らしく無いを言い訳に
ハレとケ。
柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。
1
「今日はハレの日だから。しっかりした格好しないと。」
高校の入学式の日、母親は似合わない厚化粧をして張り切っていた。
ハレの日だっていうのに厚い雲が立ち込めている空模様の4月6日、僕は高校生になった。
ハレの日とやらが僕は嫌いだ。
僕の人生にハレの日なんて一度もない。誰にも関わらずに自分だけの日常を送る事が、僕の望みだった。
相変わらず「ケ」の日々が続いて気づけば僕は高校3年となっていた。
入学当初は柄にもなく張り切って積極的にクラスメイトに話しかけた。サッカー部にも入った。
いわゆる「普通の高校生活」とやらを送ってみたかったのだ。だけれど、小さい頃から一人で過ごしてきた僕には、やはり群れる行為は向いてなかったようだ。
高1で仲良くなった友達とは何回か遊びに行ったりもしたけど、特にまた遊びたいという気持ちにはならなかった。それから段々と話さなくなり、今はいわゆる「ヨッ友」に成り下がった。
サッカー部も、誰とも話さなかったためにだんだん自分の居場所が無くなっていって、最終的には辞めてしまった。
「らしくないことはしない方が良い。」
昔から心に刻んできたことだが、これで一層強く自分の胸に刻まれた。
6月3日。
今日はいつになくスマートフォンのアラームが鳴る前に起きた。
5時57分。
眠い目をこすって薄暗い階段を感覚頼りで降りていく。まだ親も起きていないのでリビングには僕しかいない。
テレビとコーヒーメーカーの電源を点けたあと、ソファーに腰を下ろした。
テレビの中のニュース番組は星座占いのコーナー。最下位は僕の星座。
「ごめんなさい〜最下位は蟹座の皆さん。今日一日散々なことに振り回されるかも〜」
やめてくれ。
こんなものなんの根拠もないことは分かっているのに、少しばかり不安になってしまう。
少なくともこの時はまだ僕は、楽観していた。
日が昇る前のまだ薄暗い朝は、僕を妙な気持ちにさせていた。普段なら家族がいるリビングも今は一人で静かだ。
人間とは「いつもと違う」というだけで、奇き気持ちの高ぶりを覚える生き物だ。
こうした感情の高ぶりは僕という人間の悪いところを露呈させた。
そう、「らしくない事をする」ことだ。
その時の僕は自分が自分でないみたいに、まるで何かに取り憑かれているかのように動いていた。後日思い返せばおかしい事なのに。
いつもと違う日常というものは怖い。
何故なのか、その時僕はペンを握っていた。
気づけば「禁断の書物」は出来上がっていた。
2
6:33分。
母親がリビングに降りてきた。
束の間の非日常が終わり、日常が動き始めた。
トーストを食べながら見ていたテレビでは、お天気アナウンサーが梅雨入りを発表している。
サッカー部時代には喜んでいた雨という天気も、今となってはめんどくさいだけだ。
教科書、ノート、弁当、財布、スマホ、愛読書、クリアファイル。必要なものをバッグに詰めて登校する準備を完了させる。
「武〜、午後から雨降るから傘持って行きなさいよー」
武とは僕の名前である。
母の声を背に受けて僕は家を出た。「禁断の書物」はクリアファイルに入っていた。
いつも僕は始業の15分前には学校に着くように家を出るが、今日は早く起きたので、いつもより二本早い電車に乗った。僕の通う高校は自宅の最寄駅から電車で20分ほどの駅のそばにある。
高校の最寄り駅名がアナウンスされ、乗降者が一斉にすれ違う。乗降者の7割がサラリーマン。3割が学生といったところだろうか。まだ早い時間だからか、いつもよりうちの学生の数が少なかった。みんなよりも早くに学校へ着くという微かな優越感を抱きつつ学校までの並木道を歩いた。木々の間から顔を出す空は、コンクリートに似た色を帯びていて、いつかの入学式と似ていた。
「ガラララ」
いつもは静かに開ける教室のドアを今日はきもち強めに開けたのはこの妙な高揚感の表れだろうか。教室には女子生徒が1人自習をしているだけだった。自分の席についたものの特にすることもなく、教室内に変な気まずさが出来上がってきたので、僕は図書室に行くことにした。
図書室は僕のような人間にはとても落ち着く場所だ。誰にも干渉されず、自分だけの世界を作り上げることができるし、たくさんの文豪たちに囲まれている様で安心するのだ。
図書室は別館にある為、ある程度の移動が生じる。
廊下の窓から見える校庭では、サッカー部が朝練をしていた。県大会が近いらしい。
僕もサッカー部に所属していたときは、県大会前の朝練に参加していた。県大会前の殺伐とした雰囲気と、自己分析をしてそれを紙に書いて顧問に提出するというめんどくさい決まりが嫌だったのを覚えている。
階段前の通路の奥にはゴミ捨て場がある。
独特の異臭が嫌いで、この階段を登るときはいつもほのかに臭うので不快だ。
しかし今日はもっと不快なものが。
踊り場でイチャイチャしているカップルがいたのだ。朝だからって堂々とイチャイチャしないでほしい。不快だ。
お揃いの真緑の靴下が、僕の胸を無性に掻きむしった。
朝の学校は、今まで見えなかったものが見えるようになると思っていたが、見たくないものが見えるようにもなっていた。
図書室に行くと、図書委員会の生徒がいた。
「よう武。今日は早いな。」
柳拓哉。
去年同じクラスだった僕の唯一の友達と言っても過言ではないだろう。
「今日は早く起きたんだよ。だから早く学校に来た。」
「そうかい。それは良かったな。俺は朝から委員会の仕事だわー。放課後もあるし。」
「だるいなそれは。」
男子高校生の朝の会話の模範のような盛り上がりの無さだ。
「おいそれより拓哉聞いてくれよ。今日の朝な、なんかこう気分が高まって、こんなもの書いちゃったんだよ(笑)」
「なんだお前(笑)どうかしちゃったのか?(笑)
ちょっと、もっと見せろって!」
2人の会話が少し盛り上がりを見せた。
「始業五分前です。生徒の皆さんは速やかに教室に戻り席についてください。」
学校内で評判の良い放送部の原さんの声は今日も透き通っていた。
「えー先日みんなに渡した保護者会の出席確認書、親に書いてもらったと思うので集めたいと思います。後ろから回してください。」
朝のホームルームで担任の教師が提出物の回収を促した。僕もクリアファイルの中から取り出して前に回した。
「えーそれともう一つ。今日から放課後の時間に軽音部が演奏練習を開始します。少しうるさくなるかもしれませんが、まあどこの部活もこの時期は大会が近いのでね、考慮して下さい。では、以上でホームルームを終わります。」
そして1時間目のチャイムと共に、またいつもの誰にも干渉されない退屈な学校生活が始まった。
午前中の間、窓側の席で僕はずっと窓の外を眺めていた。分厚い雲の所々に純白な雲が流れている様をずっと見ていた。所構わず速いスピードで移動をする白い雲は、憧憬の的であった。
人は誰でも白い雲になりたい。
黒くくすんだ社会の中で、光を浴びた人間だけが輝く世の中が、太陽の光を浴びている雲だけ白いという情理の空模様と似ていた。
そんな事を考えながら空を眺め続けた。
午後の授業は連日の寝不足が重なって机に突っ伏した。幸い教師が寛容で起こされる事はなかった。ましてや起こしてくれるクラスメイトなんているはずもなく。
最悪の事態に気づいたのは帰りのホームルーム終了を告げるチャイムと同時だった。
放課後どこに行って遊ぶかを話し合う女子生徒達、サッカーソックスを履きながらせかせかと部活の準備をするサッカー部、おい早くしろよと友人に向かって呼びかける他クラスの人間。
1日の学園生活が終わり各々が開放感を違った形で放つこの瞬間、僕は1人青ざめていた。
朝のホームルームで提出した筈の紙が手元にあったからだ。そして代わりにクリアファイルから無くなっていたのは、何を隠そう今朝の「禁断の書物」なるものであった。
【緊急事態】という4文字が僕の頭を支配した。とにかくあんなもの人に見られてはいけない。
とにかく協力者が欲しかった僕は、すぐに拓哉にこの状況の説明をLINEで送った。
しかしなかなか拓哉は既読しなかった。
どうすれば良いかわからず困惑している僕に気づいたのか、後ろの席の女の子突然が話しかけてきた。
「武くん、どうかした?」
驚きで声が出そうになるのをこらえながら振り返ると、いつか見た純白の雲のような肌とアーモンド色した瞳が飛び込んできた。
3
彼女の名前は飯田あかね。
キメ細かい肌と茶色い瞳にシュッと伸びたまつ毛。日本人らしい小さな鼻と小さな唇。華奢な体つきとダークブラウンの艶やかな髪を纏う彼女は他の女子生徒とは明らかに一線を画した特別な存在感を放っていた。
「探し物?探すの手伝おうか?」
この時、探し物が探し物だけに正しい判断は確実に「断る事」だった。しかし断らなければいけないという気持ちと同時に、一緒に探したいという気持ちも芽生えていた。
18の男子は実に単純で、背徳感を尻目に後者を選んだのは言うまでもない。
「何を探してるの?」
「.....いや、あのーなんか、プ、プリント!」
人との関わりを徹底的に避けてきた僕には、女子と喋るという事は数Ⅲより難しい。目を見ることさえできなかった。
「どこにあるかわかってるの?」
「う、うん。多分朝に間違って先生に提出しちゃったと思うんだけど、あの、だから職員室にあるのかもしれないかも。だから飯田さんはもう探してもらわなくて大丈夫かなぁ。僕1人で探せると思うし。ははは笑。」
とにかくこの状況が耐えられなかった。
なんとも情けないが僕はこの状況から逃げ出したかった。
「そんなの放っておけないよ。私も一緒に探すからさ。職員室行こ!」
彼女は僕の万死一生の決断なんて顧みないで、僕の手を引っ張り、職員室へ向かっていった。
訳のわからない状況で、僕はドキドキなんてしていなくて、ただ恐怖感を抱いていた。
とにかく成り行きに任せるしかなかった。
「先生、今朝提出した保護者会の出席確認書って持ってますか?」
飯田さんを職員室の外で待たせて僕は先生に聞いた。
「今日は訪問者が多いな(笑)それならサッカー部の顧問の川田先生に全部渡したぞ。保護者会の参加有無は基本は電話で聞くからな。あれは形式上の確認書だからぶっちゃけいらないんだ。なんかサッカー部で県大会前の自己分析を紙に書かせたいから裏紙が必要らしいんだとよ。なんか必要だったのか?」
「い、いや。大丈夫です。ありがとうございます。」
どうやらめんどくさいことになってきた。
なんとしてもあの紙を回収しなければ。
職員室を飛び出してグラウンドへ向かおうとすると、待って!と飯田さんの声がして足を止めた。
「見つかったの?」
飯田さんは尋ねてきた。
「飯田さん。サッカー部の顧問がその紙持ってるんだって。僕サッカー部だったし、もう1人でも大丈夫だから、ほんとありがとうね。」
「大丈夫じゃないよ。私も最後まで一緒に探すから。それに飯田さんじゃなくてあかねでいいよ。」
そういうと彼女はニコッと笑った。
笑うと彼女は目が三日月のような形でクシャッとなり、素敵だった。
とっさに目線を外して僕は
「そ、そんな下の名前でいきなり言える訳ないでしょ。無茶言わないでよ。」
と頬を赤らめて言った。
「いきなりも何もないでしょ?席前後なんだからさ!私は下の名前で呼んでるじゃん!これから飯田さんって言ったらしっぺだよ?」
彼女が何故こんなに協力的なのかはわからない。ただ、明朗な彼女を見ているといかに自分がちっちゃくてつまらない人間なのかということを、否が応でも自覚させられる。
僕も今まで何度も性格を変えようとしてきた。
喋り方を変えてみたり髪型を変えてみたり。
けれどそうしたときは自分が自分じゃないみたいで、まるで20キロの重りを纏っているようで、気持ち悪かった。
すぐにいつもの自分に戻りたかった。
だから僕はいつも変わらずこのままがいいと思っていた。
「らしくない事はしない」ためだ。
階段を降りている途中の踊り場で、今朝の緑の靴下のカップルがキスをしていた。
その光景を見て僕らは(僕だけかもしれない)少し意識してしまうので嫌だった。
彼女の表情は見えなかったが、凛とした後ろ姿を見る限り、特別何も思っていないんだろうという事は容易に理解できた。
なにせ生きている世界が違う。
昇降口で靴に履き替えてグラウンドへ向かう。
6月にふさわしい曇天の空が、校門の側の紫陽花たちを旬のものたらしめていた。
紫陽花の紫と中庭の黄緑の芝とのコントラストが、皮肉的に僕たちの不釣り合いな温度差を際立たせている様で嫌だった。
2人の沈黙をからかうかのように風が吹く。
「い、飯田さん!」
無言が続いていたのがすごく辛くて、でもだからといって何か自分から話すこともできなかった。
ただ、なぜか彼女と話したいという気持ちが収まらなかったのだ。
喋る内容のあてもないまま、感情だけが先走り声をかけてしまった。
「痛っ!」
左腕に痺れが走った。
「飯田さん呼びやめてって言ったでしょ!」
怒り口調とは裏腹に、彼女の顔は綻んでいた。
「あかね呼びはやっぱ厳しいなあ」
「じゃああかねんでもいいよ。」
「もっと厳しいよ。」
吹き出した彼女を見て僕も笑った。
その瞬間、2人の空間は穏やかだった。
グラウンドに着くとそこではサッカー部がシュート練習をしていた。
さっきは元サッカー部だから1人でも大丈夫とか言ったけれど、本当はとても行きづらい。部活動を途中で辞めた人間がよく思われているはずもないからだ。
「もう1人でも大丈夫だけど...」
「幸福の便りというものは、待っている時には決して来ないものだ。」
彼女の突拍子もない発言に僕は驚いた。
「太宰の名言だよ!武くん好きだもんね、太宰治!」
胸の鼓動の高まる音がした。
「.......な、懐かしいね。」
「ふふっ。じゃあ私ここで待ってるよ。」
彼女の発言には驚いたが、一旦了解をして僕はコート横で練習を見ている川田先生のもとへ向かった。
川田先生は前と変わっていなかった。
中肉中背の背格好とこんがり焼けた素肌。
トレードマークの青い帽子から飛び出たカールのかかった墨色の髪が当時を思い出させた。
「先生、ご無沙汰してます。元サッカー部の武です。あの、3ー6組担任の藤岡先生から受け取ったプリントって今持ってますか?」
川田先生は僕の顔をまじまじと見てから言う。
「おお、久しぶりだな武。またそのことか、プリントならさっき2人の生徒に渡したよ。部員に先月からサッカーノート買わせたの忘れててな。プリントなんていらなかったんだ。そんなことより武、お前ちょっと練習見てけよ。」
また移動していた。表情に出そうなくらいの落胆を堪えながら僕は質問した。
「い、いやちょっと予定あるんで遠慮させていただきます笑。あのお、2人の生徒ってどんな特徴でした?」
「そうか残念だなあ。ああ、その生徒らカップルだったぞ。」
目星はすぐについた。
くそ、あのリア充め。どこにいやがる。
行き場のない怒りが込み上げてきたがそれを我慢して、
「ありがとうございました。」
と短いお礼をしてその場を離れた。
なぜこんなにも振り回されなければいけないのか。
僕は1人でいることが好きなのに。
あまり人とは話したくないし、放課後はすぐ家に帰りたい。
紙切れ一枚のためにこんなに面倒なことに巻き込まれたということに無性に腹が立ってきたが、事実それほどの紙切れであるし、それをなくした自分自身が一番悪いということも自覚しているために、怒りは行き場を失っていた。
「大丈夫?まだ見つからない?」
彼女の声に振り返る僕の顔はわずかばかりむくれた表情だった。
しかしそんな顔の僕を見ても、彼女は一切の邪気も感じられない無垢な態度で心配そうな表情を浮かべていた。
そんな彼女を見るとたちまち僕の鬱屈や怒りは解けていくのだ。
実はこうした出来事は初めてではなかった。
教室で僕の後ろの席に座る彼女は、僕がプリントを後ろに回すたびに小さな声で「ありがとう」と言ってくれるのだ。
その瞬間僕はきまって目線を下に外す。
彼女の表情は見えないが、優しい表情である事は優に想像できた。
そうした温かさが彼女の良いところであると思うし、実際学校生活でのそうしたちょっとした出来事が何度も僕を良い気分にさせてくれた。
そんな事を思い返していたときにはもう僕は彼女に離れて欲しいなんて微塵も思っていなかった。
「カップル生徒に渡したって。探しに行こう。」
口に出したセリフは余計な心配や鬱屈が除かれた透き通る様な純真さを纏った言葉であった。
自分の感情のままに意図せずに口から放たれた言葉だったが、ようやく彼女の素直さに相当な向き合い方をすることが出来た気がした。
「わかった。行こ!」
彼女の純粋無垢な返答に何の気兼ねも感じずにいられることがただ嬉しかった。
外まで聴こえてくる軽音部の演奏する音楽をバックミュージックにして僕らは歩き出す。
僕はあの紙に振り回されることに快感を覚え始めていた。
「カップルの生徒ってさっき私達が階段の踊り場で見た人たちの事だよね?きっと。」
「そうだと思う。きっとまだ階段にいるはず。」
艶やかな紫陽花を背に昇降口で中履きに履き替えていた僕は、少しの寂しさを覚えた。
このままカップル生徒から紙を返して貰ったら無事一件落着ではあるが、同時に彼女との時間も終わってしまう。
終わらせたくなかった。
今頃になって彼女と同じ時間を共有できる尊さを知ってしまった。
ひとときの夢でも、こんな何の取り柄もない僕のために時間を割いて共に行動してくれた事に、有り余るほどの感謝を伝えようと決意した。
そんな気持ちを抱きながら階段にたどり着くと案の定、緑色の靴下が見えた。
「あの、サッカー部の川田先生から書類預かってないか?」
僕の質問に彼氏の方が答える。
「受け取ったけど持ってても困るからさっきゴミ捨て場に持ってったよ。今日二度目だよこの質問(笑)」
二度目というのは良くわからなかったが、あらかた予想はついてた返答だったため、僕の表情や態度に顕著な変化は表れなかった。
それよりも少しだけ「やった!」という嬉しさが心中で湧き上がってきてしまった。
人と関わる事を嫌う僕がまだ人と関わることができて嬉しいという感情を持つなんてあり得なかっただろう。
この短期間で確実に、僕という人間は変化を遂げていた。
「そっか。ありがとう。」
言葉程々にその場を離れようとした僕らにカップルの彼女が声をかけてきた。
「あなたたちも放課後デート?良いよね〜朝とか放課後って人少ないし。なんかダブルデートみたいな気持ち(笑)」
そうか。他人から見たら僕たちはカップルに見えて当然だ。
とても恥ずかしかったが、満更でもない気持ちだった。
「私達はカップルじゃないよ。私が武くんの落とし物の捜索を手伝っているの。」
彼女の何気無く放った事実に僕の胸はギュと締め付けられた。
彼女は何も間違った事は言っていない。
それはれっきとした事実であるのに何故にこんな悲壮感を感じるのだろうか。
僕はいくらばかりか思い上がっていたのだ。少し彼女に良くしてもらっただけで。少し彼女と楽しく喋ることが出来ただけで。彼女にとってはただの善意なのに、僕の思い違いで何故か彼女と付き合えた気でいたのだ。
僕の馬鹿みたいな妄想に釘を打たれた気持ちだった。僕の様な暗い世界で生きてきた人間がこんな明るい女の子に釣り合うわけがないのに。
僕は恥ずかしかった。
けれどそんな僕の悩みや葛藤を抱く心の中に彼女は土足で踏み入れてきてくれる。
「じゃあ捨てられちゃう前に早くとりに行こ!」
彼女の無垢な振る舞いの前では、僕の悩みは一瞬にして杞憂と化す。
今の僕の感情は彼女の一言一言でいとも簡単に変化してしまう。
それほど彼女に夢中だった。
「.....よし、行こうか!」
ごちゃごちゃ考えるのを僕はやめた。
階段を降りるとすぐに異臭が漂ってきた。いつ通ってもこの匂いは嫌いだ。
「臭い.....。」
彼女が呟く。
「ここは僕だけで良いからちょっと待ってて。」
「うん、わかった!」
奥へ進むと、大量のゴミ袋が無秩序に置かれていた。
この雑多のゴミ袋の中から紙切れを探すとなると果てしない作業になってしまう。
ただ幸いにもゴミ収集のおじさんがいたので、僕は迷わず話しかけた。こうしてすぐに知らない人に話しかけることができる様になったのも彼女のおかげであった。
「ああ、さっき確かにカップルらしき生徒からプリント類を渡されたよ。ただ、今さっき図書委員会の子が持ってちゃったよ。それ下さい!とか言ってね(笑)」
「図書委員...」
嫌な予感がした。
「まさかな。
すいません、ありがとうございます!」
足早にその場を離れて彼女のもとへ行くと、そこに彼女の姿は見当たらなかった。
胸中のざわつきを必死に堪えながら僕は図書室に向かう。
今朝、拓哉が放課後も委員会があると言っていた事を思い出す。
滴る冷や汗を僕は拭った。
今朝の天気予報通り、外は暗雲が立ち込め始めていた。
4
図書室の扉を開けると、デスクパソコンに向かって事務作業をしている拓哉の後ろ姿があった。
「拓哉!お前ゴミ捨て場からプリント類を取ってったよな?どこにあるんだ!」
拓哉は僕を背にしたまま
「棚の上。」
と言った。
棚の上には確かに今朝の、担任が回収したプリント類が置かれていた。
ただ、そこには僕の「禁断の書」はなかった。
「拓哉、やっぱお前か。」
今までたくさんの人に紙切れの行方を尋ねていく中で、毎回少し引っかかるところがあった。
みんながみんな、僕の訪問が二度目の様な口ぶり、まるでその前に訪問者がいた様な態度であったからだ。
ただ、その謎が今ようやく解けた。
拓哉が僕より一歩先に、その紙切れを捜索していたのだ。
返してくれ、という言葉は、拓哉の発言にかき消された。
「飯田あかねに渡したよ。」
彼の言葉に僕は色を失った。
「嘘だろ....」
数秒だったかもしれないが、僕には何時間にも感じられた静寂が訪れた。
散々振り回されてようやくたどり着いたゴールは、最悪なものであった。
外はとうとう夕立が降り出して、運動部が騒いでいる声が不分明に聞こえてきた。
「勘弁してくれ、拓哉。
あの紙に何が書かれてるかわかってるだろ。」
「ああ、わかってる。分かった上で渡した。」
図書室は学校内で唯一静寂を肯定してくれる場所だ。
この空間では自分の息づかいや心拍だけでなく、思考までもを悟られている様で、けれどそれが何故か嫌じゃなくて、とても好きな場所だった。
けど今は、まるで幾多の文豪たちが自分を睨んでいる気がして居たたまれなかった。
「武。俺はお前を親友だと思っている。この高校で俺が一番お前のことを知っているはずだ。」
僕の憮然とした様を見て拓哉は続けた。
「自分が一番自分のことを分かってるとか思ってるかもしれないけどな、それは違うぞ。他人からしか見えない自分の姿だってあるんだ。人と関わることから逃げてきたお前はその事を理解してないんだ。」
言い返す言葉など思いつかなかった。
「俺がお前を客観的に見て思うのは、お前は臆病すぎるということだよ。傷つくことを恐れるな!人間っていうのは結局人と関わり合って、傷が付くことを避けて通れない生き物なんだよ!」
拓哉がこんな熱く物言いをするところを見たのは初めてだった。
一番近くにいて、一番優しく接してくれた友達だったからこそ、一言一言が胸に刺さった。
普段通りならば「お前はそんな偉そうに言える立場かよ(笑)」と言っていただろうが、今はただ拓哉の言葉と態度を真摯に受け止めたかった。
「武、傷付いたって良いんだ。飯田あかねと一緒の時間を過ごしていてどう思ったんだ?あの紙切れが答えだろう。今だけは逃げるな、この瞬間を逃すんじゃない。「らしくないこと」してみろよ!」
「禁断の書物」とは飯田あかねに向けて書いたラブレターであった。
5
高校3年のクラス替えで飯田あかねは僕の後ろの席になった。
彼女は決してクラスの中心人物というわけではなかったが、誰にでも優しくて彼女の悪口を言う人を見たことがなかった。
そんな彼女のしとやかさと奥ゆかしさに僕も魅力を感じていた。
毎回の休み時間に彼女の周りに友達が数人集まり、僕はその前の席で1人読書をしていた。
その際、彼女の会話を盗み聞きするくらいに僕は彼女が気になっていた。
彼女の会話から滲み出る知性と上品さは、僕の様な読書家にとって理想的な大和撫子な女性であった。
一度だけ彼女に突然話しかけられたことがある。
「太宰治!好きなの?」
あまりに突然だったので僕は咄嗟に読んでいた本を閉じた。なんて言えば良いかわからず僕は静かにうなずいた。それしか出来なかった。
「いつも本読んでるよね〜」
それで会話は終わった。
確実に素っ気ない奴だと思われたのにも関わらず、僕はこの日1日嬉しくて、拓哉に自慢したことも覚えている。
だから今朝彼女にまた話しかけられた事はとても驚いたし、そのまま一緒に行動した事はやはり僕史上未曾有の快挙、いや事件なのだ。
まして何を思ったのか、今朝変なテンションで彼女への想いを綴った日に。
全てが運命だったのかもしれない。
らしく無い事をする日。すべき日。
今日が僕の人生の大きなターニングポイントになる事は明白である。
拓哉の後押しも無下にしたくない。
僕は彼女に想いを伝える事を決めた。
必死に隠していた紙がラブレターでそれがバレるという、なんともダサくて情けない形で幻滅される事は目に見えているが。
「らしくない」を言い訳に逃げるのはもうやめたかった。
拓哉によれば彼女は教室にいるらしい。
なんて言われるのか怖かった。
ちゃんとした形で渡せば上手くいったのかななんて妄想も抱いたりした。
けれど、僕は等身大の自分のまま彼女に会うと決めた。
6
「監督!雨上がってますよ!」
「本当だな。よし!練習再開するぞ!
県大会近いから全員気合入れてけ!」
夕方。閑散とした教室は、ノスタルジックな雰囲気と空虚さが共存しており、西日に照らされた彼女は神聖なものの様にみえた。
「武くんの探し物ってこれだったんだね。」
陽に照らされた彼女の表情は見えなかったが、口調は優しかった。
不安と緊張と羞恥心が同時に襲ってくる。
頭が真っ白になった。
何も言えず僕は下を向き続けた。
傷つく覚悟は出来ていた。
「ふふっ」
(笑い声?)
想像していなかった反応に驚き、僕は顔を上げた。
そこには日差しで見え隠れを繰り返す、まるで赤子の様な屈託の無い笑顔が確かに存在していた。
「ああ...」
僕に安堵と笑顔と自尊心が同時に訪れる。
「嬉しいな。私、ずっと後ろの席から武くんのことばっか見てたんだよ?」
彼女の微笑みは、今の僕にはあまりに眩しくて、涙腺を緩ませた。
それでも僕は落涙を堪えて、数十の感情を一つの言葉に含めて届けた。
「あかね。ありがとう。」
「やっと名前で呼んでくれた(笑)」
「だってもう彼氏だからね(笑)」
「お揃いの緑色の靴下買う?」
「校内に2組もそんなカップルいたらやだな(笑)」
夕陽に照らされた僕らは一緒になって笑い続けた。今までのことなんて、もうどうでも良くなっていた。
「最終下校時間です。まだ校内に残っている生徒は速やかに下校をしてください。」
まるで僕らの会話を聞いてたかの様なタイミングで、放送部の原さんの透き通る声がアナウンスをした。
「見て!虹!」
彼女が指差す先には、雨が上がったあかね色の空に架かる大きな虹があった。
それはまるで僕らをそっと包み込む様に。
「帰ろっか」
2人は手を繋ぎ歩き出していく。
真っ白だった僕の頭の中も、あかね色に染められていった。
「今日はハレの日だね。」