130.凍てつくアラクネ
気づけばサクラたちは巨大な檻の中に立ち尽くしていた。
周囲を円形型の格子に囲まれた、円柱型の牢獄だ。
「ここがリッカちゃんの夢の中ってさっむっ!!」
「うう……」
二人してかちかちと歯を鳴らす。
周囲を背の高い檻に囲まれた牢獄は、異様な冷気に支配されていた。
見れば石畳の地面や檻のあちこちが凍り付いている。
牢獄の中は格子のあちこちにワイヤーで括りつけられたボロボロのライトで照らされているものの、外は真っ暗で何も見えない。
そもそもこの夢の世界に『外』があるかも定かではないが。
それにしても相当な気温の低さだ。体感だがマイナスに突入しているのではないだろうか。
防寒具が欲しかった、と自分の姿をよく見れば、訓練用のジャージではなくいつもの制服になっていた。
カガリも双星学園の制服らしきセーラー服だが、真夏なのを反映しているのか二人とも夏服で、かなり辛いものがある。
夢の中でも肉体強化は働いているのだろうか。
いや、働いていなければとっくに寒さで動けなくなっているだろうから、何かしらは作用しているのだろう。
だとしてもこのままではまともに動けない。
サクラは纏雷を発動させ、全身に電熱を行き渡らせることで寒さを防ぐことにした。
「カガリちゃんは……」
「だ、大丈夫」
カガリがぐっと身体に力を込めると、その肌に少し朱が差した。
こちらからでも感じるほどの熱が発せられている。
「わ、私の力は炎のクオリアだから……調節すれば寒さは何とかなるよ」
「すごいです!」
「あ、あんまり褒めないで……慣れてないから……」
ともあれ、これで動く分には問題なさそうだ――と考えた瞬間、身体にぴりっとした痛みを感じた。
少しコントロールが不安定になっている。
夢の中だからか、全体的に身体の感覚が違うように感じる。
だがそれは調子が悪いというわけではなく、むしろ逆。
まるで錯羅回廊にいるときのように、クオリアのアクセルが緩くなっているのを感じるのだ。
ここは夢の中。
つまり心の中でもあって――心から生まれた世界である錯羅回廊とは似通う部分があるのかもしれない、とサクラは推測した。
「えっと、ここでリッカちゃんの心の……暗部? を取り除くんですよね」
「……うん」
見渡してみても大して広くは無い。
檻にしてはかなり広いが、直径にして五十メートルもないだろう。
特に何か置かれていたりするわけでもないので、探すのは簡単だろうと考えたのだが、リッカの暗部すらも見当たらない。
まさか檻の外にあるのだろうか……と考えていた時だった。
サクラたちの頭の中にザザザザザ! とノイズが響く。
『…………き……えるか』
「な、なんですか?」
『……聞こえるか、二人とも』
「ネムさん!」
頭の中に響く声はネムのものだった。
トランシーバーで繋いでいるのかと思うほどに酷い音質だが、何とか聞き取ることができる。
『悪い、時間がないからこれだけ伝えておく。何か身体に見覚えのないものがくっついてないか?』
「えっと……」
「これ、かな?」
カガリが挙げた手首……現実ではリミッターが装着されているその場所に、素朴なミサンガが巻かれていた。
サクラの手首にも同じものがある。二人とも、こんなものは付けた覚えがない。
「手首にミサンガが付いてます!」
『なるほど、ミサンガか。いいか、おそらくこれから戦闘が起きる。そこで致命的なダメージを負うこともあるだろう。もし夢の中で死んだら現実に戻ってこられなくなる恐れがある……ここまでは聞いたな?』
「はい」
『危ないと思ったら二人のうちどちらかがそのミサンガを千切れ。そうしたら二人とも現実に強制送還されるはずだ』
だが、その方法で戻ったとしても暗部を取り除けなければ意味がない。
ギリギリまで残しておくべき手段だろう。
『……悪いな。この仕組みばっかりは実際に繋げてみるまでどういうギミックなのか、そもそも強制送還の手段があるのかどうかもわからないから事前に説明できなかったんだ』
「ぜ、ぜんぜん、それは」
「むしろ夢の中でも話せてよかったです」
『だが私はここまでだ。これから夢を繋ぐのに集中しないとお前らが夢から弾かれる。だからこれ以降はそっちの判断に委ねることになる』
ザザザ、と再び音声にノイズが混じり始める。
同時に声が遠くなっていく。
『いいか、最悪でも……生……て帰っ……』
「ネムさん!」
ぷつん、と。
それきりネムの声は途切れる。
しんと静寂が降りた。
これからは二人で戦っていかなければならない。
サクラは気を引き締めたが、肝心の暗部とやらが見つからない。
何か手がかりはないだろうか、と殺風景な檻を見回した――その時だった。
「あ、あれ!」
頭上を指差すカガリに釣られ、思わず見上げる。
牢獄の、その天井。高すぎて霞むほどのその場所にそれはあった。
「心、臓……?」
巨大な赤黒い心臓が太い血管によって天井からぶら下がっている。
しかし、当然と言うべきなのか、鼓動はしていない――と思えば。
どくん、と心臓が大きく脈打った。
途端、ぶちぶちと血管が千切れ、心臓が自由落下を始める。
その異様な光景に反応できず、動揺するサクラたちの前に見上げるほどに巨大な心臓が落ちた。
「……カガリちゃん。暗部ってこれだと思います?」
静かな問いに、カガリはかすかに「わからない」とだけ答えた。
そんな困惑をよそに、心臓はどんどん鼓動を早めていく。
千切れた血管からはそのたびに赤黒い血が噴き出し、鼓動は加速し続け――ぴたり、と。
「いきなり止まった……?」
サクラがおそるおそるおそる近づこうとした瞬間。
首根っこが思い切り引っ張られる。
「は、離れて!」
驚いたのもつかの間、変化は起きた。
パキパキパキ! と乾いた音を立てて心臓が凍り付いていく。
凍り付く心臓みるみる形を変え、氷像へと形成されていく。
その氷像は人型。
長い髪に、祈るように瞳を閉じ、胸の前で手を組む少女の上半身。
精緻な造形で、すぐにそれが誰を模しているのかわかった。
「リッカ……」
呆然と呟かれたその名を、サクラもまた頭に思い浮かべていた。
これを、壊すのか。まるでガラスの彫像のような、美しく儚い氷像を。
そんな動揺をよそに、氷像はさらに恐ろしいスピードで変化する。
氷像の背中から、触手のごとく八本の血管が飛び出した。それらは一気に硬質化すると、脚のように石畳に突き立ち、氷像を持ち上げた。
まるで蜘蛛だ。
氷像が胴体で、心臓から伸びた血管が脚。
美しくもおぞましいその物体は――こちらを見つめると、
『あ あ 』
「り、リッカ!」
声のようなものを発した。
不明瞭ではあるが、間違いなくその声色はリッカのもの。
思わずカガリが走り出すと同時、氷像の脚から冷気が地面を伝う。
「ダメですカガリちゃんっ!」
とっさに肩を掴んで引き寄せる。
するとカガリが今にも踏み込もうとしていた地面から、氷の剣山が突き立った。
もしサクラが止めていなければ今頃串刺しになっていたかもしれない。
「……リッカ?」
震える声で、カガリが問う。
すると、氷像は再び大気を震わせる。
『……誰も来んな。何もしたくない。ここから出たくない。もう、ほっといてくれ』
「リッカちゃん……」
明確な拒絶の意志。
間違いなく、これが新子たちの言っていたリッカの”暗部”だ。
これを取り除けば――つまり、撃破すれば。
リッカを救う条件が整うと新子は言っていた。
カガリはサクラを振り向く。
その瞳は揺れていた。しかし、確かな意思の光が宿っていた。
絶対にリッカを助けたい。その想いが言葉にせずとも伝わって、サクラは頷きを返す。
「助けましょう、絶対に!」
「……うん!」
二人が構えると、美しく歪んだ氷像の蜘蛛がおぞましい叫びをあげた。
まるで悲鳴のようだと、サクラは思った。