166.ミラー
「銀鏡はさー、寝るのが好きなんだよ。なんでかわかる?」
駅構内の地下通路。
普段ひっきりなしに響く電車の車輪が線路を擦る音は、今夜ばかりは聞こえない。
真っ白な髪に雪のような肌の少女、銀鏡アリスは滔々と語る。
「寝てる時は何にも考えなくていい。そこがいいんだよ。現実のしがらみとか面倒なことから解放されるんだ」
対峙するボディスーツの女は無言で頭部を覆うマスクを解除した。
青みがかった髪。眼鏡をかけた怜悧な眼差し。ヒストと呼ばれるLIBERTYのメンバーだ。
ヒストは腰のあたりからアンプルを取り出すと、薬液で満たされたそれを首元へ向ける。
「……今日はなーんかいい夢見てた気がするんだよ……ねっ!」
閃光が走った。
カン、と乾いた音を立ててアンプルが手から弾かれ、床のタイルを転がっていく。
「させないよ。”それ”が何かは知らないけど、ろくなものじゃないでしょ」
じり、とヒストは片足を一歩下げる。
それ以上の動きは許されない。
気だるげな雰囲気を纏うアリスだが、その実一切の付け入る隙が無い。
「チッ……」
舌打ちを漏らしたヒストは視線を彷徨わせる。
タイルの壁と床に囲まれた細長い空間。規則正しく配置された支柱。
そこかしこに並ぶ各種売店。
外れくじを引いてしまった。
LIBERTYは学園都市に来る前からめぼしいクオリア使いの情報は入れている。
その中にアマチュアトップの銀鏡アリスの詳細も記載されていた。
鏡のクオリア。
鏡を生成して戦う能力。そして鏡に限らずガラスなど鏡として扱える物体なら自在に活用できる。
その上使用者のアリスは能力頼りではなく基礎戦闘力も高い強者とのことだった。
運の悪いことにこの地下通路はそこかしこに鏡が設置されている。
さらにこの狭さ――アリスにとっておあつらえ向きの環境だろう。
「ねーえ。相談なんだけどさぁ、君に勝ち目ないし大人しく捕まってくれないかな」
勝ち目はない。
そうかもしれない。
アンプルが無ければ――クオリアが無ければクオリア使いには勝てない。
一応共通装備として消滅のクオリアの効果が搭載された銃とナイフは持っているが……。
(私、運動音痴なのよね……)
普段のダンスレッスンだって必死に取り組んでやっと着いていっているくらいだ。
ただの女子高生が銃やナイフを持たされて満足に使えるはずがない。
ダイアが特殊なのだ。
「……まあ、これくらいが潮時かもね」
ヒストはため息をつくとゆっくり両手を上げる。
「物わかりよくて助かる~」
楽に終わって良かった良かった。
そう胸を撫で下ろしながら、ヒストを拘束しようとアリスが一歩踏み出した時だった。
突如として足元が盛り上がる。
「は?」
思わず呆けた声が漏れた直後、足元のタイル床と頭上の天井が一気に隆起し、アリスを上下から挟み潰した。
衝撃で砕けた床と天井から粉塵が舞い、視界を覆い隠していく。
「姿を確認してから98秒。想定通りね」
ヒストが粉塵を掻き分けるようにして近づくと、アリスは天井と床に胴体を挟まれ四肢をだらんと垂らしていた。
全身ぴくりとも動かず、首を俯けていることで長い前髪が完全に顔を隠していた。
「あなたにとっては私が薬液を接種する前に無力化させる……そういう戦いのつもりだったのかもしれないわね。でも、律儀に接敵してからアンプルを注射する必要なんてない。事前に投与を済ませている可能性を考慮すべきだったわね」
ヒストは細くしなやかな指先で眼鏡を上げる。
無力化には成功した。他のメンバーならこのまま拘束などを施すのだろうが、そんな甘い対処はしない。
ヒストはとっくに割り切っている。この学園都市を滅ぼす以上、この街に暮らす人間は結果的に全て殺すことになる。
なら今ここでとどめを刺してしまうのが確実だ――そう考え、クオリアを行使しようとした時だった。
「あぁ……だったら」
かすれた声がした。
だが妙だ。目の前のアリスだけでなく、背後からも聞こえて――――
「今のしょっぱい不意打ちで銀鏡を殺れない可能性も考えとくべきだったねぇ!」
肩に熱が走った。
同時に肩を細い光線に貫かれたことを悟り、挟まれていたアリスがぱりんとガラスのように砕け散るのが見えた。
「鏡像。馬鹿正直に身ひとつで向かうわけないじゃん」
背後に立ち並ぶ支柱に取り付けられた鏡――本来は通勤利用者などが手早く自分の顔を写してメイクなどの調子を確認するためのもの。アリスはそこからゆっくりと這い出ていた。
鏡のクオリア使用者にとってすべての鏡は絶対に悟られない隠れ蓑になる。
鏡から鏡を伝ってヒストの目を盗んでこの場に潜り込んだアリスは、鏡の分身……鏡像を生成し、ヒストの正面から向かわせたのだ。
「銀鏡、アリス……!」
「そのクオリアは……うーん、なんだろ。大地? 歪曲? 膨張……うーん、ピンとこないけどまあいっか」
ふわあと欠伸をひとつ。
あからさまに油断している。
その隙を逃すまいとヒストは両腕を広げ、クオリアを行使する。
「潰れなさい!」
天井。床。壁。
そこかしこの地形が歪み、アリスを潰さんと隆起する。
だが――それらは全てアリスへと届く前に砕け散る。
アリスが周囲に展開した不可視の鏡に反射され、自壊したのだ。
「別にどんなクオリアでも変わんないね。その程度の攻撃で済ませてくれるなら――銀鏡はここでじっとしてるだけで勝てるんだし」
改めて。
銀鏡アリスはアマチュアトップの実力を持つ選手である。
けれどそれはプロには及ばないという意味では決して無い。
様々な手続きやプロとしての仕事の依頼――主にメディア出演などだが――が億劫だという理由で固辞しているだけだ。
本来ならプロというキューズ界における頂点に位置する戦場であっても上位に食い込めるポテンシャルの持ち主である。
いや――それどころか。
キリエがキューズを辞めた後。
次に最強のキューズ……”キング”の名を手に入れるのは銀鏡アリスだと確信をもって囁かれているほどだ。
「くっ……」
ヒストは再び手を振る。
地下のあちこちの壁や床が隆起すると、石材の槍となってアリスを襲う。
しかし、やはりそれらは鏡にぶつかった瞬間砕け散っていく。
「生徒会の連中っておかしいんだよ。別に誰に頼まれたわけでもないのにさー、みんなのためにーとか言っちゃって助けようとするんだ。付き合わされる方はたまったもんじゃないよ」
「そう。だったら私と同じね」
ヒストは攻撃を止める。
アリスは怪訝な顔をしていたが、ヒストは真意を説明をする気はない。
(…………他のメンバーほど、私は信念を持って戦ってるわけじゃない)
静かに拳を握る。
戦う理由を再確認し、自分の矮小さに少しだけ口の端を歪める。
(ただ私は……みんなに置いていかれたくないだけ。そしてダイアのことを助けたいだけ)
みんなのためにだなんて、笑ってしまう。
あくまでも自己本位。
だからこそヒストは自身の行いを肯定しない。
胸のうちから湧き上がる心情のみに従って戦う。
「ねえ、来ないならこっちから行くけどいい?」
砕けた石材の残骸を避けてアリスが近づこうと歩き出す。
だがヒストはゆるく首を横に振る。
「必要ないわ――増幅倍率10」
ヒストが静かに呟いた瞬間、その身体が淡く赤い光を放つ。
対峙するアリスは足を止める。明らかに異様な気配を感じ、身構える。
しかし何をしようと同じことだった。
アリスが立ち止まった直後、今しがた立っていた大地を砕き割ってヒストが眼前まで飛びかかってきたのだ。
「はや……っ」
動揺するアリス。
しかしその意識は冷静に状況を分析する。
突然の速度上昇はクオリアの共通効果である肉体強化ではない。
あきらかに固有の能力によるものだ。おそらくは身体能力を強める類いのもの。
だがこれくらいなら鏡で防ぐことができる。
アリスの鏡には反射できる威力上限があるものの、その上限ラインは非常に高い。
それこそキリエやココ、そして調子がいい時のサクラが全身全霊で攻撃してやっとというところだ。
だからただのパンチで破られることはない――そう確信していた。
「重量増幅10!」
だが。
インパクトの瞬間、その拳が目に見えない変質を施され。
「がっ……は……!!」
アリスを守る鉄壁の鏡がガラスのごとく砕かれた。