151.Morning
ちゅんちゅん、と鳥のさえずりが聞こえる。
ゆっくりと覚醒する意識の中、重いまぶたを何とか開く。
だるい身体を起こして思い切りあくびをした。
「ふああああぁぁ……」
よく眠れた。そんな次の朝の方がすっきり目覚められないのはどうしてだろう。
何やら妙な夢を見ていた気がするものの、その輪郭はすでに解像度が底まで落ちてしまっている。
どうしてか、『自宅のベッドで目を覚ました』という現状に違和感を覚えた。
しかし寝起きの頭でそんなことを真面目に考えられる余裕は無く、寝ぼけ眼で枕元のスマホに手を伸ばす。
「わっ、もうこんな時間!?」
何故か毎朝鳴るはずのスヌーズが今日に限ってサボタージュを敢行していたらしい。
慌てて飛び起きたサクラは、とりあえず洗面所に向かうことにした。
* * *
何とか爆速で支度を終え、ぜえぜえ言いつつ最条学園が見える所までたどり着いた。
まだ夏の気配が残る朝は暑く、すでに汗だくのサクラだった。
「でもなんとか間に合いそう……」
談笑する生徒たちに紛れて歩く。
この時間ってこんなに登校する生徒が多いんだ、なんて新鮮に驚く。
(……ん?)
また違和感。
なぜ自分はこの光景を新鮮に感じたのだろう――などと考えていると、進行方向から黄色い声が聞こえてきた。
「だ~~り~~~~~~ん♡♡♡」
ええ、と思わず怪訝な顔になる。
角砂糖をシロップ漬けにしたかのような甘ったるい声でのダーリン呼び。
そんなバカップルがこの学園にいたのかと素直に驚きつつ、自分には関係のないことだ……と歩みを進めると、校門前で知った顔がこちらへ向かってぶんぶん手を振っていた。
「だーりんおはよ~~~~♡」
「……………………………………え?」
ふわふわの赤い髪。
切れ長の瞳。
気品に溢れた立ち振る舞い……は見る影もないが。
誰かさんをだーりん呼びするその少女は、まごうこと無き山茶花アンジュだった。
品格を備え、常に自分を高く保つ位の高い美少女――そんなアンジュがとろっとろに蕩けた表情でこちらに駆け寄ってくる。
「今日も良い朝ですわね♡」
ぎゅっ。
近づくや否やサクラの腕に抱き着くアンジュ。
ほっそりとしているが確かな柔らかさが伝わって来て、否が応にもどぎまぎしてしまう。
「お、おはようございます……?」
「うふふ、おはようございます♡ 今日もあなたとあいさつを交わせて幸せですわ♡」
語尾からハートマークが一向に取れない。
アンジュはサクラの腕に頬ずりしつつ、潤んだ瞳でじっと見上げてくる。
あまりにも魅力的で蠱惑的なその情景に、ぐっと言葉が詰まりそうになる。
「あの……アンジュちゃん、ですよね?」
「もちろんですわ! あなたの恋人、山茶花アンジュですわよ♡」
「こい」
びと。
およそアンジュの口から飛んできたとは思えない言葉に理解が追い付かない。
恋人?
彼女?
Lover?
呆けている間にも『ほら、遅刻しますわよ!』とアンジュはサクラの腕を引っ張って歩いていく。
このあたりの強引さというか気の強さみたいなものはサクラの知るアンジュそのものだが、あまりにもそれ以外の要素が違い過ぎる。
こんな恋愛最高・人生絶頂みたいな振る舞いをする子ではなかったような気がするのだ。
周りの生徒たちは『またやってる』『名物カップルがいるぞ』……とこの光景を当たり前のものと受け入れていて、それがまた混乱を加速させる。
まるで一晩の間に違う世界へと飛ばされてしまったかのような状況だ。
「変なこと聞いてもいいですか?」
「もちろんですわ!」
輝くような笑顔に、罪悪感の針が胸を刺す。
しかし何としてでもこの状況のために情報を探らなければならないのだ。
「あたしたちっていつからどういう感じで付き合ってるんでしたっけー、なんて……あはは」
瞬間、アンジュの瞳にぶわっと涙が湧き出てぎょっとする。
明らかに泣きかけのアンジュはそれでも涙をこらえつつ、ぱっとサクラの腕を解放した。
「忘れてしまったんですの……?」
「ううっ」
この破壊力。
もう全て投げだしてアンジュのために話を合わせたくなる。
そもそもサクラは目の前で困っている人を放っておけないのだ。ましてや自分のせいで悲しんでいる彼女を利用するなんて――と、そう制止しようとする心の動きを何とか抑えつける。
どうしてかはわからない。
だが、この事態を何とかしなければという想いが何よりも強くサクラの心を動かしていた。
「あ……アンジュちゃんから言ってほしくて。ね?」
そんな心にも無い、自分の心を痛めるだけの薄っぺらい言葉。
しかしこのアンジュに向けて『あたしたちは付き合ってません!』『絶対おかしい!』などとは言えなかった。
こういうところが自分のダメなところで、優しくないところなんだ……と自戒していると、アンジュの涙は引っ込み笑顔に変わった。
「もう、サクラったらイジワルなんですから。そんなところも好きですけど」
「アハハ……」
乾いた笑いを出しつつ歩き始め、『嘘でしょ……』とまろび出かけた言葉を飲み込む。
今まで抱いていたアンジュの気高いイメージが塗り替えられていくのを感じる。
「入学式で不良に絡まれていたわたくしをさっそうと助けてくれたあなたに一目ぼれしたので、猛アタックしたらその日のうちにOK貰えたのですわ♡」
「雑!!」
え? と首を傾げるアンジュ。
慌てて口を塞ぎながら考える。
アンジュが不良に絡まれていたことは知る限り無い。というか彼女なら絡まれたとしても自力で撃退できるだろう。
ただ、似た出来事ならあった。
アンジュの取り巻きから彼女を庇った時のことだ。あれはサクラが遠因になった出来事なので苦い思い出ではあるのだが、もしかするとそれが関係しているのだろうか。
(あ、れ……?)
頭がぼやける。
その出来事を思い出そうとすればするほど、漂白されるように消えていく。
おかしい。やはりこの状況は異常だ。
もう躊躇ってはいられない、強引にでもアンジュに確認して――と。
そう決心した瞬間。
「サクラー」
声が聞こえた。
知っている声だった。
そして、もう二度と聞くことの無いはずの声だった。
心臓の鼓動が加速する。
それが恐怖なのか、歓喜なのか、それとも戦慄なのかもわからないまま、ゆっくりと振り返って――――
「……………………………………………………………………」
それを見た。
「おはよう。背中が見えたから追いかけてきちゃった」
「もう、またあなたですの? 友人だからと言ってわたくしのサクラにあまり近づかないでくれます?」
「友達なんだから別にいいでしょ。ね、サクラもそう思うよね?」
自分より少し低い目線は赤く、肌は雪のように白い。
ツインテールに縛られた色素の薄い銀髪は、朝日を浴びてきらきらと輝いていた。
まるで神がオーダーメイドしたかのような美しい相貌はうっすらと笑顔に彩られて――サクラは目を奪われてしまう。
だがそれは外見の美しさに、ではない。
ぽかんと空いた口の下あごがわなわなと震える。
頭がかっと熱くなって、視界がどんどん狭まっていく。
ひゅっ、という喉の音で、自分が呼吸を忘れていたことに気が付いた。
「エリ、ちゃん……?」
いっそ笑えるほどに震えた声でその名を呼ぶ。
するとその少女は、言葉を失うほどに美しい微笑を浮かべた。
「うん、エリだよ。サクラの親友の、空木エリ。忘れちゃった?」
空木エリ。
夏前に転校してきた少女。
■■■■■■■の使い手で、その正体は■■■■■■■■■。
そして、彼女は。
一学期の終業式の日にその命を、存在を――――
「わっ、どうしたのいきなり」
「…………ッ」
気づけば抱きしめていた。
アンジュの怒った声が聞こえる。
周りの生徒もなんだなんだと野次馬根性を発露させている。
だが、全て目に入らなかった。
抱きしめたエリの体温も、優しいリズムを刻む鼓動も、間違いなくここにある。
それをひたすらに確かめて、気づけば大粒の涙を流していた。
「エリちゃん……っ、あたし、あたしエリちゃんが死んじゃって、それで……」
「もう……どうしたの。私は生きてるよ。わかるでしょ?」
こくこくと頷く。
生きている。
エリが生きている。
それだけで良かった。
それだけが良かった。
よしよしと髪を撫でる手の温かさに、また新しい涙が溢れそうになる。
「夢でも見たの?」
夢。
ああ、そうかもしれない。
罪の無いエリが殺されるなど、それを目の前で助けられないなど、そんな酷いことが現実に起きるはずがない。
こっちが現実だったんだ。
ずず、と洟をすする。
もう一度確かめるように、エリの身体を強く抱きしめた。
「悪い夢を……見ていたみたいです」
これが現実。
あたしが求めた現実。
それを認めて、涙でぐちゃぐちゃの顔で――――サクラは幸せそうに笑った。