200.歩くような速さで
静まり返った大地で、二人の荒い息だけが続いていた。
立っているのはサクラで――倒れているのはキリエだ。
「私の負けだ」
王と呼ばれた彼女は疲労にあえいでいたが、静かな口調でそう言った。
今もトドメに受けた雷の影響で身体が痺れて動けない。いや、それが無くとも極限までの消耗で立ち上がることはできないだろうが。
そんな彼女を見下ろして、サクラは首を横に振った。
「これが試合なら、最初にアーマーを砕かれたあたしの負けです。それにリミッターをわざと壊した時点で退場でしょう……」
「……私も限定解除を使った。そしてこれは試合じゃない――――やはり負けたのは私だ」
最後に負けたのはいつだっただろう。
キリエのクオリアが大きく成長し、光のクオリアと呼ばれるよりも前のことだろうが……約二年ほど前のことなのに、随分と遠い昔に感じる。
誰も自分には追いつけないと思っていた。
光を越える速度は、この世に存在しないと。
だがサクラはやってのけた。クオリアを使い始めて半年ほどの少女が、最強のキューズを倒したのだ。
「サクラ」
「なんですか?」
「君たちを侮って、すまなかった。私が間違っていた……」
「いいですよ。あたしも色々と偉そうなことを言いました」
そう口にして、サクラは疲労を感じる身体を引きずって静かに歩き出す。
まだ終わりじゃない。本番は次だ。
破壊された洋館の残骸の中心。あの爆発をまともに受けてビクともしていない大樹が、空の大渦に向かって伸びている。
あの樹を登れば錯羅回廊の最深部にたどり着くのだろう。
「たぶんそろそろココ先輩たちが来ます。あたしは早くあそこに向かわないといけないので……」
「……ああ。気をつけて」
これはキリエ自身が招いた状況でもある。
なのに何も力になれないことが、歯がゆくて仕方なかった。
サクラは前に進む。
枯れた大地を踏みしめ、洋館の瓦礫を踏み越え、らせん状に伸びる巨木を見上げる。
本当に巨大な樹だ。サクラは足元に磁力を付与し、反発する力を利用して凄まじい勢いで飛翔した。
しばらく飛んで、勢いが弱まってきたところで幹の出っ張りに手を引っ掛ける。
もう一度磁力で跳び上がろうとしたところで、耳元に何者かの声が聞こえた。
『サクラ…………』
それはサクラの声によく似ていた。
空気を伝わってくる音の波ではない、サクラの内部に直接語りかけてくるような声。
サクラはこれを知っている。夢の世界で突如としてアクションをかけてきた、謎の陽炎。
だがその姿は、今はどこにも見えない。
『最条アラヤが、あたしに干渉しています』
「理事長が……いや、あなたは一体……」
『仮にあたしがどうなってもあなた自身に影響はないでしょう。だけど……あたしと繋がっている人類たちは影響を避けられない』
何を言っているのか理解が追い付かない。
考えることを早々に諦めたサクラは、訊ねることにする。
「あなたは一体何なんですか」
『錯羅回廊』
その答えは至極端的なものだった。
『人類の集合的無意識がひとつの世界という形を成したものが、あたし』
「ええっと……」
またもやスケールの大きい話を聞かされて、サクラの理解は追いつかない。
その声は――錯羅回廊と名乗ったその声は、小さくため息をついた。
『まあ、とりあえず”そういうものがある”とだけ捉えてください』
「とりあえずわかりました」
『素直なところはあなたの美点ですね』
褒め言葉かどうか微妙な評価を受ける中、声に激しいノイズがかかる。
何か異変が起きている。それだけは理解できた。
『…………っ。時間がないみたいですね。最条アラヤを止めてください。彼女があたしの核に干渉を始めたことで、人類の統合が始まっています。あなただけが……頼りです』
「ま、待ってください! どうしてあたしだけだなんて……他の先輩だってすぐに来てくれるはずですよ」
『それは、あなたがあたしの…………』
ザザザザ、と耳に痛い音が響き、急激に静寂が訪れる。
声はもう聞こえない。
何もかもがわからない。だが、嫌な胸騒ぎがした。
夢の世界では突如としてサクラにアプローチをかけ、サクラの行いを責めた存在。
今はただ、助けを求めてきた存在。
錯羅回廊そのもの。
「わかりました」
だが、サクラにとってはそれだけで戦う理由に値する。
もともとアラヤを止めるつもりだったのだ、もうひとつ背負う分には何も問題がない。
サクラというキューズの始まりは、どこかの誰かに希望を届けたいという願いからだった。
だから――――サクラは。
「あたしに任せてください!」
磁力を使い、さらに跳ぶ。
目指すは上空に鎮座する赤黒い渦。
その先にある、錯羅回廊の最深部だ。
* * *
そこは大樹の枝葉の中に作られたドームのようだった。
夥しいほどの幹や枝、根が寄り集まり、球状の空間を形作っている。
広さもかなりのものだ。入学式に使われた講堂くらいはあるな、とサクラは目算した。
そして、この空間の中央。虹色に輝く光の塊がふわふわと浮かんでいる。
あれがおそらく”錯羅回廊”の言っていた核なのだろう。
その前にはサクラと同年代……に見える金髪ツインテールの女性が立っている。
「やあ、来たか」
「理事長……」
平時と同じ黒いスーツに身を包んでいる彼女はゆっくりと両腕を広げた。
まるでサクラを歓迎するかのように。
「うちの孫は負けたんだね。手塩にかけて作り上げたのに、とても残念だ」
「やっぱりあなたがデザイナーズベビーを……!」
「そう。みんな、私を元にデザインされ、私の駒となるべく作り上げられた子たちだ。ゆくゆくは軍事利用も予定されていたんだが……もうその線は必要なくなった」
孫、というのはそういう意味だったのか。
最条アラヤの遺伝子から人工的に作り出された生命。
ならばエリも彼女の血を引いていたのだろうか。
今ココたちの足止めをしているだろう少女たちも、全て――アラヤの目的のために生まれてきた。
その事実に、サクラは確かな怒りを覚えていた。
「どうしてそんな酷いことが出来るんですか。生まれてきた子たちには……何の関係も無いはずなのに」
「そうだね。私は酷いことをしている。自己弁護をするつもりはさらさらないよ」
アラヤはそう言って悲しげに目を伏せる。
それはほんの一瞬で、すぐに感情の読めないアルカイックスマイルを浮かべた。
「おそらくキリエから目的については聞き及んでいるんだろう?」
「……人類の意志を統一するとか、なんとか」
「そう、その通り。これで私たちともども肉体は違えど思考や意識を完全に共有できる。そうすれば……私の孤独も消えてなくなる」
孤独。
アラヤはそう言ったのか。
キリエも同じことを言っていた。
誰も自分に追いつけず、対等な立場を築けない。
だからアラヤの計画に縋ったのだと――彼女はそう言っていた。
サクラはどうしてアラヤがそんな計画を遂行しようとしているのか、キリエから聞いた時点では皆目見当がついていなかった。全く理解できなかったからだ。
しかし、アラヤもまた同じく孤独を解消するためにこのような所業をしでかしたのだという。
虚偽の可能性はあるだろうか。
こちらの思考を揺さぶっている――その可能性は捨てきれない。
だが、どうしてかサクラにはそれが嘘だとは思えなかった。
だから訊ねる。理解するために。
「あなたは、孤独には見えません。キリエさんだっているじゃないですか。これまでの暗躍を考えれば単独犯とは思えない――部下だってたくさんいたはずです。家族だって……違いますか」
「違うよ。確かに私の周りにはたくさん人が居る。汚い話、長生きしているとコネも増えるしね。でも違うんだ。彼らは私と同じ時間を生きていない」
「それはどういう……」
サクラの疑問に、アラヤは笑う。
キリエによく似た、寂しそうな表情を浮かべて口を開く。
「私は、この身体に宿る『永遠のクオリア』によって老いることも傷つくことも死ぬことも無い。だから……どんな人間も、私を追い抜いて行ってしまうんだよ」
だから、寂しかったのさ。
静かな声で、数百年の時を生きる少女はそう呟いた。




