140.最終日:競う喜び/救いたいというエゴ
「まーけーたー!!」
試合場から戻ってきた途端、リッカは頭を抱えて叫ぶ。
だんだんだんだんと足踏みを繰り返し、この上なく悔しそうだ。
「り、リッカ……」
さすがに声をかけたカガリをも無視してしばし悔しがったところで、やっと顔を上げる。
雪のように白い肌はあちこちすり傷だらけで、綺麗な髪や着用しているジャージまでもが土汚れでまみれている。
だがその表情だけは、見ているこちらが面食らうほどに晴れやかだった。
「悔しいっ!」
「言動と顔が一致してませんわ」
呆れ気味のアンジュだが、その口元には小さく笑みが受かんでいる。
今のリッカの気持ちに、彼女も共感しているようだった。
「あーっ、悔しい! うち不戦敗とかは結構経験してるけどちゃんと最後まで戦った試合は全部勝ってたのに! 初めて負けたー!」
「え、すごい」
「な、すごいやろ! でも天澄と山茶花はそんなうちらに勝ったんやで! すごいやん!」
自慢したいのか相手を称えたいのかよくわからないことを言いつつ手を差し出してくるので、サクラは躊躇いがちにその手を握る。
するとぶんぶんと犬の尻尾のように上下に振られてしまう。
「あうあうあ」
「悔しかった、けど……最後まで戦えて、しかもこんなに満足できる勝負は初めてや。な、カガリ」
「う、うん……。私も自分とは思えないくらいの力が出せたし……なによりリッカがすごく楽しそうだったから嬉しかった、よ」
つっかえながらの呟きに、リッカは一瞬だけ笑みを穏やかにする。
サクラはその表情に少しだけ驚いたが――瞬きした時には元に戻っていた。
「楽しかったな。なあ天澄、競い合うのって辛い事ばっかりやない。ちゃう?」
「あ…………」
競技に打ち込んでいれば嫉妬もやっかみもいわれのない中傷も、そして無力感に打ちひしがれることや諦めたくなる時だってある。
だけどこの短い時間、サクラの頭の中からはそんなことは全て抜け落ちていて。
ただ目の前のライバルと力をぶつけ合い、しのぎを削り合う。
全身の血が沸騰するようなその高揚を味わっていたのだ。
改めて。
サクラは競うことや争うことが好きだからキューズになったわけではない。
キューズとしての活躍を見た誰かが少しでも希望を受け取ってくれればと――明日を生きる活力にしてくれればと願って学園都市へと足を踏み入れた。
そこに自分が楽しむという意識は一切無かった。
だが、少しずつ自分を認められるようになって。
様々なライバルとぶつかり合って。
競うこと、高め合うこと。それらがこれほどまでに心身を充実させてくれるものだと知った。
(教えてくれたのはこれまで出会ってきたみんな。そして……)
きっかけになったのは、リッカだ。
「ありがとうございます、リッカちゃん。それにみんな。あたしもすごく……楽しかったです!」
そこには勝者も敗者も等しく存在した。
しかし、同時に――全員の胸に、いっぱいの歓喜が広がっていた。
* * *
合宿四日目の朝。
集められた参加生徒は締めの集会を終え、それぞれの帰路に着こうとしていた。
お世話になった宿泊施設の部屋から撤収し、廊下に出たサクラとアンジュはリッカとカガリの二人と鉢合わせた。
「おはよーお二人さん。あっという間やったなぁ」
「ずっと続くんじゃないかと思っちゃいましたけど、振り返ってみると短かったですね……」
四日という期間は短い。
今日は朝から帰るだけなので、実質的には三日間の合宿だった。
一週間の半分にも満たない時間だ。
「それだけ充実してたということですわ」
「で、でも……寂しくなる、ね」
小さく零されたカガリの言葉に揃って黙り込む。
リッカとカガリの出会いと交流は、短くも濃い時間だった。
少なくとも離れがたく思うくらいには。
だが、リッカはそんな空気を打ち払うようにカガリの肩を組む。
「だーいじょうぶやって。SIGNも交換したし、それに……キューズとして戦って、勝っていけば」
「また試合で会えますね!」
「そういうことですわ」
「う、うん。また……!」
次はまた別の場所。
模擬戦ではない、負ければ終わりの本当の試合で。
「あっ、そや!」
「うわびっくりした」
いきなり声を上げたリッカはスマホで時間を確認して慌てている。
「カガリ、早く行かんと! 電車に乗り遅れたらめっちゃ乗り換え手間取るで!」
「う、うん!」
またなー! と手を振ってリッカたちは走り去る。
どたどたと慌ただしい足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「騒がしい人たちでしたわね……わたくしたちもそろそろ行きましょうか」
「はい! ……あ」
元気よく返事をしたは良いが、最後に行くところがあったのを思い出した。
「ごめんなさい、先に駅へ向かっててください。後から追いかけるので」
「遅かったら置いて帰りますわよ」
「えへへ、なんていいつつアンジュちゃんは待っててくれそうです」
「……おばか。さっさと済ませてきなさい」
わかりました、と答えてサクラは歩き出す。
最後にひとりだけ会っておかなければならない人がいる。
* * *
訓練場の医務室。
ひと気の薄くなった施設で、新子は後始末に精を出していた。
……というのは正確ではなく、撤収作業が億劫で遅々として進んでいなかったのだが。
椅子にだらんと背を預けて電子たばこを吹かしていると、コンコンと控えめなノックが空気を震わせた。
「どうぞ」
「新子先生、おはようございます」
控えめに入室したのはサクラだ。
新子は咥えていた電子たばこをしまい、背を起こした。
「どうした。まだ帰ってなかったのか」
「新子先生にお礼が言いたくて。リッカちゃんのこと、ありがとうございます」
深くお辞儀をするサクラに、何となく気まずくて頭をかく。
実直なのは悪い事ではないが、ここまで真っすぐ来られると何となく気まずいというか、座りが悪い。
「お前律儀だなあ……あれは仕事だからそうしただけだし、そもそもお前が礼を言うことでもないだろ」
「いいえ、リッカちゃんは友達ですから。あたしだけじゃ……どうにもできませんでした。リッカちゃんに拒絶されて、頭が真っ白になって……どうやって助けるのか以前に、助けて良いのかと迷ってしまって」
「……そういえばお前は相談窓口ってやつだったな」
本来想定していた役割からはズレつつあるようだが。
だが新子が知っている範囲に限っても、細々とした生徒会への要求や困りごとを生徒たちから聞いて対処する――そういった仕事を粛々とこなしていると耳にしている。
そんな相談を受ける立場であるサクラからすれば、助けたい相手から拒絶されるのはもしかしたら初めてだったのかもしれない。
以前自称新聞部のヒトミコから依頼を受けて飛多アキラと戦った時、サクラはアキラも助けたかったが、アキラ自身はそれを良しとしなかった。
だがそのケースは最初、ヒトミコを助けるための戦いだった。
直接相手から拒絶されたのは、リッカだけ。
「……相手が助けを求めていないのなら。その意思を尊重したほうがいいのかなって思っちゃったんです」
しぼんでいくような頼りない声色に、新子は静かに耳を傾ける。
その考えは正しいのかもしれない。
だが。
「医者ってやつは時に患者本人の意思を無視することがある」
「え?」
新子の気だるげな調子はすっかり鳴りを潜め、いつの間にかまっすぐにサクラの瞳を見つめていた。
サクラは思わず項垂れていた背を正す。何か真剣に伝えたいことがあるのだと、すぐにわかったからだ。
「例えば意識不明の重体で搬送されてきた患者に対して、彼らは相手の意志を確認することなく処置に当たる。病魔に侵されている人に、治療のために望まない行動を半ば強いることだってある。それは相手を救うためだ。しかしそこに相手の意志は介在しない。何故かわかるか?」
「それが……仕事だから……?」
新子はかぶりを振る。
「間違っては無いが、記述問題なら△だな。正解は……そうでもしないと救えない相手がいるからだ」
意識不明の重体で運ばれてきた患者に”本人の意思”を確認するため意識が戻るのを待っていては手遅れになる。
例え治療を拒絶していても、その言葉が本心とは限らない。
「この世には苦しんでいても助けを求められないやつがいる。自分が苦しんでいることに気づけないほどにまで追い詰められてる奴がいる。助けを求める気力すら尽きてしまった奴がいる」
助けられたいと思っていても、救われたいと願っていても、その本心が苦しみに押しつぶされていることだってありうる。
何故なら苦しみから抜け出すのには、また別の苦しみを伴う場合があるからだ。
それなら今の苦しみに耐え続けている方がマシだと思ってしまうのも自然な感情。
諦めてしまいたい時が、人にはある。
差し伸べられた手を構わないでくれと振り払ってしまう時もある。
だが、それでもその苦しみの先にある幸せを掴みたいと思ってしまう。
それが時に残酷な選択になりうることがわかっていても。
「本人の意思を尊重する……まあ正しい言い分だとは思う。だけどな、そいつが崖に向かって突っ走っているのを見ていて、そのままだと落ちて死ぬことがわかっていてなお見過ごすのは……思考の放棄と何も変わらない。それは見捨てているのと同じことだ」
「…………」
「いいか、助けるべき時が来たら躊躇うな。でないと……手遅れになってしまうからな」
そう言って新子はサクラが始めてみる笑顔を浮かべた。
確かに笑っているのに、そこには胸を締め付けるような寂寥と諦観が顕わになっているのがわかった。
その笑顔に引っ張られるようにして、サクラは思わず訊ねてしまう。
「手遅れに……なったときが、あったんですか」
「昔の話だよ」
「……ごめんなさい。無神経なことを聞いてしまいました」
「良い。まあとにかくだ、私の考えを鵜呑みにしろとは言わない。ただこれからもお前が人を助けたいと思うのなら、今言ったことを頭の片隅にでも留めておいてくれ」
そう言って新子は撤収作業に戻って行った。
もしかしたら、胸の内を詳らかにしたことが恥ずかしかったのかもしれない。
サクラはもう一度お礼を言って医務室をあとにし、やはり律儀に駅で待っていてくれたアンジュと合流した。
「もう、待ちくたびれましたわよ。遅かったですわね」
「あはは、ごめんなさい」
そんなやり取りを交わして、合宿の出来事について振り返ったり、他愛のない話に花を咲かせて――そうして、二人はそれぞれの帰路につく。
その間ずっと。
サクラの頭の中では新子の言葉がぐるぐると回っていた。
「つかれたー……」
自宅のベッドに飛び込むと、全身の疲労がどっとのしかかってくる。
慣れない環境での三泊四日は思った以上に心身を削っていたらしい。
「……時には相手の意志を無視してでも、か」
発作で倒れたリッカはあの時『放っておいてくれ』と言った。
しかし結局、彼女の意志を確認する前に、サクラたちは彼女の夢の世界へと潜り、助けることになった。
それは、リッカの意志を無視した行いだ。
「リッカちゃんだって、病気のままは嫌だっただろうけど……」
それでも彼女は拒絶したのだ。
自分が救われることは無いと諦めていたから。
だがサクラたちが戦った結果、リッカは救われた。
身体を蝕む病魔から解放され、心から幸せそうに笑えるようになった。
キューズとしてもこれから目いっぱい活躍できることだろう。
「リッカちゃんは……幸せだったし、カガリちゃんもそう……だったよね……」
難しい。
それでもサクラの胸には助けたいという想いが変わらずある。
その事実だけはこれからも変わらないだろうと確信した。