チャプター1‐0
ホラー映画好きな人とかだったら、より楽しめると思います。
オール・アロング・ザ・ウォッチ・タワー
チャプター1‐0
【早朝:中央駅ゼロ番線ホーム】
「…………うるさいなぁ。いいからつべこべ言わずに面倒見てよ。どうせ年金暮らしで、お母さんヒマでしょ? 少しは娘のこと手伝って欲しいんだけど」
四月五日の朝は肌寒かった。幼い鳥子は片方の手にぬいぐるみを抱え、背中にはこれから先の一週間分の着替えや歯ブラシ、勉強道具などが入ったカバンを背負っていた。
鳥子は幼い強烈な好奇心をもって、列車のクランクを無言でじっと観察していた。時々穏やかな風が、思い出したかのように彼女の髪をわずかに揺らした。
母親は階段の裏の、人の目があまりないところで、田舎にいる鳥子の祖母と電話越しに会話をしていた。彼女は今からしばらく娘を預ける予定だった。母親は仕事柄、子供を祖母に託して、遠い出張に出ることが珍しくなかった。
「うん、じゃ、頼むわ。うん、うん、三日後迎えに行くから。言うこと聞かなかったらひっぱたいていいからね。ウチでも時々…………え、なに。なんか変? …………自分も昔、よくあたしにしてたじゃん。叩いたり、蹴ったり、今更どの口が言ってんの…………いや、こっちも仕事あるから無理。じゃあね、うん。ああ、あと、今度お金送って。足りなくて…………あーもう、うっせぇなぁ。あの話ばらしてもいいの? すぐ警察に連絡できるんだからね。つべこべ言わずに送れよ」
幸か不幸か、電話越しの会話は鳥子の耳に入ることはなかった。
突然朝の静謐な空気の中、一陣の突風が吹き込んだ。急に強まった風の勢いは、彼女の被る広い麦わら帽を宙に浮かせるのには十分だった。
「あっ」
後ろからひっくり返るようにして頭から離れてゆく帽子に手を伸ばしたが、それはすぐに、鳥子の腕の長さよりももう少し遠い場所にあった。
「だめ…………!」
とっさに一歩を踏み出しても、帽子はつばに風を受けて彼女のもとから離れて行く。追い打ちをかけたもう一波によって、麦わらで出来た鳥子の宝物が一層高く舞い上がった。
その僅かな時間の中で、鳥子の心には既に、自分が母親に駅員を呼んでもらい、マジックアームで線路に落ちたそれを取ってもらう未来が浮かんでいた。
繊細かつ臆病な気質の鳥子には、最近虫の居所が悪い母親にそのことを告げ、手を煩わせるというのは、勇気の要ることだった。駅員は馴れたものだと冷静に対応してくれるかもしれないが、ヒステリーを持つ母親に関してはその限りではないかもしれない。
鳥子の眉が悲しそうに下がったその時、すぐそばの階段を駆け下りて来る足音がして、何者かがホームから線路に向かって飛び出した。
不意にあられたその人影を、早朝の逆光の中、とても小柄な青年だと鳥子は見定めた。スローモーションの鳥子の視界の中で、その青年は跳躍力を発揮して、既に空高く舞い上がったその帽子をいとも簡単にキャッチして見せた。その様に、鳥子は思わず息を止めた。
鳥子が我に返ると、宙空を舞った青年は、いつの間にか彼女の目の前にいた。彼は膝を屈して彼女と目線の高さを合わせると(もっとも、その必要はあまりなかった。それぐらいに彼は身長が低かった)、今しがた取って来たばかりの物を差し出した。
「あ、えと、あの…………」
鳥子は戸惑っていたが、すぐに、祖母から教わった、こういう時はまず何と言うべきかを思い出した。
「あ、ありがとう、ござい…………ます」
鳥子が上目遣いに青年の顔色を覗くと、今まで仏頂面だった彼はふっと笑顔になって、優しい動作で帽子を彼女に被せてやった。帽子を頭の上に載せられ、咄嗟に目をつぶった鳥子がまぶたを開くと、青年はすでに立ち上がって歩き出していた。
彼は階段を下りて地下構内にゆくようだった。通話を終えた母親に促されながら鳥子は、彼と入れ違いにホームに滑り込んできた列車に乗り込んだ。彼女は顧みて、電車の入り口から顔を出した。朝の日の光の中、鳥子は麦わら帽のつばを両手で押さえながら、不思議そうな顔で、遠ざかる彼の小さな背中を見送っていた。