154.Dawn
「新聞部っすか? やー、私は帰宅部っすけど。ねえアキラ」
「うん。この学園にはニュースにするような事件なんて起こらないから新聞部なんてないよ」
新聞部だったはずのヒトミコも、その友人のアキラも元の世界と違っていた。
「うん、今はアケミちゃんと同棲してるよ。……え、なに? 同棲じゃないって? アケミちゃんは固いなあ。まあそういうところも好きだけどさ」
ミズキと担任の総谷アケミは元の世界よりも仲睦まじそうだ。
生徒会の面々は、アリスとカナが中庭で寄り添って話しているのを見かけた。
この世界の仕組みを鑑みるに、おそらくはアリスが不良に騙された過去が無くなったことで彼女らの間に横たわっていた確執が根こそぎ消えたのだろう。
お互いに意地を張ることなく、親密な関係を保っているのだ。
他の生徒会メンバー……キリエとココはまだ姿を見ていない。
どこにいるのだろう。こうして屋上から学園を見下ろしても、見つからない。
「……みんな、幸せそう」
ここに不幸は無い。
もしかしたらこれが正しい世界なのかもしれない、これこそが自分の求めた世界だったのかもしれない。
みんなを笑顔にしたい、希望を届けたいという一心で学園都市に足を踏み入れたサクラはこの仮初の世界を否定できない。
しかし、そこにひとつの綻びが存在する。
いつまでもこの世界は続かないということ。
そしてサクラが諦めたとしてもこの身体は謎の存在に乗っ取られ、その存在が全てを解決してしまうということ。
わけがわからない。そもそもあの存在が何なのかもサクラにはわからないのだ。
「あたしは……」
どちらにせよこの世界は終わる。
サクラに与えられた選択肢は、自分の手で解決するか否かということだった。
わかっている。
この状況を打開するためにはサクラが必要不可欠だ。
原因の推測はついている。
街の中心にそびえ立つ、童話に出てきそうな巨大な蔓の塔がそれだろう。
どうして今まであんなものの存在に気が付かなかったのか。
「目を逸らしてたんだろうな……」
無意識下でこの世界が崩壊することを恐れていたサクラは見ないふりをしていた。
解決してはならないと断じた。
それが終わりの始まりだったのだ。
重いため息が落ちる。鉄柵に体重を預け、刻一刻と過ぎていく時間を浪費していると――――
「あ、いた」
凛とした声がして、慌てて振り向くとエリが屋上へと上がって来ていた。
心臓の鼓動がだんだんと速度を増していく。
それはまるで、
「どうしたの? 心配したんだけど」
罪の証を突き付けられているかのようだった。
サクラの現実逃避の象徴が、いま目の前にいる。
エリは少し疲れたような様子で肩をすくめた。
「さっきまた山茶花さんが突っかかって来てさ。困るよ」
「すみません……」
「どうしてサクラが謝るの? ふふ」
ここにいるエリは幻だ。
夢の世界にいる人たちは、おそらくサクラと同じく現実からこの世界へと落とされた。
しかしエリは違う。ゲームで言うならNPCだ。
彼女はもう存在しない。誰の記憶にも残っていない。
このエリは唯一彼女を覚えているサクラの記憶から構築されたもの――とは限らない。
学園都市中の人間が落とされたということは、それだけの人数の夢を叶える必要があるということ。
個別に対応しているとは思えない。ならば、例えばエリそのものを構築するのではなく『エリが生きている世界』……ひいては『願望が叶う世界』が作り出されているのかもしれない。
前に漫画で呼んだパラレルワールドみたいなものかな、と考えるサクラだったがこれ以上考えると頭痛がしそうになる。
どちらにせよこのエリは『もしエリが生きていたら』という願望から生まれたサクラの夢を満たすための存在だ。
エリは口を閉ざしたサクラの隣に歩いてくると、同じように柵へと身体を預けた。
その横顔はどこか寂しそうで目を奪われるほどに美しい。
「……不思議だね。すごく幸せで、こんな日々がずっと続いていけばいいなって思う反面……こんなはずないって叫ぶ声が頭の中から聞こえるんだ」
「エリちゃん……」
違和感。
エリの中にも、それはあるのか。
「サクラがずっと苦しそうなのはそのせいなんでしょ」
「……あたし、は」
「教えてよ。それとも私には言えない?」
言えない。
この夢の世界を脱して現実世界に戻れば、本当にエリはいなくなってしまう。
たとえ幻だとしても、自分の手でもう一度エリを――なんて選択肢は取れない。
目の前に広がる黄金色の夕焼けが目を突き刺して、じわりとした痛みが広がる。
視界がぼやけて、黄金がハレーションを起こす。
もう限界だった。
「この……世界は、間違ってます。だけど、どうしても否定できない。だってみんな幸せだから。たとえいつか全て消えてしまうとしても、あたしの手で壊すなんてことは……でき、ない……っ」
ぼたぼたと、握りしめた鉄柵に涙が落ちる。
怖かった。たとえそれが正しいことだとしても、みんなの幸せを壊した自分は誰にも顔向けできなくなってしまう。
それがたまらなく怖かった。
怖かった。仮初の世界だとしてもエリとこうして再会できたことが嬉しかった。
もう一度別れるなんて、できない。
「サクラ」
その声に顔を上げる。
涙に濡れた目ではよく見えないが、それでもエリが笑っていることはわかった。
「サクラの本当の望みは何?」
「それは、エリちゃんとまた一緒に……」
「違うでしょ」
冷たい声だった。
まるで出会った頃のような、一切の感情を含まないそれはサクラを責めているかのようだ。
「思い出してみて。あなたはどうしてここにいるの」
「…………あたしは昔、親友を傷つけました。自分の中に眠る力が怖くて、誰とも顔を合わせられなくなって……そんな時、キリエさんの試合を見て、それで…………」
キリエの戦いに魅せられた――のではない。
彼女が生む、歓喜の渦。
自分と同じ異能でもって、自分とは真逆の結果を起こしたその事実に、サクラは心を動かされた。
凍っていた心臓に熱が灯り、原動力になった。
そう、
「この力で、みんなを幸せにしたい。笑顔になってほしい」
それがサクラの力の源。
前へと進む原動力。
「…………うん。サクラはずっとそうだったよね。私がいくら突っぱねても諦めなかった。本当はけっこう鬱陶しかったけど」
「そ、そうだったんですか」
あれ、と違和感。
このエリは――あの時のことを覚えているのか?
「でもね――本当はすごくうれしかった。サクラのおかげで一人ぼっちじゃないって思えたから」
「――――エリちゃん?」
思わず目を見開いた。
エリの肩のあたりから、少しずつ綻びが生じている。
まるで空気に溶けていく霧のように、彼女の輪郭がわずかに揺らぎ始めている。
「寮のエントランスで声をかけてくれた時、救われたって思った。一緒に食べたお鍋の味も、一緒に寝た布団の温かさも覚えてるよ。ぜんぶぜんぶ、サクラがしてくれたこと」
「待って、エリちゃん」
差し伸べた手がエリに掴まれる。
するりと握り方を変えて、細くて白い指が互い違いに指の間に滑り込んでくる。
「私はね、サクラのそういうところが好きなんだ。だから……自分を見失っちゃダメだよ」
言葉のひとつひとつが紡がれるたび、エリの存在が揺らいでいく。
どうして、どうしてと頭の中で疑問ばかりが巡る。
手から伝わる体温を感じることだけで精いっぱいだった。
「ここを出て現実に戻るのは怖いよね。でも、サクラは言ってくれたはずだよ。世界にはまぶしいくらいキラキラしたものが溢れてるんだって――いっしょには探してあげられないみたいだけど……でも、この世界じゃ見つからないものがあるんじゃないかな」
「それ、あの時の……」
ようやくわかった。
エリはサクラの願望から生まれた。
しかし、その願望が薄れてしまえば。
エリの言葉に背中を押され『外の世界に出なければならない』と決意を固めるほどに、このエリの存在もまた薄れていく。
「だからがっかりさせないでよ。サクラは私の一生の宝物なんだから」
「エリちゃん……!」
手を引いた。
ぐっと距離が縮まって、思い切り抱き留める。
強く、強く抱きしめた。温かくて、また泣きそうになる。
エリはここにいる。
間違いなく、いた。
例え消えてしまってもその事実は無くならない。
「エリちゃん」
「なに?」
「あたし、エリちゃんと友達になれて良かったです」
「私もだよ」
涙がエリの肩に落ちる。
やっぱり別れるのは辛くて、痛くて――心が血を噴きそうだ。
でも、
「泣かないで。私はずっとそばで見守ってるから」
やっときちんとしたお別れができた。
「…………」
いつの間にか温かさは消えていた。
前兆も無く、屋上にはサクラ以外いなくなっていた。
最初から一人きりだったかのように。
「……でも、覚えてる」
あの声も。
体温も。
握った手の小ささも。
笑顔も。
全てここにある。
気づけば左手首にリミッターが装着されていた。
胸に手を当てると、クオリアの存在を感じる。
見上げると、すでに空の橙には藍が混じり始めていた。
「かっこ悪いなぁ、あたし。逃げて逃げて、立ち直ってもまた逃げて――人生ずっとそんな感じ。だけど」
遠方にそびえ立つ蔓の塔を見据える。
目的地はあの場所。
そう、最初から知っていた。
「もう振り返らない」
たとえみんなの幸せを壊すとしても。
この世界から出て、みんなを助けるために。
エリに顔向けできるように。
サクラは前を見て、まずは一歩踏み出した。