チャプター2‐1
チャプター2‐1
【夕方:教室】
金曜の六時間目が終わって、クラブ活動が始まるまでの放課後の合間を利用して、一学期の中間試験の答案が返却されていた。喜ぶ声もあれば、嘆く声もあった。しかし、上羽千鳥のように多少勉強が出来る人間ほど、こういう時はかえって落ち着いているものだ。少なくとも、表面上は。
数学Ⅱ…………81点
数学B…………82点
現代文A…………80点
コミュニケーション英語…………79点
英語表現…………77点
物理基礎…………80点
生物基礎…………82点
化学…………80点
千鳥は安堵のため息をついた。得意としているのも手伝って、今回勉強に時間をかけた数学、化学、物理の点数が悪いものではなかったからだ。
(ま、テスト一週間前から始めたにしてはまあまあの出来じゃん?)
ある程度までは手を抜いても、自分のプライドが傷つかない程度の点数を取る勉強時間の最低必要量を、千鳥は自分でよく分かっていた。
英語や国語などの教科は千鳥の苦手とするところだったが、しかし、勉強を避け気味だった割には、そこらで騒いでいる男子たちよりはよっぽど点数が良いのではないだろうか。
しかし、なまじ要領がいいばかりに生まれる、こういった、自分の不努力を逆手にとるようなものの考え方を千鳥は自覚していた。そして多かれ少なかれ疎ましく思っていた。
何故なら、やはり不努力は不努力であまり品のいいものではないと彼女に知らしめるものは彼女のすぐ近くにあったからだ。
千鳥は隣の座席に座る、親友の志賀京子の持つ答案を答案を覗き込んだ。
数学Ⅱ…………95点
数学B…………94点
現代文A…………90点
コミュニケーション英語…………89点
英語表現…………87点
物理基礎…………98点
生物基礎…………90点
化学…………96点
「…………さすが」
「わ、千鳥ちゃん?」
京子は千鳥の顔を振り仰いだ。
「すごいなー、それ。京子の頭の中どうなってんの?」
「あはは、ありがとう。まあまあ頑張ったかいがあったよー。千鳥ちゃんだって、まんべんなくできてるじゃん。私、副教科の方はあんまりよくないと思うよ。保体とか、家庭科とか」
「いやいや、それでほとんど80後半取ってくるくせに」
「そりゃ、沢山勉強したもん。でも千鳥ちゃんこそ、前日何時間かやっただけで、暗記問題はほとんど正解できるでしょ? それもすごいよ」
「90点星人に言われると嫌味ですよーだ」
「やめてよー」
そこに、髪を短く刈り込んだ、大柄で精悍な顔つきのクラスの男子、芦田敬がやって来た。彼は千鳥の幼馴染だった。
「おっすお二方。どーだったよ、オレは三つも平均超えたぜ」
芦田は千鳥の自宅のすぐ向かいに住んでいて、千鳥は彼と小学校の頃からの付き合いだった。
「平均プラス2点とかでしょ? そんなん誤差だって」
「うるせーな。部活練で忙しかったんだ。お前はどうだったのよ」
「ん」
答案を差し出す。
「おおー、や、やるなおぬし」
「そじゃろ」
「志賀さんは?」
「ええと…………」
二人の視線を受け止めて、京子は照れながら、控えめに答案を芦田に見せた。
「…………すっげー! やっぱ志賀さん頭いいんだ!」
「そ、そんなことないよ…………」
小さく肩を縮こませ、頬を紅潮させながら、京子は顔を伏せて、彼女のかけている眼鏡のつるをいじる。これは最近新しく買ったものらしく、ミントグリーンが柔和な京子の顔によく似合っていた。それより前は、彼女はおよそ洒落ているとは言い難い、やぼったい厚底のものを掛けていたというのに。
芦田がしきりに京子を誉めそやし、京子は恥じらって逐一それを打ち消す。
「や、ホントにすごいって。俺なんて毎回赤点ギリギリでヒーヒー言ってるのに」
「でも、芦田君だって、部活あるんでしょ? この前大会でホームラン打ったって、千鳥ちゃんから聞いたよ。すごいよ」
「いやいや、あんなのまぐれですから。相手のピッチャーがへぼだっただけですから!」
芦田はおどけて、話の途中に出て来た、タコが投げたような力のない球を放ったというピッチャーの真似をした。
千鳥には、小さい頃からの付き合いがあるこの男の、京子に対する、微妙に力の抜けきらない不器用なおどけ方と、どこか緊張がうかがえるひきつった笑い方に、愉快ならぬものを感じた。
「敬、あんたバカみたいだよ」
「何だよ、そんな言い方ないだろ。ホントにこんな感じなんだったって!」
「京子、引いてるんですけど」
「え、うそっ」
「あ、ちゃんと面白いよ? なんか、タコっぽさが伝わるって言うか…………」
「ほら!」
「それはこの子が優しいだけですー」
千鳥は口を尖らせる。
「もしかして、点数志賀さんに負けてんの悔しかったりしてな」
仕返しの意味も込めた芦田の何気ない一言は、頬杖をついて明後日の方向を見ていた千鳥の逆鱗に触れたようだった。彼女は声を上げた。
「は!? そんなんじゃないし!」
千鳥はすぐ我に返り、思わぬほど大きな声を出した自分に驚きつつ、なるべく平素の調子を装って、今
度は淡々とした声で続けた。
「私は試験ギリギリまでサボって、なるべく少ない労力で高得点を取るのが自分のやり方なの。そりゃあ
んま褒められたやり方じゃないけど、その分京子みたいな正攻法で挑む人とは一歩及ばないってところで、ペナルティは引き受けてるから、これでいいんですー」
その口調は、どこか自分自身を説得させているようだった。
「とか言いつつ、内心では、『これだけしか勉強してないのに、他よりはいい点数とれる私ってすげー』みたいなこと思ってそう」
「はぁ!?」
不意を突くような芦田の発言に、千鳥は率直に怒りをあらわにした。
「け、喧嘩はやめよ…………?」
「あー、大丈夫大丈夫、志賀さん。オレら昔からこんなんだったから」
苦笑いをしながら京子に釈明する芦田とは対照的に千鳥は憮然とした顔で頬杖をついていた。
「…………」
思い出してみれば、京子が例のミントグリーンの眼鏡をかけ始めたのも、芦田と彼女の接点が出来始めた頃からのような気がした。高校一年生の最後にあった、親睦を深めるためのバーベキューで、一緒の班になった時からだ。
そのことに思い至った彼女は、うっかりすれば友人の京子にもその矛先が向けられそうになる自分の感情に気が付き、
(今京子は関係ないじゃん)
と自分を説き伏せて、それを打ち消した。
部活動の開始が近いことを告げるチャイムが鳴った。
「あ、オレそろそろ部活行くわ。じゃーな、志賀さん、千鳥」
「じゃあねー」
「股間に剛速球当たれバーカ」
京子は小さく手を振って、千鳥は中指を突き立てて、芦田の屈強な背中を見送った。
「…………さて、私たちも帰ろっか」
千鳥は机の横にかけてあったリュックサックを背負い、京子の方を振り返る。しかし、京子はまだ荷物
を纏めていなかった。
「えと、千鳥ちゃん、あのね…………」
「ん、どったの?」
「今日美術部の子から、体験入部してみないかって言われてるの。せっかくのお誘いだから断れなくて、それで、えっと…………」
京子は言葉を探しているようだったが、気弱な彼女はそれを見つけられないようだった。京子はなんとなく事の次第を察した
「ああ、そういうことね。別にいいよ、一日ぐらい一緒に帰れなくったって」
「ごめんね…………」
「いいってば。むしろ、いよいよあの京子が部活やるとか聞いて、千鳥ちゃん結構嬉しいぞ」
「えへへ、ほんとにね。自分でも信じられないよ」
京子は、千鳥と出会う前の、去年の自分の姿を思い出しているようだった。あの頃の彼女ははまだ野暮ったい瓶底の眼鏡をかけていて、警戒するような目つきがこちらを睨みつけていた。
「二年生の新入部員って、変かな?」
「んー、大丈夫じゃない。ほかの部活でもちょいちょい聞くよ」
「そっか」
「あたしもなんか部活入ろうかなー。帰宅部って、楽だけど体裁悪いしー」
「そうかな。無理して入ることもないんじゃない?」
「うー、まあ正直面倒くさい。あっ、今から部活入ろうかって人に、こんなこと言っちゃ駄目か」
「あはは」
「でも京子が部活やり始めたら、私ぼっちで帰ることになるんだよね。うーん、それもちょっとなー」
「ごめんね、私が…………」
「あ、コラッ。そういうの気にしなくていいって言ってるじゃん。京子はいろいろ気をつかいすぎだよ。もっとわがまま言っていいんだよ?」
チャイムが鳴った。
「じゃあ行ってくるね。千鳥ちゃんにも、また部活での話してあげるから」
「はーい、楽しみにしてまーす。んじゃ私は帰るよ」
「うん、また明日」
「バァーイ」
千鳥はポケットから片方だけ手を出して、ひらひらと後ろ手で振った。
【夕方:千鳥の自宅】
地下鉄を経由し、大きな川に沿って住宅街を一人で歩く。彼女の家は曲がる坂道を登り切ったところにあった。
千鳥は大きな門扉を押し、広大な庭を突っ切って家に入った。横幅の広い車庫には二台分のスペースがあったが、一台は使われていて、白色のフェアレディだけが残されていた。
もっとも、彼女の両親はそれを購入してから、両手の指で数えるほどにしか乗っていなかったが。
本人たちは、千鳥が免許を取った時のために買ったのだと言うが、彼女からしてみれば、未熟な運転技術で高価な車を乗り回すのも、友人たちに車種を見せびらかすのも、ほとんど歓迎できたことではなかった。
鞄から鍵を取り出して、豪奢な装飾が施されたドアノブに手をかける。
「ただいまー」
室内の虚空にこだまする彼女の呼びかけに答える声はなく、また出迎える者もいなかったが、しかし千鳥は特にそれを気にする様子はなかった。
広いリビングには明かりはつかず、うす暗闇が至る所にはびこっていた。窓から差し込む明かりだけが、やけに光の影の領域のコントラストを際立たせた。部屋の床には、薄く誇りが積もっていた。
両親も千鳥も滅多にこのリビングを使うことはなかった。千鳥の夕飯というのは、大抵がインターネットで注文を受け付けてから配送される、健康志向の総菜宅配サービスだったからだ。
栄養バランスやカロリーなど、様々な項目で健康に配慮されたそのサービスは、決して安いものではなかったが、しかし彼女は、当たり前のものとして毎日それを食べていた。
彼女の両親は二人とも研究職だった。二人のうちどちらも、日のあるうちから家に帰ってくるのはまれだったのだ。それは夏も冬も違いはなかった。
電球を灯さないまま、暗いキッチンで水道から直接水を注いで飲み干す。冷蔵庫の中には果汁100パーセントのオレンジジュースも備え付けてあったものの。彼女はそれを飲む気にはならなかった。千鳥の口元を一滴の水が伝ったが。彼女がそれを拭うことはなかった。
空調が効きづらく、年中背筋に寒さを感じる吹き抜けの階段を上がり、長い廊下を抜けて、彼女は自分の部屋にたどり着いた。荷物を部屋の隅に放り出し、体をベッドの上に仰向けに投げ出す。LEDライトの照明を見上げながら、千鳥はしばしの間呆然としていた。
静けさの満ちる家の中では、物音は何もしなかった。隣の家との間は、庭が隔てていたので、近隣の住人の生活音が聞こえることはなかった。静寂の城の中の一室で、千鳥は瞬き一つさえしなかった。口を半開きにしたまま息を止めていると、白色の光のせいで、彼女の顔は半ば死人じみて見えた。
千鳥はポケットから携帯を取り出し、ゲームをし始めた。試験間近ということもあって自制していたのだが、今日ばかりは話が別だった。
しばらくアプリで遊んでいた千鳥だが、やがてもそりと体を起こすと、携帯をベッドに放り、解答用紙を鞄から取り出し、机に向ってテストの復習を始めた。
(数学と科学に関しては、一週間どころか、かなり前からやり始めたんだけどなー…………)
彼女は、自分の中にわだかまる感情に、なるべく気づくまいとした。それは劣等感や敗北感という言葉で表せると知っていながら、千鳥はなるべくその二つの単語を思い浮かべないようにしていた。
不意に彼女の嗅覚は、部屋のどこかから漂い来る腐卵臭を捉えた。出所を探ろうと、鼻を引く突かせながらあたりを見渡す。部屋にこのような異臭を放つものを置いた覚えはなかった。