156.Desire
子どもが思い切り吹いたシャボン玉のような調子で大量の泡がバクの鼻から散布される。
それらは一気にサクラの視界を覆い尽くしたかと思うとすぐに消滅した。
「……っ」
消滅したのか、と気を緩めそうになった瞬間頭の片隅が電流のような痛みを発する。
同時にサクラの脳裏には覚えのないビジョンが浮かんでいた。
今とまったく同じ天空に伸びる蔓の塔の頂上。
雲の舞台で、自分はあのバクと対峙した。
あのバクが生み出した泡は目に見えなくなるだけで、消えたわけではない――――
「今のって……そうだ!」
始業式の日。
退学申請をしたハイジたちを追おうとしたら彼女らから発生したポケットのような空間に引きずり込まれ、その先であのバクと戦い、敗北したサクラは激しく負傷した。
こんな苛烈な経験を忘れるなど不自然だ。
おそらくはあの空間が関係している。
まるで夢のように、あそこでの出来事を忘れさせられていた。
《そう、そしてあの時点で彼女たちは”干渉”を受けていたんですよ》
《競争意識の減退という干渉をね》
頭の中に陽炎の声が響く。
なら、この事態は突然起きた現象ではなく以前から着実にこの都市を蝕んでいたということになる。
(この声も気になるけど……今は)
やはり放ってはおけない。
一刻も早く解決しなければ、陽炎の声の言う通り恐ろしいことが起きる。
サクラは纏雷を発動し、一気に駆け出す。
「まずは厄介な泡から蹴散らさないと」
あたりに漂う無数の泡は、言わば不可視の機雷。
触れれば大ダメージは免れず、そして一度当たって隙を作れば二個三個と発動し、再起不能に陥ってしまう。
ならば触れずに反応させればいい。
「身体の力を抜いて……針の穴に糸を通すようなイメージで、こう!」
サクラは全身から雷を放出する。
出力は微弱。だが範囲は自分を覆うように、二回りほど大きく。
これなら精神力の消耗は少なく、その上――サクラの目論見通り、漂う泡はサクラへ到達する前に雷のオーラに触れて弾ける。
泡の機雷を気にする必要は無くなった。
あの時惨敗したのが功を奏した。
サクラは躊躇いなく雲の地面を蹴ると一気に加速し、巨大なバクの目前へと肉薄する。
「雷拳!」
雷の矢を装填した拳を渾身の力で叩きつける。
しかし、それがバクへと届く前に強固な壁に阻まれた。
サクラの拳が当たった場所とその周囲だけ、連なる泡が光に照らされるようにして可視化されている。
「黄色い泡の壁……!」
やはり通らない。
この壁は凄まじく衝撃を吸収するのか、どれだけ力を込めても……むしろ強力であればあるほどにその強度を増すように感じる。
衝撃を受けたゴムの壁はたわむ。そして、そうなれば次は当然攻撃してきたものをはじき返してしまう。
「うっ……」
横向きのトランポリンに突っ込んだような恰好で吹き飛ばされるサクラ。
何とか体勢を立て直そうとして、気づく。その体表から発せられていた雷のオーラが消えている。
「まず――――がっ!?」
直後、背中に衝撃が炸裂する。
まるで巨大なハンマーでぶん殴られたかのような――おそらく打撃ダメージを生じさせる青い泡に触れたのだろうと推測しつつ、サクラは何とかオーラを張り直して着地する。
「いつつ……」
背中の激痛に顔をしかめつつ、背骨が折れていないことにほっとする。
前回は一発で腕が折れた。もしかしたら、前回よりもアーマーが機能しているのかもしれない。
不意に夢の世界に囚われた前回と違い、サクラは確固たる意志を持ってここに立っている。
現実を見つめ直した今なら、現実と変わらない程度のアーマーが作用する。
ただ雷のオーラが途切れてしまっては結局無用なダメージを受けることになってしまう。
「コントロールが難しい」
繊細なクオリアコントロールを必要とするオーラは少しの衝撃で解けてしまう。
なんとか攻撃を受けないように近づきつつ、あの泡を突破する一撃をくわえなければならない。
(……本当にそう?)
『なんとか』『繊細な』――そんな戦い方が自分に似合うとは思えない。
あの泡が連なった障壁は図抜けた弾力によりこちらの攻撃を弾いてしまう。
なら、消耗を度外視して一気に突き破るのが向いている気がした。
「ふっ!」
バヂ、と弾けるような音と共にオーラの規模が格段に上がる。
細かな調整を止め、出しっぱなしに。これで思考のリソースが空いた。
もう一度大地を蹴る。一直線にバクへと疾走する。
雷のオーラに触れた無数の泡を破裂させながら、サクラは一瞬でバクの目前へとたどり着く。
うっすらと見える。バクを包む黄色い泡の障壁が。
サクラは空中に十本の雷の矢を生み出すと右手に収束させた。
「やあああぁぁっ!」
ありったけの雷を凝縮した拳がふたたび障壁に炸裂する。
だが、貫けない。グニイイイイ、とたわむだけで数秒後にはまた張力で跳ね飛ばされることがわかる。
<ちかづくな>
バクの中から声が聞こえる。
あれはネムの声だ。夢うつつのような口調で、こちらを拒んでいる。
するとその声に呼応したかのようにあちこちに漂っていた泡がこちらへ向かってくる。
サクラは気配でそれを察知しながら、一切振り返らない。
「まだ……ここからです!」
サクラの周囲に無数の矢が生み出される。
その数は両手で数えきれないほどで――全ての切っ先が一点を向く。
サクラの拳がぶつかっているポイントを。
<あきらめろ>
「諦めません!」
その叫びに呼応して全ての矢が一斉に着弾する。
しかし、破れない。
(わかってる……まだ)
だがそんなことは予想していた。サクラは矢を発射したそばから生み出し、次々にぶつけていく。
張力によって戻ろうとしていた障壁がみるみる押し込まれていく。
(まだ足りない。なら)
矢を連射しながら、サクラはオーラを解除する。
全身から放射していた雷の分のエネルギーを全て攻撃へ。
だが、防御を捨てれば当然――――
「ぐっ、うう……っ!」
無防備な背中へ色とりどりの泡が着弾する。
爆発、打撃、斬撃。
一発一発が恐ろしい威力を誇る攻撃だ。
だが、倒れない。
サクラは笑みすら浮かべてみせて、巨大な雷の矢を生成した。
それはまるで城壁を貫く槍だ。
「ネムさん」
<…………!?>
「これが、努力の結晶です。諦めずに頑張って来た成果です。……受け取ってください」
撃ち出された槍が障壁を貫く。
そのままバクの身体を貫き、引き裂き――――核たるネムの身体を吐き出した。
* * *
「物量ゴリ押しって……お前大丈夫かよ、いろいろと」
雲の台地に横たわるネムは疲れ切った様子でサクラを見上げていた。
サクラはネムのそばに座り込み、悲しげに俯いた。
「どうして本気で戦わなかったんですか」
「……この世界を見ろよ。これだけの規模でクオリアを行使し続けるのって結構しんどいんだ」
雲の上から見下ろす町並みは本物とまったく同じに見える。
確かにここはもうひとつの現実だ。そしてそれを維持するのは並大抵の労力ではない。
だからあのバクを使って、半ば自動で戦っていたのだろう。
あたかもウィルスを排除する白血球のように。
ハイジたちに話しかけた時に戦ったのも、おそらくはサクラを阻止するため。
あの時点でネムの干渉を受けていた彼女たちにもバクが潜んでいたのだ。
「……本当に止めに来るとは思わなかったし、止められるとも思わなかった。なあ、何が不満だ? 私はお前に感謝してる。だからお前の望みは叶えたいって思ってた」
「はい。あたしの願いは叶いました。二度と会えないと思っていた子と話せました」
「そうか……それは、悪いことをしたな」
二度の別れ。
願いが叶った世界からの離反は、それ相応の痛みを伴った。
ネムはそのことを理解した。どれだけ苦しい事だったのだろうと。
「いいえ」
だがサクラはそれを否定した。
確かに死ぬほど悩んだし苦しんだ。
一度は全てを諦めてしまおうとも考えた。
「あたしはエリちゃんにあえて嬉しかった。たった一度でも喜んでしまったんです。だからあなたのしたことを否定する権利はありません」
「お前……」
「でもネムさんには怒ってます。こんな世界を作ったことは許せません」
「ああ……大勢の人間を私のエゴに巻き込んでこんなことをしでかしたんだ。だけどな、私は本当にみんなのことを幸せにしたかったんだ。競技に振り回されず、ただ幸せな日常を歩んでいける世界を……」
その世界には綻びがある。
確証は無いが、ネムを利用してこの事態を引き起こした元凶は、全都民が昏睡している間に何かを起こそうとしている。
その結果、全てが破滅してしまうかもしれないのだ。
だがサクラは首を横に振る。
サクラの気持ちは、そのこととは関係ない。
「あたしが怒ってるのは……その『みんな』にあなたが含まれてないことです」
この世界をネムが永遠に管理するつもりならば。
それはネムが永遠に人の輪に戻れないことを意味する。
それこそ神のように、この世界を存続するためだけのシステムになり果ててしまう。
「あなたは現実でもみんなの悩みを解決していたそうですね。合宿でもあたしの訓練を見てくれましたし、話を聞いてくれました。たぶん、あたしが思ってる以上にたくさんの人があなたに助けられてるんだと思います」
「サクラ……お前」
サクラは泣いていた。
悔しさに顔を歪めて、大粒の涙をこぼしていた。
「じゃああなたは誰が幸せにするんですか。あなたの傷に誰が気づけるんですか。誰があなたを救えるんですか」
サクラは改めて理解した。
傷つく自分を目の当たりにしたハルは、きっとこんな気持ちだったのだろう。
「あたしには夢があります。あたしの戦いで……キューズとしての活動でみんなを笑顔にしたい。苦しんでる人たちに希望を届けたい。明日へ踏み出す勇気を送りたい」
それはあの日サクラの心に宿った光。
エリとの再会で、改めて再認識した本当の望み。
「あなたにも夢があったんじゃないんですか。この夢の世界じゃなくて、本当の本当に……人生をかけて叶えたい夢が」
サクラの涙が落ちる。
頬で弾けて、瞬間――頭にかかっていた霧のようなものが晴れていく。
(そうだ、私は……あいつみたいな辛い想いをする人を一人でも減らしたくて……)
その夢は、少なくともこんな手段では無かったはずだ。
「わかった、わかったよ」
ふわり、とサクラの頭に手が乗せられる。
やわらかな茶髪がゆっくりと撫でられる。
「悪かった。私が間違ってたよ。みんなには申し訳ないが、この世界は終わりにしよう」
その言葉と共に、あたりの景色が剥がれ落ちるように消えていく。
夢の世界が消滅しようとしているのだ。
こんな大それた世界を生み出せるなんて――とネムは考え、そこで思い出した。
「そうだ、私は……あいつらに……」
「ネムさん?」
「サクラ、よく聞け。私に接触してきた奴らは――――」
サクラはその告白を最後まで聞き終え。
驚愕のまま、世界の終焉を迎えた。