153.Dream
幸せな夢の世界は一日にして崩壊した。
サクラに突き付けられたのは、二つの選択肢。
自らの手でこの夢を壊すのか。
それとも全てを諦め、終わりを迎えるその日までこの夢に身を浸し、あの謎の声に後のことを委ねるのか。
「…………」
爽やかな朝の陽射しを浴びながら、重い足取りで最寄り駅への道を歩く。
一晩考えても答えは出なかった。
現実世界では恐ろしい事態が起きつつあるらしい。
そしてこの夢から脱することができるのはサクラだけだとも。
脱することが出来なければ、みんな死んでしまう。
普段のサクラなら、迷うことなく夢を壊すことを選んでいただろう。
悩み抜いた昨晩は何度もそう考えた。
しかしそのたびにエリの笑顔が浮かんで決心を踏みとどまらせる。
お前は『アレ』を捨てられるのかとこの世界自体が問いかけてくる。
「どうすればいいんだろう……」
まだ十五回と少ししか歳を重ねていない少女には、重すぎる選択だった。
* * *
いつの間にか最寄り駅が見えてきた。
そのエントランスに、全身をクラシカルなメイド服に包み込み、凛と整った無表情でこちらを見つめている少女がいた。
「マドカちゃん」
「メイドでございます。天澄さま」
仕﨑マドカ。
山茶花アンジュお付きのメイドだ。
その肩書きの通り、アンジュのそばには常に彼女の姿がある。
そんなメイドがどういった用事だろうか、とサクラは内心でいぶかしむ。
「その顔は、やはりこの事態に気づいているようですね」
「……! マドカちゃんもですか」
例の陽炎が言っていたことを思い出す。
――――そもそもこの世界でまともなのは君くらいですからね。例外もいるみたいですけど。
例外。
ほぼ間違いなく、マドカのことを言っていたのだろう。
「登校しながら話しましょう。たまにはメイドと二人きりというのも乙なものですよ」
冗談めかしたその言葉に、サクラは小さく頷いた。
* * *
モノレールの微かな振動が身体を揺らす。
いつも満員のはずの車両はほどよく空いていて、息苦しさは感じられない。
車内に吊り下がっているゴシップ誌の広告には不祥事や訴訟といったネガティブな見出しは見受けられず、芸能人の飼い猫が子どもを五匹出産したなどといったほのぼのとしたニュースが並べられている。
「この世界は、おそらく『願望が叶う世界』です」
「願望が叶う……」
「つまり名実ともに夢の世界ということですね。夢が叶う、夢の世界。ここに不幸は無く、誰もが望んだものを得ることができる」
エリの生存。
そしてハルとの不和の解消。
おそらくは、それがサクラが叶えてもらった”夢”だ。
(……確かに、それ以上の強い願い事は思いつかないな……)
他にも叶えたい夢はあるが、それは自分自身の力で叶えるべきものだ。
「そしてほとんどの人間はそれを当たり前のものとして受け止めています。この世界こそが本当の世界だと認識しているんです。たぶん、叶った夢に疑問を持ってしまうとその時点で幸せにほころびが生じてしまうからでしょうね」
アンジュ達を始めとした昨日関わった人たちは、全員がこの世界を最初からそうであったかのように受け入れていた。
サクラからすれば一夜にして別の世界に飛ばされたような気分だ。クオリアまで消えているなんて、そしてそれに疑問を抱けないなんて正気の沙汰ではない。
今にして気づいたが、手首に巻いたリミッターが無くなっている。クオリアが存在しない以上それを抑制する道具も必要ないということなのだろうか。
「マドカちゃんは、」
「メイドとお呼びください」
「……メイドさんはどうしてこの世界のことをそんなに知っているんですか? それにこの世界のことを受け入れていないのも、今の話から考えれば変です」
意図せず少し刺々しい言い方になってしまった。
この状況に、サクラ自身余裕を失っているらしい。
「まず先に可能性を否定しておくと、私がこの事態を起こした張本人――というわけではありません。この世界に飲み込まれていない理由に関しては推測になりますが、叶える夢がなかったからかと」
「叶える夢が、ない……?」
「はい。正確に言うとすでに叶っていると申しましょうか。私にとっては、言わば現実世界こそが夢の世界というわけですね」
夢。
メイドの夢。
少し気になったが、聞いていいことなのか判断がつかず迷っていると、それを察したのかメイドが続ける。
「私からすると天澄さまが正気を保っていることの方が驚きでしたね。夢いっぱい元気いっぱいな感じでしたから」
「あ、あたしそんなふうに見えてたんですか」
サクラがこの世界で正気のままでいられる理由。
心当たりはある。おそらくはあの陽炎が関係しているのだろう。
だがそれを話して信じられるのだろうか。
「ああ、別に理由を聞きたいわけではありませんよ。ただ、私は今のアンジュさまを見ていられない」
「…………あの、もしかしてアンジュちゃんって」
「私からは何とも。ただまあ、わかりやすいですよね。反吐が出るほどに」
メイドは明言しない。
だが、さすがにサクラにも理解できた。
ここが夢の世界であるならば、アンジュと自分が付き合っているという状況はアンジュの夢から生まれたものだ。
(アンジュちゃんは、あたしのことが……)
いろいろな気持ちで頭の中がパンクしそうだ。
考えている場合ではないが、考えずにはいられない。
このままだと頭頂部から煙でも出るかもしれない。
そんなサクラを慮ってか、メイドは憮然とした調子で鼻を鳴らした。
「今は考えなくて構いませんよ。あんなのお嬢様ではありませんので」
「それはそれでどうなんでしょう……」
「とにかく。私は昨日の天澄さまの様子を見て、事態に気づいているのだと推測しました」
「それはまあ、はい」
アンジュに出会ってから違和感には気づいていた。
だがエリとの再会で、抗う気を折られてしまったのだ。
「もしかすると、この世界のことを知っているのかとも思ったのですが」
「それは……」
心当たりは、ある。
夢という単語を聞いてからとある人物の名前が頭に浮かんでいた。
こんな異様な事態を引き起こせるのは、クオリアに他ならない。
夢のクオリア。その持ち主は――――
「気が進みませんか?」
「それ、は」
「あなたにも叶えたい夢があったのかと存じますが……私と違ってあなたは叶っているようですね。察するに、あの銀髪赤目の子……私の知らないクラスメイトのことでしょうか」
どくん、と鼓動が速くなる。
エリ。彼女は存在ごと消えたことでサクラ以外の記憶からも消えた。
このメイドもエリのことを覚えていない。
だからこそ、メイドにとっての現実との差異になりうる。
「……無理強いはできません。ですが協力してほしいのです。この世界では私の夢は叶わない」
「メイドさんの、夢」
ええ、とメイドは頷く。
そして躊躇いなく、それが当然のことのように言い放った。
「私の夢はですね――山茶花アンジュのお傍にいること。ただそれだけなんです」




