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オール・アロング・ザ・ウォッチ・タワー  作者: スーパーソニックマン
チャプター2
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チャプター2‐2

チャプター2‐2


【夕方:寺近くの小道】


 時は少し過ぎ、部活動が終わったころ、夕暮れの中、京子は一人道を走っていた。普段から運動に慣れ親しんでいない彼女は、ほとんど速度は出ていないにも関わらず、既に大量の汗をかいていた。息を切らせ、吊りそうになる足を引きずるようにして走りながら、彼女は振り返る。

こつ、こつ、こつ…………と靴音を鳴らして彼女を追いかける男があった。速度は一定で、歩くのとほとんど

変わりはない。そのおかげで京子は今まで逃れ得ていたと言える。しかし停止することは決してなかった。全身から硫黄の匂いを発しながら、それは彼女を追いかけていた。

 それの見た目こそは完全な人間だったが、しかし『影』はそうではなかった。

 夕陽を背景に、地面に黒々と長く伸びる男の影は、矢じりの如き先端を持つ尻尾と、斜め後ろに伸びる、七福神の寿老人のような肥大化した長頭を持っていた。(その正体は、そんなありがたいものではなかったようだ)

 彼女は追いかけられながら、どうにか人通りの少ない路地から街の中心部へと抜け出した。車や人が行き交い、ここなら少しは心が落ち着けそうだった。改めて振り向くと、彼女を追跡する奇妙な物の姿はなかった。京子は膝に手をついて、息を吐く。


「はぁ、はぁ、はぁ…………」


 しかし、彼女が安心していられるのはほんの短い時間だけだった。京子は、目の前を行き交う人々の折り重なる影の中の、こちらを向いて歩いてくるものの中に、あの特徴的な長い頭部と揺れる尻尾を認めた。


「はっ!」


 正面から彼女を目指して歩いてくる人間は何人もいた。しかし京子は、影の主がそのうちの誰であるかまでは、確認し損ねていたのだ。今まで自分を追ってきた男は人込みの中にはいなかった。であれば、特異な影の持ち主は複数いることになる。

 恐怖に飲まれそうになりながら、京子は再び反対方向に逃走を開始した。安全だと思った人込みも、自分を突け狙うものがまぎれており、更にそれが誰なのかを確かめるのが極めて難しくなるという意味では、彼女は今まさに窮地に立たされていた。

 人々の足元を確認しながら、京子は当てもなく足を動かし続けた。途中で植え込みから伸びた枝で足を切り、そこから血がにじみ出た。

 葉桜に囲まれた、光の差さない陰気な児童公園に入り、公衆便所の個室に駆け込む。叩きつけるようにドアを閉め、震える手でスライド式のさび付いた鍵をかけた。

 便座に座り、両手で口を覆って必死に呼吸を抑える京子には、まったく事態が飲み込めなかった。何故、自分はこんな目に合っているのだろうか。その問いに答える者は誰もいなかった。

 つい三十分ほど前に彼らは突然出現した。帰り道を歩く京子の後ろから、ずっとあの

こつ、こつ、こつ、こつ…………という足音が鳴りやまないことを不審に思った彼女が振り返り、その異形の影を認めた時から、この怪奇現象は始まっていた。

 ぴたりと自分の前で立ち止まった男が手を伸ばすと、そこから何とも言えない、卵が腐ったような不快なにおいがした。本能的に危険を感じ取った京子が駆け出したのが、三十分前の事だったのだ。

 あの者たちの正体は一体何なのだろうか。少し走れば交番があったが、そこで警官たちに何をどう説明すればいいか、見当もつかなかった。もしも交番の中にあの影の男が入ってきたら? …………あるいはもしも、応対した交番の巡査の影が、あの男のものと同じ特徴を備えていたら?

 全てが、京子の理解の範疇を超えていた。

 再びあの足音が聞こえて来た。

 こつ、こつ、こつ…………

 京子の僅かな望みに反し、足音はトイレの中に入って来た。端の個室から、順番に中を改める音がする。

 長らく手入れの施されていないちょうつがいが軋み、扉の一つ一つが自信を身の潔白を証言してゆく。匿っている者はいない、ここには誰もいない。おたくが探している女の子というのは、恐らくは左から三番目の…………。

 ついにその順番は京子の隠れる個室にまで達した。外から扉を押す力が加わるが、閂のせいでそれが開くことはない。

 ここで今日子は、あえて内部から扉をノックした。これは、自身が追われる身ではなく、たまたま個室内で用を足していた無関係の人間と偽るためだった。

扉の向こうからの返答はなかった。彼女は身をすくませて反応を待つ。足音は隣の個室の前へと移って行った。

 京子は、ため息が、風船の口から空気が漏れ出るかのように吐き出てしまうことをこらえるのに、非常に苦労した。彼女はもう少しだけ個室内にとどまることに決めた。まだ不審者がトイレの入り口で、彼女がおびえた様子でそろそろと出て来るのを、虎視眈々と狙っているかもしれないからだ。通話音が聞こえる可能性がある以上、110番通報の電話は不可能だった。


「千鳥ちゃん…………」


 京子は自分の知る中で一番芯の強い、最も頼りになる友人の名前を呟いた。携帯を開いてラインを起動する。


『たすけて。変な人たちから追いかけられてる。警察に電話して。いま発電所近くの公園の』


 続く文を打とうと思ったとき、京子はあることに気が付いた。足音は、隣の個室にこそ移ったものの、しかしトイレから出て行った気配は見せていなかったのだ。足音が去っていくのを、京子は決して耳にしていなかった。全てのドアを改め終わったのか、もうドアを押す音は聞こえてこない。

 ふと京子の心の中に、あの男が無言で自分のこもるドアの前に突っ立っている情景が浮かんで、彼女はにわかに沸き上がったヒステリーのような恐怖心をどうにか抑え込んだ。

 衣擦れの音を立てないよう細心の注意を払いながら、京子はかがみこんで、冷たい湿ったタイルに耳をつけ、ドアと床の隙間から外を覗いた。

 ドアの前に立つ足は見えなかった。抜かりなく両隣と、さらにその向こう側の個室の前に視線を投げかける。しかし結局、あの

 こつ、こつ、こつ…………

という音を響かせる靴は見当たらなかった。

 ひょっとしたら、不審者が出てゆくのを自分が聞き逃してしまっただけなのかもしれない。そう思うと、彼女は少しだけ気が楽になった。

 個室から出ようとカギに手をかけた時、気配を感じて見上げると、京子は全身の血が凍り付いたかのような感覚に陥った。

 靴は見えなかった。なぜなら、今までずっと京子を付け回していた者は、トイレのドアの上部のふちに手をかけ、そこにぶら下がって、天井とドアの隙間から彼女のことを覗き込んでいたからだ。





【夕方:千鳥の自室】


 硫黄の匂いの正体がわからず、部屋のいろいろなところを千鳥が捜索しているとき、ドアベルが鳴った。しかし荷物の配送にしては、トラックのエンジン音は聞こえなかった。来客の予定もなかったので、宗教勧誘か訪問販売かと思い、彼女は眉をひそめながら階下に行った。もしも扉を開けてそこにいたのが、数珠をいくつも首や手首からぶら下げ、白い髪を伸ばした風体の男や、あるいは張り付いたような笑顔を浮かべた、やたらと大きなカバンを携えたスーツ姿の人物だったらどうしようか。親の不在を知られると、しょせん高校生と強硬な態度に出られるかもしれない。両親は手が離せないと言おうか。

 母も父も、地下の書斎で執筆作業にいそしんでいます。邪魔をされると、烈火のごとく怒りますよ。


『外からあなたのお宅を伺わせてもらったところ、火難の相がでておりますな。このままでは、ご自宅は近いうちに火災に見舞われましょう。しかし、心配はご無用。拙者が通りかかったのが幸運というもの。災いを避け、金運を呼び込む霊験あらたかな飛影山円略寺のお札を良心的な価格でお譲りいたしましょう』


 もしくは、『お子さんの学習状況にご不安はございませんか? 今なら高校、大学を通じて使える電子辞書を、通常の三分の一のお値段でお買い求めいただけます。単語、熟語問題も備えてたったの…………なに、クーリングオフ? チッ、よく知ってやがる』


 インターホンのカメラを起動して玄関前を確認するが、誰の姿もなかった。小学生のいたずらかもしれないとも考えたが、それにしてはあの浮ついた甲高い歓声も聞こえない。

「…………?」

 彼女の視界の端に移る庭先を、黒い影がよぎった。

 千鳥は窓の前に立って庭を見渡すが、夕方の明かりに照らされた芝生は沈黙を貫いたままだった。首をかしげる千鳥だったが、彼女の耳は、長く暗い廊下を経て伝わってきた、キッチンの隣にある勝手口が開閉する音をとらえた。千鳥の顔が険しくなる。

 そっと音のした方向を伺った。長く伸びる明かりの灯らない廊下の突き当りにあるキッチンの扉は微塵も動かなかった。

 彼女は足を忍ばせて扉に近づく。ドアノブに手をかけて、わずかに開いた隙間から中を確かめると、流れ出た水がばちゃばちゃと何かに跳ね返る音が聞こえた。音はどうやらシンクの蛇口からしているようだった。そこでは男が屈みこんで、がぶがぶと水道水を飲んでいた。水を求める勢いがあまりにも激しいので、彼の足元のキッチンマットにはいくつもシミが出来ていた。頭髪はなく、生気のない肌に青い静脈が浮き出ていた。


(誰これ…………やばい人?)


 幸い男はこちらに気が付いていないようだった。


(家の外に…………だめだ、さっきのチャイムも、こいつの仲間が、家に人がいないのを確かめるためにやっ

たのかも。正面玄関から勝手口までぐるっとまわっても三十秒以上かかる。さっきのを聞く限り、十秒もしないうちに勝手口が開く音がしたから、こいつは単独犯じゃない。ここは自分の部屋に戻って、通報を…………)


 千鳥が後ずさった時、彼女が部屋を出るときに手に持っていた携帯が通知音を発した。


『あのさ』

『今回のテストの復習方法についてなんだけど』


 通知は芦田からのものだった。

 物音を聞きつけ、男が振り返る。その口の中からは、グロテスクな蛇の頭に似た第二の生き物が、目のない頭をのぞかせていた。

 悲鳴を上げ、千鳥は床を蹴って逃げ出す。階段を駆け上ると、背後からあの男が迫ってくる足音が聞こえた。部屋に駆け込み、叩きつけるようにして扉を閉め、施錠した。

ベッドの上で110番の番号を押す。階段を上がる音は止まず、侵入者は一歩一歩、着実に彼女の部屋に近づいていた。


『はい、110番です。事件ですか、事故ですか』


 電話口から、機械的な調子の声が応える。


「あの、今家に変な人が入って来て…………」


 そこまで言いかけた時、ぞく、と彼女の背筋に冷たいものが走った。こわごわと千鳥が頭を巡らせらせると、カーテンが風をはらんで揺れていた。先ほど嗅いだ硫黄の臭いが、いまや頭が痛くなるほどに部屋中に充満しているのをここに至って彼女は気が付いたのだ。


(…………どうして、侵入してきた奴が、二人組だなんて決めてかかってたんだろう)


 千鳥が部屋を出るとき、窓は閉まったままだった。そして、二階の自室のドアが開閉した物音を、自分

は聞いていない。

 これは未だ自室の中に、窓からの侵入者が潜んでいることを示していた。

 彼女はパニックを起こしそうになる心を必死に押さえつけ、窓に向かって突進した。窓の下の地面はやわらかい芝生なので、多少の負傷と引き換えにしても、脱出すべきだと考えたのだ。

 しかし、彼女の目論見は叶わなかった。ベッドの下から飛び出してきた黒い影が、彼女の足首を間髪入れずに掴んだからだ。

























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