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145/208

145.In *****


 喧騒に満ちる街中で、遠くからアイドルの――以前出会ったLIBERTYの曲が聞こえてくる。

 しかしサクラの耳には入らず、背中にじわりと嫌な汗が滲む。


「おい、どうした?」


 目の前の三人のうち一人、韮蜂ハイジの呼びかけで我に返る。

 彼女たちは学園を自主退学した。だから失意のままこの学園都市を去ろうとしているとばかり思っていたのだが、その想像とは全くの真逆。

 

 まるで部活帰りにどこか喫茶店でも寄ろうとしているかのような、ある種憑き物が落ちたとすら感じられる様子だ。

 なんだ、この違和感は。それとも自分がおかしいのだろうか。

 本当はこの三人は元から挫折なんてしていなくて、ただ単にキューズを辞めたかっただけなのだろうか。


「あの……」 


「ん?」


 このあっけらかんとした物腰も違和感がある。

 ハイジはサクラとの間に確執があったはずだ。

 以前学内戦でぶつかった際には憎しみにも似た情念をぶつけられた。

 それに――そうだ、彼女は強くなりたいがために倫理の欠けた科学者に身を委ねようともしていたはず。

 やはり何かがおかしい。


「退学するって、本当ですか」 


「ああ、そのことか。本当だけど……なあ?」


 うんうん、と脇の二人も同意する。

 以前とはやはり全く違う振る舞いだ。


「で、でもあたしたちのキューズとしての活動って始まったばかりだったじゃないですか。それなのに……ハイジちゃんだってすごく頑張ってたはずなのに、どうして」


「どうしてって言われてもな……まあ、向いてないし、そこまで頑張る意味もないよなーって気づいただけ。成功するかわからない不安定な道より、普通の学校に通って普通の進路に進んで、普通に生きていくのがいいと思ったんだよ」


 言葉を失った。

 確かにハイジは劣等感に苦しんでいた。

 自分の素質を周りと比べて、努力しても追いつけないことにどうしようもなくもどかしさを感じていた。

 

 だが、それでも。

 中学時代共にいたアンジュに激励してもらって、夏休み前には懸命に足掻いていたのだ。 

 それをこんな短期間で捨てられるものなのか。


「でも、ハイジちゃんたちはあんなに頑張ってたじゃないですか……」


「まあ、そうだけどさ。頑張り続けることだけが正しいわけじゃなくない? 他の道を選んで進むのだって全然ありだろ」


「それはそう、かもですけど」


 ハイジの言葉は間違っていない。

 サクラには反論の言葉が思いつかなかった。

 彼女たちはもう、今までの道を進むことは望んでいない。


「そうだよ。私たちこれで良かったんだよ」


「うんうん、なんだか解放された気分」


「それは大げさだろ」


 あははは、と笑いすら起きる。

 唇をかみしめているのはサクラだけだった。


「お前は相談窓口だもんな。たぶん私らのことを心配してきてくれたんだろ? でも大丈夫、私たちはこの選択に納得してるから」


「ハイジちゃん……」


「じゃあ私たちはそろそろ行くから。お前のことは……まあ、たまに試合とか見てやるよ」 


 そう言って三人は振り返って歩いていく。

 手すら振って、サクラの道行きを応援してくれる。

 これでいいのだろうか。

 彼女たちは、何も望んでいない。

 異能を操りしのぎを削る世界から、穏やかで現実的な法則が満ちる外の世界へと帰ろうとしている。


(…………だけど)


 本当にこれが正しいのかと理性が叫ぶ。

 サクラの抱く違和感がアラートを鳴らしている。

 それに。


 ――――いいか、助けるべき時が来たら躊躇うな。でないと……手遅れになってしまうからな。


 新子の言葉が頭をよぎる。

 その時は、今なんじゃないかと思った。


「待っ……」


 追いかけようとした瞬間。

 ずるんと足を踏み外した。


「えっ?」


 自分は今平らな歩道に立っていたはずだ。

 なのに、何を”踏み外し”た?

 ゆっくり、ゆっくりと――視線を足元に移す。

 するとサクラの右足が地面に沈んでいた。


「な――――!」


 いや、正確に言えば地面ではない。

 サクラの踏み込んだ地面が虹色に揺らいで沼のように足を引きずり込んでいるのだ。

 これに似た現象を、サクラは知っている。


(ポケット……!? どうして今!)


 タイミング的に発生源はハイジだろうか。以前彼女はポケットを発生させかけたことがある。

 しかし彼女らはこちらの異変に気づくことなく歩いていく。

 今までポケットの入り口が生じた時には真っ先に発生源であるクオリア使いが引きずり込まれていた。 

 しかし今回に関しては違う。その上、ポケットの発生条件と思われる感情の爆発も起きていない。

 ハイジたちは全く精神的に不安定ではなく、むしろ逆に見える。


「抜けられない……っ!」 


 もがけばもがくほど沈む。気づけばサクラの足元の地面は完全に虹色へ変化していた

 よく見れば、この虹色の沼はハイジたちの足元の影、その淵から生じている。

 ならばやはり発生源は彼女たち。

 だがこれ以上は判断がつかない。

 気が付けばサクラは胸元辺りまで飲み込まれ、そのままなすすべなく完全に沈んだ。 



 * * *



 最初に感じたのは柔らかい地面の感触だった。

 

「う…………」


 ずぶぬれになったかのような重い身体で立ち上がると、徐々に視界にかかった靄が薄れてくる。

 視界いっぱいに広がるのは少し灰色がかった青い空。景色を遮るものは何も無く、ただただ広大な空間がそこにはあった。

 あたりに漂う虹色の霧は、この場所が間違いなく錯羅回廊……その中に個人の心から発生した空間だということを教えてくる。


「わ、雲の上だ」


 立っていた地面が空に浮かぶ雲だったことに遅れて気づく。

 ただその色は真っ白ではなく、少し汚れたような灰色がかったものだった。

 よく見れば雲の中からガラス細工のような階段が下に向かって続いており、あれを降りていけば地上に着くのだろうかなどと益体も無いことを考えた。


 だが、今はそんなことをしている場合ではない。

 ここの主――モンスターを倒さなければ脱出は叶わない。

 

(ハイジちゃんたちともう一度話すのは無理になっちゃったな)


 彼女たちがサクラが脱出するまで待っていてくれるとは思えない。

 そもそもサクラに興味を持っていない様子だった。

 どうしてあそこまで変わってしまったのだろう。その答えが、もしくは手がかりが、このポケットにあるのだろうか。

 未知の空間に警戒していると、風が吹いた。

 

「な、なに?」


 突風だ。

 背中を叩くような風に、サクラは自分の後ろから吹いているものだと思ったが違う。

 この空間の外周から中心に向かって虹色の霧が集まっているのだ。

 それらは少しずつ輪郭を形成していき、現れたのは巨大なバクのようなモンスターだった。


 体色は煤にまみれたかのように黒ずんでおり、胎児のように丸まった体勢で空中に浮かんでいる。

 その瞼は閉じられ、こちらを認識しているのかわからない。 

 とにかくこのモンスターを倒して現実世界に帰らなければ――と、サクラは戦闘態勢に入るのだった。


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