31.ミラーズ・チェイス
夜の街を吹き抜ける風が頬にぶつかる。
走るサクラはひたすらに驚愕していた。
「どういうこと……!?」
それは、目の前で白衣の研究者たちに名も知れぬ学生がさらわれたことについてではない。
数十メートル先で行われている、銀鏡アリスの追走劇に対してである。
走る速度はサクラと変わらない。
そもそもクオリアによる肉体強化を受けている生徒たちは街中での全力疾走を禁じられている。
乗用車に匹敵、もしくは凌駕する速度で街中を走れば大事故に発展しかねないからだ。
つまりサクラとアリスは現在、常識的な速さでしか走れない。その上夜中と言えども人の波は薄くない。
対する相手はワンボックスカーで学生をさらっている。
だから本来追いつけるはずがないのだが……アリスは違う。
手近な診療所の窓ガラスに飛び込んだかと思えば、数メートル先の雑居ビルの窓から飛び出してくる。
走る車にぶつかったかと思えば、離れた場所のバイクのバックミラーから飛び出す。
ガラスに潜り、別のガラスから出てくる。
おそらくは鏡のクオリアの力だろうか。
鏡――何かを映すものを伝うことで地に足をつけた追走をショートカットしている。
「見え、なくなっ……ちゃった……!」
普通に走るサクラが追い付けるはずもなく、すぐに姿を見失う。
もう追いつけない。それでもサクラは走り続けた。
* * *
「はーもうめんどくさーい……!」
バイクの鏡から飛び出したアリスは、運転手を振り返る。
驚いてはいたものの、バランスを崩していないようで一安心。
再び地面を蹴り、手近な窓から窓へ移動する。
鏡のクオリアの力はサクラと初めて会った時に見せた反射だけではない。
鏡と定義できる物体をワープゲートのように使えることもそのひとつ。
二つの鏡を視界にとらえ、入口・出口と定義。後は入口と設定したほうに飛び込むだけで出口から飛び出すことができる。
「あの子と出会ってから面倒なことばかりだ」
黄泉川先輩を怒らせるし、夜中にふらふら出歩いてるし、あげくの果てにはこんな事件にまで遭遇して――最後に関してはサクラのせいではないが。
アリスは自分のことを責任感や正義感が強い人間とは思っていない。
ただ、自分で『そうするべき』と思ったことは投げ出さずにやり遂げる。
そう決めているからこそ、こういったトラブルは避けたかった。
面倒くさいからだ。
揺れる長い前髪の向こうでワンボックスは捉え続けている。
そして、その距離はどんどん縮まりつつあった。
そろそろはっきり視界に入るころだ。
「マジックミラーにしてないとは不用心な」
そこまでされていたら捉えられなかったのに――と。
憐憫すら抱きながら、アリスはカーブミラーへと跳躍した。
* * *
必要以上に広々としたワンボックスカーの中は戦々恐々としていた。
荷室にはどこかの学生が転がされ、手足を縛られた状態で猿ぐつわを噛まされている。
攫われる際に薬品を使われたのか意識は失われていた。
「もっとスピード上げて!」
「む、無理です! これ以上は事故ります!」
「ねえ、本当にこれ大丈夫なの? 犯罪じゃない?」
乗車している研究者は三人。
皆一様に白衣を着用しており、運転席の比較的小柄で気が弱そうな研究者はハンドルにかじりつくようにして車を動かしている。
後ろの座席からは目つきの悪い研究者が二人。かりかりと落ち着かない様子で貧乏ゆすりを繰り返しながら、しきりに後ろを振り返っていた。
「予算の無い私たちが逆転するにはもう汚い手を使うしかないのよ……誰でもいいから攫って実験台にして、ワンチャン新技術発見からの大富豪に……きゃあ!」
欲にまみれた皮算用。
ワンボックスが交差点で急カーブしようとしたことでそれは途切れ、直後。
「はいおじゃまー」
ぬるり、と。
バックミラーから、灰髪の少女――銀鏡アリスが車内に飛び出した。
「……………………!!」
声にならない悲鳴を上げる一同。
運転手が事故を起こさなかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。
それでもふらふらと蛇行する車の中、アリスは状況を確認する。
さらわれた学生を見つけ、息があることを確認した。
「路肩に止めてくれる? 今のうちに諦めて自首したほうが、」
宥めるようなその言葉を破裂音がさえぎった。
研究者のひとりが懐から取り出した拳銃から、鉛玉が飛び出した。発砲音だ。
「……ちょっとちょっと。それはライン越えでしょー」
「ひいいっ!?」
銃口は間違いなくアリスの額に向いていた。
そして、確かに引き金を引いて、弾丸は真っすぐに飛んだはず。
だが、全くの無傷。この距離ならアーマーがあろうと無事ではいられない。
「わああああっ!?」
錯乱した研究者は震える手でもう一度発砲する。
その時、一瞬だったが、今度はおぼろげに見えた。
放たれた銃弾はアリスに当たる直前に空中で二回曲がった後、シートに着弾したのだ。
よく見れば弾痕が二つ空いている。ひとつは最初に撃ったものだろう。
「反射。銀鏡なら銃弾くらい跳ね返すのはわけないんだよ……。ていうかまっすぐ反射してたらキミ死んでるからね、そこんとこわかってる……?」
ぼそぼそと愚痴のような説教をこぼしながら「没収」と力の抜けた手から拳銃を奪い安全装置をかける。
他の研究者も戦意を喪失したのか、顔面蒼白だ。
「まあ、今回はお互い面倒くさいやつに捕まったと思ってさ。大人しくお縄についてくれないかな」
面倒くさいから。
その言葉がトドメとなったのか、車はゆるゆると速度を下げ、道路の端に止まった。
* * *
救出された学生はしきりに頭を下げ、どうかお礼をと繰り返す。
「あー……いいよもう、今日は疲れたし早く帰りたい……」
今日は警備隊に送ってもらってくださーい、と気だるげに背を向ける。
すると、前方から見覚えのある後輩が走って来た。
「せ、先輩……はやすぎ……ます……」
「え、追いかけてきたの……? 別にいいのに」
膝に手をついてぜえぜえと息をつくサクラは顎から汗の雫を垂らしている。
ここまで全力で走って追いかけてきたのだろう。
「いや、だって……放っておけないじゃないですか」
こうしてアリスだけで事態を収拾できた以上、サクラの助けは必要ではない。
だがその必死な姿から、彼女の言葉が思い起こされる。
――――あたしが頑張ることで、少しでも人の助けになれるならいいかなって。
「……なるほどなあー……これは難儀な子だ」
「え?」
「なんでもなーい」
厄介で、面倒くさい。
だが、嫌いではない。
アリスはサクラの頭にぽんと手を乗せる。
「お疲れさま。今日は気を付けて帰りなね」
「あ、は、はい! ありがとうございます……?」
いつかサクラは痛い目を見る。
それはおそらく避けられないだろうが――まあ、痛みを和らげる手伝いくらいはしてやろうか。
そんなことを考えつつ、銀鏡アリスはサクラに背を向け歩き出した。
……だが、それにしても。
「銃って。こわー……」
ただの研究者があんな代物を手に入れているなんて。
学園都市の裏で何が行われているのか──その事に考えをめぐらせていると、肩に手が置かれる。
「ちょっとちょっと君。悪いけど帰らないでもらっていいかな? 今回の件についてお話を聞かせて欲しいんだけど」
振り返るとにこやかな警備隊。
アリスは「ですよね」とがっくり肩を落とすのだった。




