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52/208

52.嫌いだよ


 街灯に照らされた道がつやめいている。

 白い月が見下ろす中、サクラは動かしていた足を止めた。


「はあ……っ。今日はこのあたりにしておこうかな」


 ジャージのズボンに挟んでいたタオルで汗を拭うとその部分が冷えて乾いていく。

 夜とはいえ梅雨入りを済ませた今日は湿度が高い。運動すると身体に熱気が纏わりつき、走りながら浴びた風が恋しくなった。


 クオリアを伸ばすにしてもフィジカルを鍛えるにしても、体力は重要だ。

 それにしても、こうしてジョギングに精を出していると暇になった頭がいろいろなことを考えてしまう。


「カナちゃん先輩……銀鏡(しろみ)先輩……」


 あの二人は、これからどうしていくのだろう。

 ずっとあんな風に、どこか冷たいすれ違いを抱えたままなのだろうか。

 カナはアリスのことを想っている。ただ、アリスの胸の内はわからない。

 サクラがどうにかできることではないかもしれない。そもそも介入するべきではないのかもしれない。

 だが。


「……よしっ」 


 それでもあのままにしておくのは違うと思った。

 ならばサクラにできることと言えば――――



 * * *




「先輩! カナちゃん先輩のことどう思ってるんですかっ!」


「……………………」


 授業の合間の休み時間。

 サクラは銀鏡(しろみ)アリスのクラスに突貫を敢行した。

 

 席に座るアリスが外した片方のイヤホンからはシャンシャンと音が漏れ聞こえ、その本人はと言えば、顔中に『めんどくさ……』という文言を張り付けていた。


 だがサクラは止まらない。

 実はちょっと……かなり怯みそうになっているのだが、根性で押し通す。


「先輩。教えてください」


 冷たい視線がサクラを見上げると、もう片方のイヤホンも外してスマホを机に置いた。

 空気が張り詰める。鈍いサクラでもわかる、アリスは苛立っているのだと。


「カナから何か聞いたの?」


「それは……はい」


「そっか。あいつがいろいろとごめんね。でも……天澄には関係ないよね?」


 関係ない。

 確かにそうだ。

 二人のことに、サクラは一切関与していない。

 あくまでも生徒会の先輩と後輩という関係でしかなく、アリスの過去だってたまたま教えてもらっただけ。

 

 アリスからすれば、それは不快だろう。

 心の深い場所に踏み込まれること。過去に傷を持つサクラには、その気持ちがわかるような気がする。

 もし初めてクオリアを発動させたときのことが自分の知らないところで吹聴されていたらと想像するだけでも冷や汗が噴き出そうになる。


「関係は……ないです」 


「別にいいんだよ? 天澄が人のために必死になって、それでいくら傷ついても、銀鏡としてはどうだっていい。それこそ関係ないしね――でも」


 ぴり、と空気が張り詰める。

 アリスの纏う何かが変わったのが分かった。

 下手な口を聞けばひねり潰される――そんなプレッシャーの中、淡いリップの塗られた唇が動く。


「頼んでもないことで関わって来ないで」


 それは明確な拒絶であり、断絶。

 ここから先には入ってくるなというライン。

 正論だ、と思った。

 アリスの言う通り、ただ迷惑なだけかもしれない。

 それでも。


「どうだっていいなら、どうしてあんなことを言ったんですか」


「…………!」


 いつか絶対に痛い目を見るとアリスは言った。

 本当に関係ないなら、それは言わなくてもいいことだ。


「確かに頼まれてません。もちろんカナちゃん先輩にだって頼まれてません。だけど放っておけないんです」


 サクラ自身、どうしてここまで固執するかわからなかった。

 普段からデリカシーには欠ける方だが、ここまで拒絶されてなお踏み込むことはそうそうない。

 だから理由があるとすれば、それは――サクラが自らの行いで親友との関係を壊してしまった過去に因るのかもしれない。

 

 アリスは一度、太陽の元へ晒されたかのように目を眇める。

 そして顔を俯けると、サクラの方を見ないままに低い声をこぼす。


「わかった。面倒くさいけどサクラの好きにしてあげるよ。カナをどう思ってるか、だっけ? 教えてあげてもいいし、何ならあの子と腰を据えて話す場を設けてもいい」


「ほ、ほんとに――――」


「でも、銀鏡に勝てたらね」


 ぴたりと時間が止まる。

 直後、教室の空気がざわめいた。

 

 アリスは今、何を言ったのだろう。

 彼女の放った言葉を咀嚼して、咀嚼して、やっと理解する。

 勝つ? アリスに?


「もし負けたら……そうだなあ、生徒会を完全に脱退して、二度と銀鏡にその顔見せないでくれる?」 


 チャイムが鳴る。

 授業の開始を告げる鐘の音は耳に入らず、しばしの間サクラは立ちすくんでいた。




 * * *




「ど、え、何がどうなってそうなったの!?」


「……うーん、成り行きですね!」


「ですね! じゃないよ~!」


 放課後、第三体育館の更衣室。

 ジャージに着替えるサクラの傍らでハルは卒倒しそうになっていた。

 

「銀鏡先輩ってプロ資格は持ってないけど、強すぎて『早くプロ入りしろ、勝負にならない』って批判されるくらいなんだよ?」


「あはは、先輩らしい。きっとめんどくさいんでしょうね」


「笑ってる場合じゃないよ……」


 詳細については話せない。だからこうして誤魔化すしかない。

 腰のひもをしっかりと結び、上着のジッパーを上げる。

 リミッターで時刻を確認すると、約束の時間までもうすぐだった。


「……確かにあたしじゃ足元にも及ばないのかもしれません。だけど、それでも勝たなきゃいけないんです」


「また『助けなきゃいけない』人なの?」 


 気遣わしげに見つめてくるハルに、思わず笑顔をこぼす。 

 助けなければいけない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 このまま放っておけば、いつかあの二人の関係は瓦解するのかもしれないし、何だかんだ時間が修復してくれるのかもしれない。


 誰も彼もを助けて良いのか、今はもうわからない。 

 キリエが教えてくれたように、助けるべきでない人もいる。そんなことは最初からわかっていた。

 アリスが『痛い目』を見たのもそうだ。助けるべきじゃない人を助けて、彼女は深く傷ついたのだろう。


 だが、サクラは首を横に振る。

 どちらの可能性も否定する。


「ただ『助けたい』って思ったんです。言いたいこともありますしね」


「サクラちゃん……」 


「もう行かなきゃ。できれば応援してくれると嬉しいです!」 

 

 手を振ったサクラは更衣室をあっという間に後にする。

 助けたい。『助けなければ』ではなく。

 だからこれは、サクラなりのエゴだった。




 * * *

 



 体育館のアリーナへの通路を歩く銀鏡アリスの前に小さな影が現れる。


「大人げない。後輩相手に何をムキになってんの?」


「……カナ。元はと言えば君のせいでしょ」


 苛立つアリスを嘲笑するように、カナは口元に手を当てる。

 だがその瞳にはわずかな悲しみが潜んでいた。あんな話、しなければ良かった……そんな後悔を抱えていて、それはアリスの目にも明らかだった。

 

「天澄は本当に馬鹿だ。首を突っ込むのにも限度がある」


「確かに馬鹿ね。あんたなんて放っておけばいいのに」


 眉を寄せ、アリスはカナの傍らを過ぎ去る。 

 一瞥もせず、前だけを見て。

 そんな背中に向かってカナは、


「でも、ああいう馬鹿は嫌いじゃない。あんただってそうなんじゃないの?」


 アリスの足が止まる。

 数秒その場で俯き、首を横に振ると再び歩き出す。


「……嫌いだよ」


 どうしてかはわからない。しかし、見ていられないのだ。

 彼女を見ていると、まるで自分の罪状を読み上げられているような気分になる。

 だから目に入れたくない。それだけだと、アリスは思っていた。




 * * *




 この学園では噂はすぐ広まる。

 そもそも教室という衆人環視の中でのやりとりだったのだから、隠すべくもない。

 体育館の二階席には大勢の生徒が集まっていた。


 その中心、アリーナに、最条学園の二年生で最強とも目される銀鏡アリスと。

 色々な意味で話題の新入生、天澄サクラが足を踏み入れる。


「いま謝れば、全部なかったことにしてあげる」


「できません。あたしにも退けない理由があるので!」


 そう、とアリスがリミッターを操作すると、アリーナの床から透明なバリアがせり上がり、二人を囲む。

 そのサイズは実に一辺30メートルの正方形。かなり広めの戦場が出来上がる。

 

 誰もがサクラの敗北を信じた。

 誰も勝てるとは思わなかった。

 この勝負はいわば蟷螂の斧。調子に乗った後輩が、はるか格上の相手に無謀な戦いを挑んだのだと捉えられている。

 

 当人であるサクラもおおむね同じ考えだ。

 ただひとつ違うことがあるとすれば――彼女には勝利する気しかない、ということだった。


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