初めてなんだ。だから、身の置き場がよくわからない」
「エリちゃん……」
「何度か寝泊まりした研究所では、真っ白な部屋の真っ白なベッドを使ってた。不自然なくらいに外の音が遮断されて、聞こえるのは自分の呼吸音と鼓動だけ。目を閉じたら、まるで世界に自分が一人きりになったみたいで――それが……嫌だった」
研究所ではいつも生ぬるい粘液に包まれているかのような不快感があった。
同じような格好の同じような顔をした研究者たち。
記憶の無い中で、それでも感じたのは自分が人間として扱われていないということ。
とくに暴力を振るわれたり、暴言を言われたりと苛烈な扱いをされたわけではない。
だがそれは『貴重な実験動物』と見られているだけだった。
「死なないように、傷つかないように――それは、私のことが大切なんじゃなくて、きっと……私の力を研究するにあたって前提条件の変化を嫌ったからなんだと思う。だから正直あの研究所を出た時はほっとした。でも……こんなことになるなんて思わなかった」
支給された制服。支給された学生証。
それらを身に着けて研究所を出た。
何故か研究者たちは姿を消していて、ただスマホに届いた『こうしろ』『ここに行け』といった指示に従うだけ。
エリは一般的な知識を備えていても自分がどうするべきかはわからなかった。
だからその指示のとおりに最条学園を訪れた。
そして、学生寮に入れなかったことでエリは気づく。
自分は捨てられただけなのだ、と。
どうしてかはわからない。
ただ、拠り所を失くしてしまった。
「だから何もわからないんだ。自分のことも、これからどうすればいいのかも、どこへ行けばいいのかも。……辛くはないよ。研究者のひとりに言われたんだ。『あなたのクオリアは極めて特殊』『感情の無いあなただからこそ目覚めた、相手のクオリアをゼロにする力』『あなたの感情を、相手に掛ける。消滅のクオリアはそういう力なの』って」
感情が無いというのがどういうことなのか、その時はよくわからなかった。
だが、いくつかの大会に出て、そして最条学園に転入して理解した。
「……みんな、笑ったり、怒ったり、悲しんだりしてた。私には、それができない。どういうものなのかわからない。だから……ああ、私には感情が無いんだって実感できた」
この顔は目覚めてから今まで動いたためしがない。
人間らしさが乏しく見えた研究者たちだって、検査や実験の結果に一喜一憂していた。
それが自分には無い。
心の内を除けば、そこには空洞が広がっている。
どこまでも落ちていけそうな空虚な空白が。
それは……なんだか、
「エリちゃん」
不意の温かさに肩が震える。
後ろから回って来た手が、エリの手を包み込んでいた。
「ずっと言いたかったことがあるんです」
「……なに?」
不思議な感覚だった。
誰かとこうして触れ合うのは初めてで、直に他人の体温を感じるのもこれが初めてだ。
鼓動が少し速くなる。しかし、心は落ち着いていた。
「感情が無いなんて、そんなの嘘です。だってさっき嫌だって言ってたじゃないですか。寮の入り口に座り込んでた時は悲しそうだったじゃないですか。あたしの作ったお鍋を美味しそうに食べてくれたじゃないですか」
「でも……私には、表情だって無い。わからないんだ、何にも。記憶は無くても一般的な常識は持ってた。でも、それ以外のことは知らない。あなたみたいに笑ったりとか……できる気がしない」
「笑えなくたっていいと思いますよ。笑わないといけないとか、そんな決まりはありませんし。……でも、エリちゃんがもしいつか笑顔になりたいって思うなら。あたしは応援します」
そう言って、サクラはエリの手を強く握りしめた。
どこにも行かないように。存在を確かめるように。
『あたしはここにいるよ』って、そう伝えたかった。
「エリちゃんの気持ち、ゆっくりでいいから見つけていきましょう。あたしも一緒に探しますから」
「どうして、あなたはそんなに私を気にかけるの……? 私たち、出会ったばかりでしょう」
その問いに、サクラは口を閉じる。
どうしてか。
最初は気になったから。
サクラが負けた相手であり、当面の目標だったから気になった。
だが、それはきっかけでしかない。
「……あたし、困ってる人は放っておけないんです。クラスのみんなに囲まれてるエリちゃんは……その、どこか辛そうでしたから」
「辛そう……だったかな、私」
「本当にそうかはわかりません。でも、あたしの目にはそう見えたんです。どこにも身を預ける場所が無くて、心を逃がす場所が無くて……あたしには、そういう時期があったので。だからもしお節介だとしても、力になりたかったんです。あたしがそうしたかっただけで、ただのエゴなんですけどね」
サクラは エリに語り掛けるようで、途中からそれは韜晦のようになっていた。
いつだってそうだった。サクラは自分の人助けが本当に正しいのか悩み続けている。
差し伸べた手を、相手は本当に求めているのか。
助けたとして、相手のためになっているのか。
いつもサクラはそうして問い続けている。
そして答えは出ない。それでも取りこぼすのが嫌だから、手を伸ばし続けているのだ。
「お節介……かもね」
「うぐ」
「しつこいし、うっとうしいし、いらないって言ってるのに聞かないし」
「すみません……」
そこまで言われては、さすがのサクラも少し落ち込む。
わかってはいたが、やはりそう思われていたのかと。
だが、それに反してエリの手は優しくサクラの手を握り返した。
おそるおそる、弱弱しい力だった。
「……エゴだなんて言わなくていい。誰かの助けになりたいって気持ちは間違ってない……と思うし、きっとそれに助けられてる人はいる。わ、私が……そうだから」
「エリちゃん……!」
「……も、もう寝る。お休み……っていうんでしょ、こういうときは」
「はいっ……! おやすみなさい、エリちゃん」
そうして二人は瞼を閉じる。
吐息の音。心臓の音。外に流れる風の音。
そんな雑音が、今はどこか心地よくて。
いつの間にか意識は優しい夜闇に溶けていった。