お隣さんと無関心
「さて、と……やるか」
自室のベランダへ出ると、隣……藤代の部屋と自分の部屋を隔てる、防火壁を見つめた。
これを外してしまえば簡単に出入りできるだろうが、流石にこれを外すのは憚られる。
修繕費にどれだけ取られるか分かったものではないし、何より、部屋を隔てる壁をなくしてしまうのはいただけない。
「となると、こうするしかないんだよな……っと」
そう呟くと、ひらりとベランダの手すりへと登った。
ここからたった十数センチ歩くだけですぐに隣の部屋に辿り着く、簡単なものだ……と思っていたのだが。
ここはマンションの7階、流石に落ちれば命はないだろう。
下を見る勇気は悠人にはなかった。
「よい子のみんなは、絶対真似しちゃだめだぞ、ってな」
十数センチの綱渡りを無事終え、隣のベランダへと降り立つと、窓を確認する。
これで鍵が閉まっていればバカだよなぁ……と思ったものの、藤代の言う通り、確かに少しだけ、窓が開いていた。
そう言えば、と窓サッシのストッパーが付いている可能性を失念していた事に今更ながらに気付いたが後の祭り。
確認のためにそっと窓に手をかけたところ問題なく窓は開き、ふわり、と室内の香りが俺の元へ漂ってきた。
「よかった、ストッパーはつけていなかったか」
後は早々に玄関へと向かい、鍵を開けて終わりだ。
長居は無用と女の子らしい部屋の中を進み、玄関の扉を開けると、ギョッとした表情の藤代と目があった。
「え、どうやって……!?」
「どうやってって、ベランダ伝いに入ったに決まってるだろ?」
「またそんな、危ない事を……何階だと思ってるんですか、ここ!」
「7階だろ、言われなくてもわかってるよ……おい藤代、お前窓開けて出るならサッシにストッパー、つけておかないと危ないぞ?」
「話を逸らさないで下さい……!」
ああもう、面倒くさい。
「悪かったよ、でもこれで部屋に入れるだろ?」
「それは……そうですが……」
それを言われると弱いのだろう。
自分が鍵を落としたせいだ、という負い目もあり、見るからに藤代の勢いが萎んでいく。
かと言って、自分もこんな事で藤代に恩を売るつもりはない。
今回のことはただの気まぐれだ、と思ってもらわねばいけない。
それに、これをきっかけに近づこうとしてる……なんて思われても面倒だ。
こちらにそんな気一切ないにも関わらず、だ。
「あの、綾崎先輩、このお礼は……」
「いいよ別に、そんなの期待してやったわけじゃないし、俺こそ勝手にお前の部屋、入って悪かったな」
「いえ、それは別に……いいんですけど……」
「鍵、早めに取り替えた方がいいぞ、あと窓サッシの鍵もつけろよな」
「……わかりました、でもこのお礼、絶対しますから」
最後にそう言うとぺこり、と頭を下げ、部屋へと入っていく藤代を見送った。
「だから、いらないって言ってんのに」
それにしても、変な夜だった……まさか藤代と、あんなに会話する事になるとは。
これを月島に話したら、泣いて羨ましがりそうだ。
……誰にも言うつもりはないけど。
そう思いつつ、コンビニへと歩きだしたのだが、ふと、足元がやけに涼しいな、と思い視線を下げると、足元にはベランダのスリッパがあった。
「……しまった、ベランダスリッパのままじゃん、俺」
しまらんねぇ……。
*
あの夜から、早くも1週間が経った。
あの日の出来事がきっかけで藤代との秘密の関係が始まった、なんてことはもちろんなく。
あれ以前と変わらず、俺たちはあくまで顔見知り、他人という関係のままだった。
変わったと言えば、目が合えば向こうが軽く会釈をするようになったくらいだろうか。
この程度であれば、特に変化とも言わない、誰も気にしない程度だと言える。
「あー、彼女が欲しい……彼女が欲しいよ、綾崎!」
「彼女が欲しい彼女欲しいって、お前そればっかりな」
「だってさー、高校2年生だぜ、俺たち!」
「なんか関係あるのか、それ?」
級友の月島彼方がこうやって彼女が欲しい、と騒ぐのもいつも通りだ。
欲しいという割りに、そのための行動を一切起こさないのはなぜなのだろう?
よく、わからない。
と言うよりもこいつの場合……。
「お前はあの子がいるだろ、ほら、あの可愛い幼馴染の……」
「ああ? もしかして陽花の事言ってんのか?」
「あーそうそう、水城陽花ちゃんだ」
水城陽花ちゃん。
ポニーテールの物凄く似合う、全身からエネルギーが満ち溢れた……まるで太陽のような、そんな女の子だ。
そのエネルギーを陸上競技に注ぎ、なんと早くも今年のインターハイ出場確定か!? などと言われている、らしく、藤代とは違った意味で話題をかっさらっている。
しかも、どう見ても月島の事が好きで好きで仕方ないというのが透けて見えて……とっととくっつけばいいのに、と思っている男子は俺を含め、少なくない。
「陽花かー陽花はなぁ……なんていうの? 小さい頃から世話してきたから、なーんか妹って感じが抜けないっていうか」
「そんなこと言ってるうちに運動系のチャラい先輩に引っかかるんですねわかります」
「ははは! ないない! だって陽花だぞ陽花、あの陸上バカの!」
そうかなぁ。
水城は水城で、藤代とはまた違った魅力のある少女だ。
今のところは月島がいるので目立った動きはないが、今後月島次第で動く男子はいるんじゃないだろうか?
まぁ、強引な男がいれば、その次第ではないかもしれないが……。
そう考えたが、この2人には2人の事情があるんだろう。
きっとなるようになる、世の中そういう風にできているのだ。
「それに、俺は藤代さんみたいな清楚美少女がいいんだよ! ……って、どこ行くんだ、綾崎?」
「自販機」
「おー、いってらー、6時間目には間に合うように帰って来いよー」
「間に合えばな」
はいはい、と月島に返事を返すと、席を立った。
自販機で珈琲を買うと、その足で教室へは戻らず、屋上へと上がる。
それにしても、藤代……藤代三葉、か。
屋上出入口から死角になっているあたりに腰を下ろしながら思い出すのは、先日の夜。
自分の部屋の入口にしゃがみ込み、不安げに瞳を揺らし、どこか泣きそうな……そんな表情をしていた彼女の姿だった。
色々と言われる彼女も、まだ15歳の少女だ、不安になるのもうなずける。
とはいえ、藤代に関わることなんて、もうないだろう。
そう、思っていた。
「藤代さん、俺と付き合ってくれない?」
その場面に、遭遇するまでは。