チャプター1‐1
チャプター1‐1
【朝:半月高校の教室】
街の中心部から伸びる地下鉄に乗って、その駅の階段を上がったすぐ隣に、私立半月高校は建っていた。赤いレンガ造りの三階の一番端にある、窓のすぐ向こうに飛影山を望む教室は、朝のホームルームの賑わいで満ちていた。
そんな喧騒をよそに、窓際の席に座る男子が真剣な顔で確認しているのは、今夜の天気予報と日没時間、加えて、ここ一週間の、不審人物の目撃情報を取り扱ったニュースだった。彼は、ピエロ姿の怪人が目撃された場所と、その推移に注視していた。
(今月に入って三体目。やっぱり、飛影山に向かってちびちび移動してやがる。日中はどこかに潜伏して、夜になってから新しいねぐらを探しつつ移動するのを繰り返してるんだ)
薄気味の悪い格好をした不審者の噂は、最初の一つが出現すると、せきを切ったかのようにして、急速に同様の証言があふれ始めた。もっとも古い報告にしても、ここ一週間前に近所の交番に寄せられたものであったが、しかしこの広まり方や、それでいて容疑者本人がまったく警察に捕捉される気配が見えないという事態は、どこか尋常ならざるものがあった。
槇原張男というのが、その生徒の名前だった。
(そして今日、その進路上にこの学校が…………)
彼が身震いをしたとき、教室に入って来た担任の教師が、クラスに向けて呼びかけた。
「よーし、今日はな、前々から予告していた通り、転入生がやって来た。みんな仲良くするようになー。入れー」
ざわめきの中、教師の声に従って教室の前の扉を開けて現れたのは、小柄で、半ば少年とも見間違うような童顔の男子だった。彼の黒々とした大きな瞳が、まっすぐに教室全体を見据えてた。それはどこか吸い込まれそうになる魅力を持った目だった。扉を閉めてから教壇に立つと、彼はチョークを使って、黒板に美しい字を書いた。
『関進』
それが彼の名だった。
教室中で囁き声が交わされた。
「わ、なかなかイケてる」
「背ぇちっさ」
「字滅茶苦茶綺麗だな」
「ホントに高校生? 中坊だろ」
「変な名前」
「かわいー」
「同い年って絶対嘘じゃん。150あるかないかだろ」
「どこからきたんだろ。南高?」
誰もかれもが、この新しく現れた男子への興味を露わにしていた。中学生とも見間違うような彼の容貌もそれを手伝ったのかもしれない。
一旦、皆がひとしきり喋り終えたのを確認すると、関は一つ息を大きく吸い込んだ。
「東京の西原高校から転校してきた、関進と申します。誕生日は6月17日。身長は150センチ、体重58キロ。好きな曲は『イパネマの娘』、趣味は読書、尊敬する偉人は『三国志』の趙雲、『刺客列伝』の荊軻です。これから一年、短い間ですが、なにとぞよろしくお願いいたします」
変声前の幼い調子で一息に自身の紹介を果たし終えると、関はホームルームに向かって深々と頭を下げた。少年らしさが色濃く残る、高い声だった。パラパラと、まばらな拍手が上がった。しかしその続きに
は、仰天させられないものは誰一人としていなかった。
「ちなみに、色々あって一年留年してます。皆さんよりは一つお兄さんですが、どうか分け隔てなく接していただけたら幸いです」
「…………えええぇぇーーっ!?」
【午前:半月高校の教室】
「ところで海の生き物が聞くと、決まって風邪をひくバンドがあるんだが、なにか分かるか?」
四時間目の古典の授業で、黒板に板書を書いていた国語教員の園田は振り返って、生徒たちの顔を見た。
「正解は、サカナクション。アハハ…………」
「…………」
生徒たちは何も言わなかった。ただ黙々とノートを書くのを続けただけだった。
「ほら、魚が、へっくしょん、で魚くしょん…………なんだけど…………うん」
(先生、意味を説明しろってことじゃないです)
言いようもない沈黙が教室に満ちた。
静かながらもえらいことになってしまった空気をどうにかすることは、園田には出来そうもなかった。取り繕うように彼は問題を生徒に答えるよう言いつける。彼は指名する生徒を決めるのに日付を使った。
「今日は四月八日だから…………4番、上田」
「先生、あたし一時間目でおんなじこと言われたー」
「んじゃ8番、岡田」
「二時間目で当てられました」
「四と八で12番、中島」
「三時間目で当てられました」
「8引く4で4番、上田」
「先生、喧嘩売ってるんですか」
「…………じゃ、シワサンジュウニ、で三十二番」
「先生、うちは三十一人しかいません」
「あー、じゃあ…………いや待てよ。たしか今日から新しい子がいるんだっけ」
三十二番目の生徒というのは、今日付けで新しくクラスに加わった小柄な男子のことだった。彼は閻魔帳を開いて名前を確認する。
「えーと、関君…………でいいんだっけ。ここの訳お願い」
名指しされた関は、しばらく示された文章を眺めていたが、長くかかった後ようやく口を開く。朝から教室の関心を引いていた彼の、初めて授業で口をきく場面だった。
「すいません、わかりません」
彼の答えに教室は色めき立った。教師が眉をひそめる。
「これ結構基本だぞ。っていうか、一回受けてるだろ、授業。東京じゃ進み方違ったの?」
「いえ、僕の学がないせいです。すいません」
「…………そうか」
園田も彼には思うところがあったらしく、一年留年しても基礎が理解できていない彼を、これからどう扱ったものか、咄嗟に考えあぐねているようだった。
代わりの生徒がやすやすと答える中で、好奇憐み軽蔑その他いろいろの視線が小柄な転校生に注がれたが、彼はどこ吹く風で至って真面目に板書を取っていた。
そんな関を、槇原は黙って見つめていた。
【正午:教室】
昼休みがやって来た。
「…………見えねー」
「あれで実年齢は高三とか」
「パッと見真面目クンじゃない?」
「いや、そういう奴に限ってさ、中身が結構クズってままあることじゃん」
「やっぱ非行…………?」
「スリザリンな人材だな」
「スリザリンは嫌だ!」
「うちの学年て五クラスじゃん。余った一つは何だよ」
「アズカバン」
教室の隅で何人かが関の方を見ながら、遠くから声を潜めて彼のことを噂していた。いかにも人畜無害で品行方正といった印象のこの小柄な男子が、一体どんな本性を隠し持っているのか、誰もがほとんどと言っていいほど測りかねていた。
関は教科書を鞄にしまい、抑えた声音で話し合う同級生の側を過ぎて昼食を買いに出た。
【正午:購買部】
購買部に着いた関は、何とも言えない顔をした。
購買部には長蛇の列が出来ていた。高校のすぐ隣に併設されている、半月中学校の生徒達もまたこの売店を使うので、どんなに大量の昼食を入荷しても、成長期の子供たちの食欲はたちどころにそれらを消費していった。彼が列に並んでしばらく経ったその頃には、人気のない、そっけのない味付けのパンがいくつかまばらに並んでいるだけだったし、それも彼の目の前でほとんど売り切れてしまった。
関は最後に一つ残ったコロネに手を伸ばした。しかし彼がただ生地を丸めただけのパンを取ろうとした時、後ろから
「ぐうぅうぅぅ~」
という、腹の鳴る音が大きく聞こえた。
振り返ると、一年生の女子が顔を真っ赤にして腹を抑えていた。彼女は恥ずかしさのあまりすぐさま顔を伏せてしまった。
関はそんな彼女の様子を見て、束の間鼻の頭を天井に向けていたが、すぐにコロネではなく、隣にあったシャープペンシルの芯を手に取って、さっさと会計を済ませてしまった。
背後から彼女たちの交わす声が聞こえて来た。
「うう、中学生にご飯譲ってもらっちゃった…………」
「ちょっと、年上なんだからしっかりしなよ。カッコ悪いぞ」
「ごめんねー、後輩君」
関は何も言わず、その場を後にした。十八歳は小さなことでは怒らないのだ。もうエロ本だって変えるし、免許もとれる。お腹が空いていても、しかもあんなことを言われても、決して気を荒立てたりはしないのだ…………でも、ちょっと悲しい気持ちにぐらいはなるのだ。
【正午:教室】
教室に戻った関はぽつねんと椅子に座った。所在なく携帯を取り出してぼんやりと眺めるが、画面に映る内容はほとんど頭に入ってこなかった。先ほどの女子と同じように彼の腹も大きな音でなって、関は一人赤面した。友達のいない人間にとって、昼休みは辛い時間だった。
そんな折、机の前に誰かが立ったかと思うと、二つばかりのおにぎりが投げ出された。
「…………?」
関の目の前にいたのは、槇原張男だった。
「なかったんだろ、飯。やるよ」
槇原はぶっきらぼうな態度で言うと、それきり視線を合わせようとしなかった。
「ありがとう…………でも、君の昼飯だろ? あー、名前は…………」
「槇原な。槇原張男。貸しにしておくから、二百四十円、後でちゃんと払えよ」
「本当にすまない」
「さっさと食え。じゃ、俺委員会あるから」
それだけ言うと、槇原はさっさとその場を離れていってしまった。手渡されたおにぎりを感慨深くしげしげと眺めてから、関はそれらを包装しているビニールを、丁寧に剥き始めた。
具材はツナマヨと梅だった。
(いいヤツって、どこにでもいるんだな…………)
海苔に歯を立てて、関はそんなことを思った。白米と昆布の組み合わせが味わい深かった。
窓の外は、春の光が、広い人工芝のグラウンドの上にまんべんなく降り注いでいた。どこからか小鳥のさえずりが聞こえ、日は高く、心地の良い陽気が満ちていた。
【夕方:教室】
放課後、関は窓側の席の槇原のもとに、改めてお礼を言いに行った。
「お昼、ありがとう。助かったよ」
「ん、ああ。いいってことよ」
関は百円硬貨を二枚と十円硬貨を四枚渡し、槇原もそれを受け取る。
「この後はどーすんの。俺はこのまま部活行くけど。お前部活決めた?」
そう言って彼は足元のキャスター付きの大きなケースを立てた。彼はアーチェリー部に所属していて、その中身は彼の部活で常用する弓と矢のセットだという。
「部活…………決めてないな。ボクシング部とかある?」
「ない」
「残念…………」
(あったとしても、その体じゃいくら何でもライトすぎるんじゃねーの)
心中冷ややかな目で、関の女子中学生のような体を眺めながら、槇原は適当に相槌を打った。
「じゃあ、今日はほんとにありがとう。お礼はどこかで…………」
「別に良いってば。じゃな」
そう言って二人は別れた。この時、関は愛用の腕時計を机の上に置いてきてしまった。
校舎を出て歩く関は、昼間おにぎりをくれた、無愛想な同級生のことを想った。
(槇原張男か。無愛想だけどいいヤツだったな。名前を覚えておこう)
これは関には知る由もないことだが、槇原が自分の弓を入れているというその長方形の黒いケースについて、それは同じアーチェリー部員が手に持ったならば、明らかに重量過多だと言って中身を訝しむに違いない、異様な重量のものだった。
関の机の上では、彼が忘れてきてしまった腕時計が、遠ざかりつつある持ち主に何かを警告するかのように、夕暮れの色を帯び始めて来た陽光を文字盤に集めて反射していた。