129.オペレーション・デイドリーム
病魔に侵されたリッカを救う方法がある。
危険が伴うというその方法に、サクラとカガリはためらうことなく頷いた。
(……その向こう見ずなところは、羨ましくはあるな)
新子は小さくため息をつくと、手元のタブレットに視線を落とした。
「まず氷室リッカの状態について。さっき心配いらないと言ったが、あれは今回の発作に限ったことだ」
今回に限った事。
それはつまり、次からは話が変わってくるということで――嫌な鼓動を抑えつつ、カガリは縋るように訊ねる。
「ど、どういうことですか」
「だんだんと発作が起こりやすくなっている。少なくともバイタルデータを精査した限りではな。本人の言う通り、このままだと本当にキューズを諦めてもらうほかない」
サクラたちは思わず息を吞んだ。
ならば自分たちが思っている以上に喫緊の課題だということになる。
今でさえ大会に出られないことがあるのに、これ以上病状が進行したら先は無い。
「原因はキューズの活動による心身の負担だ。つまりキューズを辞めれば日常生活に問題は無くなるということになるが……」
「ど、どうしてそれを早く……」
「本人の前では話さない方がいい。そういうことだろ?」
今まで沈黙していたネムの問いに、新子は頷く。
「この解決法は氷室の精神面が密接にかかわってくる。だからこれ以上絶望させるわけにはいかなかった」
今の話をリッカに対して――医者の口からはっきりと説明すれば、リッカは本当に諦めてしまうかもしれない。
それでは不都合が生じる可能性があるのだと、新子は言う。
不満げに黙り込んだカガリの代わりにサクラが口を開く。
「それで、先生。その解決法って言うのは?」
「これだ」
新子がデスクから取り出したのは、錠剤が収められた硬質プラスチックのパックだった。
錠剤を想像する際に、もっとも一般的な容器と言えるもの。
「これはリッカの心臓を治す特効薬だ。今朝届いたばかりのな」
「えっ……」
「そ、そんなのがあるなら……!」
思わずと言った調子で立ち上がったカガリを、新子は目で制する。
カガリはすぐに気づいた。使っていないということは、使えない理由があるのだということに。
「飲ませてやりたいのは山々だ。しかし、この薬は摂取する側のメンタルが大きく作用する――少なくとも今の氷室に飲ませても効果は望めない」
今のリッカは絶望しかけている。
だが、
「でも、どうすれば……リッカちゃんの悲しみを取り除くことなんて、それこそ病気が治らないと」
「ど、堂々巡りに……だよ……」
「そこでだ。今からお前たちにはリッカの心の中に侵入し、彼女の心の暗部を取り除いてもらう」
「……えっと?」
突然話が飛んだ気がする。
心の中に侵入……実はサクラにはその経験がある。
だがそれは黄泉川ココの思念のクオリアあってのものだった。
相手の自宅にお邪魔するような感覚で為せることではない。
「まあ聞け。そのためにこいつがいるんだ」
新子は椅子から立ち上がると、ネムの肩を雑に叩く。
ネムは眉をひそめていたが、何となく距離の近さが感じられた。
「こいつって言うな。……まあ、簡単に言うと私の夢のクオリアを使うんだよ」
夢のクオリア。
サクラが聞いた話では寝ながらでも覚醒時以上に活動できるようになる能力だと聞いている。
口ぶりからして、それ以外の力がある……ということなのだろうか。
「実はここに来た日から氷室の症状やその解決法については相談されてたんだ。私の夢のクオリアを使って氷室の夢に誰かの夢を接続し――つまり意識を繋げることで氷室の心の中に侵入させる」
私は繋げるのに集中しないとだから氷室の心の中には入れないんだけどな、とネムは付け加えた。
ネムいわく、夢とは心の世界と同じものらしい。夢に入ることができれば――今回の場合は同じ夢を見ることができれば、対象の心の中へ入ることができるとのこと。
そんな計画を事前に考えてくれていた。
新子は最初からリッカを助けるために動いていたのだ。
サクラは思わず身を乗り出した。
「だったらあたしとカガリちゃんがリッカちゃんの夢に入ります! それでその……暗部? をどうにかして取り除けばいいんですよね!」
「その通りだが、簡単にはいかない」
「き、危険が伴う……ん、でしたよね」
おずおずと口を開くカガリに、新子は重く頷いた。
「ああ。夢の中に侵入したお前らは氷室からすれば異物。それに加えて今は精神が不安定な状態だ。まず間違いなく、氷室からの抵抗を受けるだろう。白血球に殺されるウィルスみたいにな。……最悪、戻ってこられない可能性がある。その上、無事に戻ってこられたとしても、暗部を取り除くのに失敗すればリッカの潜在的警戒心が高まって夢の中には二度と入れなくなる」
「チャンスは一度……ってことですか」
聞くだけでも障害だらけの道だというのがわかる。
錯羅回廊のモンスターのようなものが夢の中にもいるのだろうか。
それとも心の中のリッカ本人がサクラたちを倒そうと向かってくるのかもしれない。
それ以外でも、サクラの予想もつかないようなことが起きる可能性はいくらでもある。
仮に夢の中で殺されるようなことがあれば、二度と目覚められないのかもしれない。
しかも失敗すればこの手段は使えなくなる。
だが。
「それでも行きます」
「わ、私も……!」
躊躇いはない。
目の前に続くのがイバラの道だとしても、助けられるのなら進むだけだ。
「……わかった」
新子のアイコンタクトを受けたネムは頷く。
そのままリッカの眠るベッドの傍らにしゃがむと、その青白い手を取った。
「心の準備が出来たら私の手に触れな」
「はいっ!」
「い、いつでも行けます」
即座にネムの手を掴むサクラとカガリ。
ネムは一度目を見開き、わずかに目を伏せた。
「……悪いな。私はお前らを氷室の夢に送り込むのに集中しないといけないし、新子は眠ったお前らのケアに回る。他のプロは……こういったイレギュラーな事態に関わる場合、いろいろと手続きが必要でな。時間もないし、結局はお前らが行くしかないんだ」
「いえいえ、大丈夫です!」
「は……はい。むしろそれでよかったです。私がリッカを助けたいので……」
「あ、えっと……もしかしてあたしって邪魔だったり?」
カガリがリッカのことをどれだけ大切に思っているかは痛いほど伝わっている。
彼女の言い分も当然のことだろう。
だがカガリはぶんぶんと慌てて首を横に振る。
「う、ううん。そうは言っても一人じゃ心細いし不安だし……天澄さんはリッカのことすごく気にかけてくれてるから安心できる、よ」
「カガリちゃん……じゃあ二人で頑張りましょう!」
頷き合う二人。
新子はそこに差し込むようにして忠告する。
「午後の訓練については私から連絡しておく。とにかく最悪でも無事に帰ってくることだけ考えてくれ」
「わかりました」
「は、はい」
「おし、それじゃあ行くぞ。肩の力を抜いて、できるだけ頭を空っぽにしろ」
それを聞いたサクラとカガリは深呼吸をして、精神を落ち着ける。
クオリアは心の力。その力を扱うサクラたちキューズは、大なり小なりメンタルコントロールに長けている。
窮地にどこか浮足立っていた心が少しずつ凪いで行く。
それに伴って、視界がだんだんと曖昧になり始めた。
いや、揺らいでいるのは意識だ。
サクラたちの意識が、眠るリッカに溶け合おうとしているのだ。
そうして間もなくサクラたちの意識は失われ――ぐらり、と倒れそうになったところを新子が二人まとめて受け止めた。
ネムは額のアイマスクを目元に下ろし、ため息交じりに問いを投げかける。
「……新子さあ」
「なんだ」
「医者やってて限界感じるときって無い?」
「あるさ。今とかな」
新子は、空いたベッドにサクラとカガリを寝かせる。
その表情は薄く、外側からその心中を察することは難しい。
「医者をやってると、患者に対して『経過観察』だとか『様子を見る』くらいしか言えない時がある。もちろんそれも必要な事なんだが……患者からすればたまったものじゃないし、私からしても待つしかないというのは歯がゆくて仕方がない」
「損な性格してるねぇ」
「お前もな。関係のないガキどものためにここまで付き合うなんて、プロのやることか?」
「知ーらない」
ネムは残りのベッドに身体を投げ出す。
これからネムも睡眠に入ることで、リッカとサクラたちの接続を安定化させる必要があるのだ。
別人の意識を繋げるというのは簡単なことではない。
だがネムはまるで当たり前のようにこの”処置”に協力する。
「私は目の前で誰かが悲しんでたりするのが嫌で仕方ないだけだよ」
もうそういうのはたくさんなんだ。
それだけ呟いて、ネムは寝息を立て始めた。
「後は待つだけ、か」
新子は懐から電子たばこを取り出し、慣れた仕草で咥えるとゆっくりと吸い込む。
甘ったるい霧のようなものが口から肺を満たし、思わず顔をしかめた。
「……本当は、医者なんていらない世界の方が良いんだがな」
静かにそう零すと、祈るように手を握りしめた。