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孤独なAlice

作者: 白雪真白

 ―紅茶を飲みましょう。―

 ―そうしましょう。―

 ―クッキーはいかが?―

 ―いただきますわ―

 ―今日はアリスとかくれんぼしましょ。―

 ―そうしましょう―


 人間とは誰しも平等ではない。その事実に気付いた時、人間は初めて「嫉妬」をする。人間は誰しも同じではない。その事実に気付いた時、人間は初めて「疎外感」を抱く。人間とは誰しも完璧ではない。その事実に気付いた時、人間は「落胆」する。それと同時に自分の中の欠点を排除しようとする。その行動によって、人間の中に、もう一つの自分が形成されてしまう。そのもう一人の自分が形をなし、本体の心の奥深くに宿る。その感情は“偽物”なのに、本体とは独立していて、“心”を持っている。偽物は所詮偽物。本物には永遠に成りうることはない。そして人間は二つの種類に分けることができる。神に愛された人と、そうでない人に。そして私は最初、前者だった。そう、最初は。私は五歳の時、神に嫌われたのだ。


“私は一体誰?”


「じゃあね、有栖」

「うん、またね」

 友達に別れを告げて帰路につく。日はもう沈み始めていて、辺りがだんだん暗くなっている。私は歩く足を速めて家に帰った。“柴田”と書かれた表札のある家の玄関の扉を開ける。築数十年経っており、扉を開く音に年季が入っている。私はなるべく元気な声で“ただいま”と言って家に入る。玄関で靴を脱いでそのまま私は洗面所に向かった。洗面所の戸を開けて洗濯機にシャツと下着を入れて風呂場に足を踏み入れた。風呂場の鏡が私を映した。其処には痩せこけた貧相な体に無数の傷跡が呪いのように染み付いた私が写っていた。そして私は鏡に映っている自分を見てこう言った。

「生きた屍みたい。気持ち悪いわ」

 そう言って左手で鏡に触れた。


「有栖、有栖は大きくなったら何になりたいのかい?」

そう父に聞かれた私は笑顔で答えた。

「お父さんのお嫁さんになる!」

 その回答を聞いた父は嬉しそうに私を抱き上げ高い高いをしてくれた。

「やっぱり有栖はパパの自慢の娘だよ」

 父は優しくて、私を本当に愛してくれた。

私が五歳になるまでは。


 鏡からさっと手を放してシャワーに手を伸ばした。

(いままで記憶の奥深くに封印していたのに今更なんで思い出すのよ…)

 もやもやした気持ちを洗い流すようにシャワーを浴びてお風呂から出た。髪の毛をタオルで拭きながら私は夕子さんのいる居間に行くと丁度夕子さんが夕飯をテーブルに並べている所だった。

「手伝うよ、夕子さん。」

 そう言ってお皿を並べ始めると台所から“ありがとねぇ”と夕子さんの声が聞こえた。

私が夕食の用意を手伝っていると二階から彩ちゃんが降りてきた。今の今まで眠っていたのか、髪には寝癖がついていた。寝癖を直そうと手を伸ばそうとするが止めて口で指摘した。

「彩ちゃん寝癖付いちゃってるよ」

私がそう言うと彩ちゃんは髪を触って「まぁこれから出かけないから大丈夫かなぁ」と眠たそうに眼を擦りながら席に着いた。夕食の用意が終って三人でいただきますをして食べ始めた。食事中はあまり会話はせず、ただ無言で口に物を運んだ。ふと煮物をつついていた彩ちゃんが口を開いた。

「お父さん、今日も遅いの?」

 そう彩ちゃんが口にすると夕子さんは少し困ったような顔をして答えた。

「今日は残業で会社に泊まるんですって。明日にはちゃんと帰ってくるから安心して。」

「本当に?」

 彩ちゃんは食べる手を止めて俯きながら夕子さんに聞く。すると夕子さんも食べる手を止めて彩ちゃんの頭を優しく撫でながら言った。

「私たちは何があっても彩ちゃんの前から居なくなったりしないわ。だから心配しなくても大丈夫よ」

 彩ちゃんは少しはにかんで頷いてご飯を食べるのを再開した。まだ彩ちゃんはこの家に来てから二年年近くしか経っていない。彩ちゃんは飛行機事故で両親を亡くした。その日海外から帰ってくる両親をずっと待ってた彩ちゃんは何もご飯を食べず丸一日両親を待っていた。寒い部屋の中で一人。それから彩ちゃんは一人を嫌い、夕子さんたちが近くに居ないと不安になってしまう様になっていた。

「大丈夫だよ彩ちゃん。私も一緒に隣に居るから」

(私は?私は貴方の隣に居るのに)

 どこからか少女の声が聞こえてきて驚いてあたりを見渡した。しかし私の周りには彩ちゃんと夕子さんしか居なかった。空耳だろうか。私の様子を見て彩ちゃんは首をかしげて

「何かあった?」

 と聞いてきた。その質問に私はなんでもないと答え、皿を片付けて自室に戻った。そしてベッドに倒れこんだ途端、私は強烈な睡魔に襲われゆっくりと眼を閉じた。


“私は一体何者なの?”


私は夢を見た。私自身の夢ではなく、ある誰かが成長してゆく夢だった。そこは見渡す限りの暗闇で、そこにいるのは私と、もう一人だけだった。最初は生まれたての赤子。その赤子は泣きもせず笑いもせずにただ、そこにいるのだった。

「なんなの…?これ…」

気味が悪い、そう思った私だが何故かその赤子に興味が湧いてしまった。とりあえず、その赤子を見守ることにした。次に見た時、赤子は少しばかり成長していた。三歳くらいの体になった赤子ならぬ“少女”はしきりに歩いていた。暗闇の中を一人でただひたすらと。暗闇がはれる場所はないか、と。たまに転んでしまって泣き出してしまうけど、また立ち上がり歩き始めた。その少女からは寂しさが満ち溢れていた。また時が流れ、今度は六歳くらいになった少女がいた。その少女はもう歩こうともせず、ただ一点に留まり続けていた。手にはウサギの人形があってそれをギュッと抱きしめていた。その時の少女からは憎悪が満ち溢れていた。そしてまた時が流れ、少女は九歳くらいに成長していた。相変わらず少女はウサギの人形を握りしめていたけど、私たちのいる世界に、ほかの人が居たのだ。少女は長い机を囲んで、他の少女とお茶会をしていたのだ。今までは二人しかいなかった空間に突如として出てきたほかの少女たちを不審に思い、よく目を凝らしてみると、その少女たちの腕や、首、手の甲などに細い細い糸がついていた。その少女たちは操り人形だったのだ。その糸は人形を持った少女につながっていた。少女は楽しそうにお茶を飲みながら話に花を咲かせていた。其の異様な空間を見ているとふいに少女がこっちを見て、私に言った。

「貴方は私。」

其の一言で目が覚めた。気が付くと時計の針は深夜の一時を回っており、私は一階に忍び足で降りて冷蔵庫から水を取り出した。それを少しばかり口に含むと玄関から音が聞こえた。今夜は全員帰っているのに一体誰が帰ってきたのだろうか。そう思った私は水を冷蔵庫に戻し、玄関に向かうと其処には仕事から帰ってきたお父さんが玄関で靴を脱いでいる所であった。私は内心泥棒などでなくて良かったと思いながらお父さんの元に近寄って声をかけた。

「今日は残業で会社に泊まるんじゃなかったんですか?」

私がそう言うとお父さんは少し笑みを浮かべて私に“彩とお前が少しばかり心配でな。思いのほか残りの仕事も早く終ってな、娘たちの寝顔を見に帰ってきたんだ。”と言った。

そう言ってお父さんは私の頭を撫でてくれたが、私はお父さんの撫でる手をゆっくり止めて降ろした。

「私はもう子供じゃないから…。」

すこしはにかみながら言うとお父さんは少し申し訳なさそうにして“すまんすまん、ついな。子供はやはり成長が早いな、有栖がうちに来たときのことなんか昨日のことの様に思い出せる。”お父さんは何時もそんな事を良いながら笑うのだ。少し日焼けしていて、沢山の皺のある顔で優しく笑ってくれる。そうやって笑ってくれると、少しだけ心が温かくなる気がした。冷たくなった心が。


「私は貴方。貴方は私」


朝、私は必ずする事がある。それは自部屋の窓を開け、外の空気を吸う。そして棚からある一冊の絵本を取り出しておもむろに読み始める。この行動を私はこの家に来たときからずっと続けている。何故、絵本を読むのか。其れは私の心を落ち着かせるための一種の儀式のようなものなのだ。其れが無いと身が入らないと言うか、なんと言うか、とにかく落ち着かないのである。私は十分という時間を掛け、最後の一ページを読み終えた。其の瞬間窓から強い風が吹き付ける。其の風によって絵本のページがめくられ、最初のページまで戻ってしまった。其処に書いてあった絵本の名前は「不思議の国のアリス」。

私の名前と同じ子の主人公が大好きなのだ。夢の中で冒険するこのアリスはとても生き生きしているように思うのだ。私には無いものを全て持っている、そんな感じがしてならない。


 遠くから少女の声がする、金属のこすれる音がする。眼を覚ました私の眼の中に入ってきたのは見たことの無い西洋風の庭だった。その庭の中心にある椅子に腰掛けて紅茶を飲んでいる少女が居た。彼女はこちらに気づくと紅茶が入ったティーカップを置いてその代わりにぬいぐるみを持って私の元に駆け寄ってきた。その少女は私を見上げるようにして見てふわりと笑ってこう言った。

「ようこそアリスの花園へ!」

 ほんの一瞬だったけど少女が見せた冷たい眼が私の心につっかえた。

 

 「アリスと一緒に遊びましょ!」

 その少女から出てきた言葉は遊びの誘いだった。いや、正確に言うと誘いではなかった。気が付いた時にはさっきまで居た庭ではなく、どこにでもありそうな町に居た。そして私の近くに居た少女は姿を消しておりその村には私しか居なかった。すると頭上から声が聞こえてきた。

『いまからかくれんぼしましょ!隠れている私を見つけてね!』

 そう言って少女の声は消えていった。あの少女は一体何がしたいのだろうか、私をこんな辺境地に連れてきて。しかも一瞬でこの場所に移動した。そうなるとあの少女は魔女なのか、だとしたら何故私に接触してきたのだろうか、とそんな事を考えているとまた何処から少女の声が聞こえてきた。

『早く見つけないと、救えないよ?』

 たったその一言を私に告げてまた少女の声は消えてしまった。そして私の頭の中に今少女が言った言葉が繰り返されていた。救えない…、救えない…?一体どういう意味で少女は言ったのだろうか。そう考えていると遠くから子供の泣く声が聞こえてきた。私はその声を聞いて頭に昔の記憶が流れてきた。


 「有栖ちゃんかわいそうよね…。交通事故でお母さん亡くしちゃうなんて…」

 母を亡くしたあの日から私を見る周りの目が変わった。

〝可哀想な子〟

 皆私の事をそう呼んだ。毎日友達や友達のお母さんさんが気にかけてくれて話しかけてくれた。私はそんな毎日が楽しかったのだ、自分は皆から見てもらえていると、そう思っていた。でもそれから少しすると私の思考は変わった。周りからの心配する声に嫌気がさしてきた。私は自分で自分を“可哀想な子”などと思っていた。だから私はかつての自分をこう呼んだ。

〝救えない奴〟


 記憶が、私の中で暴れまわっている。幼き日に心の奥に鍵をつけて閉まった過去が、その鍵を壊して、少しずつ外に漏れ出してきてしまっている。私は過去の自分が大嫌いだった、だから過去を捨てた。過去の私を今の私と切り離した。過去の私は赤の他人で、今の私の体の中に住み着いているただの他人だと、そう自分に言い聞かせて暮らしてきた。

なのに、何で今更私の平穏な暮らしが過去の私によって邪魔されないといけないのか。

『貴方は私を見つけなきゃいけない。ほら、手遅れになる前に』

 その言葉に攻め立てられながら私は見知らぬ土地をただひたすら走った。この町の何処かで泣いている「過去の私」を探すために。


「もしもしママ、今からおうち帰ってくるの?」

 電話越しに聞こえる雑音は少し五月蝿かったけど、お母さんと話せるのならどうってことは無かった。

「今から飛行機に乗って日本に帰るから彩、良い子で待っててね。晩御飯は彩の大好きなシチューを作りましょ」

 お母さんの声は少し弾んでいて、私の声も自然と弾んでいった。

「私いい子にしてるね!お部屋飾り付けて待ってる!」

 まだ私の背が低くて、台に乗らないと受話器を取れないほど私は子供だった。受話器も大きくて両手で持って必死に話していた。

「さすがママの子ね、可愛いわ。あら、そろそろ飛行機の時間だわ、またね彩、愛しているわ」

 この電話が最後のお母さんとの会話だったことにまだ幼かった私は知る由も無かった。私は折り紙やぬいぐるみなどで部屋を飾り、昼間から絵本を読んで両親の帰りを今か今かと待っていた。なのに、両親は帰ってくるはずの六時になっても一向に帰ってこなかった。私は絵本を読むのを止め、ずっと玄関で待ち続けた。必ず帰ってくると信じて。

 しかし両親は帰ってこなかった。朝になるまで玄関で待っていた私はついに限界が来て意識を手放してしまった。次に私が眼を覚ましたのは明くる日の昼間だった。私は病院のベッドに横たわっていて、近くには夕子さんが私の手を握って寝ていた。ふとカーテンの開いている窓を見ると空は真っ赤に色づいていて、とても綺麗だった。暫く其の空を見上げていると看護士さんが入ってきた。私は夕日を見るのを止め、看護士さんのほうを振り向いた。振り向いた私を見て少し驚いてそれから悲しそうな顔をしてゆっくり私の方へ近づいてきた。そしてやさしく抱きしめて背中を撫でてくれた。

「一人でよく頑張ったね。つらかったよね」

 看護士さんはいったん離れて私の顔を見て手を頬に伸ばしてきた。其の手は私の瞳からいつの間にかに零れ落ちていた涙をぬぐってくれた。いくら幼くても薄々気付いていた。両親が帰ってこないことの意味を。

「パパぁ…ママぁ…!」

 何時までもならないインターフォンの音を独りで待ち続けたあの時の気持ち、お腹が減ったのを我慢してずっと待っていたあの日の事はもう一生忘れることは無いだろう。私の泣き声で起きた夕子さんは私を見るなり涙を流した。あの時の私の姿はとても痛々しくて、今にも壊れそうだったから。それから数日後、体調も安定してきた私は両親の葬式に出席した。皆黒い服を着て、女の人は首には真珠を着けていた。焼香をあげた人たちは私を見て、また瞳を濡らした。私は呆然と其処に座っているだけの人形のようだった。何故か分からないけど涙は出なかった。数日前に目が晴れ上がるくらい泣いたのに、今日は一滴も出なかった。大好きな両親が居なくなってしまった私は生きる糧を失ってしまった。これからどう生きていけば良いのか分からなかった。でも、これから生きていく中で独りになる事があれば不安に押しつぶされてしまうだろう。広い部屋に独りぼっちで取り残されたトラウマは私から両親を奪ってもなお、私から離れてなどくれなかった。

「彩ちゃん、私達と暮らさない?私と、お父さんと、娘と四人で」

 あの時、暗闇から救ってくれたのは夕子さんだった。太陽のような朗らかな笑顔で私の手をとって導いてくれた。

 それから私は夕子さんの家に養子として引き取られた。夕子さんのお父さんが運転している車に乗って本当の両親と暮らした家を後にした。そして夕子さんの家に着くと出迎えてくれたのは有栖ちゃんだった。彼女も夕子さんに養子として引き取られた子供だった。夕子さんは若いときから不妊治療をしていたが、一回も子を授かる事が出来なかった。そんな夕子さんは私の事を本当の娘のように可愛がってくれた。夕子さんは私に生きる楽しみを教えてくれた。独りが怖いと告げると一日中傍に居てくれた。私は夕子さんもお父さんも大好きだ。勿論有栖ちゃんも。でも…有栖ちゃんは私と距離を置いているような気がしてならない。此処からは立ち入り禁止というように自分の領域に線を引いているようにみえる。有栖ちゃんの過去を私はまだ知らなかった。有栖ちゃんが自分から話さないのもあるけど、夕子さんも触れないでいたからだ。

でも、家族になったからには全てとは行かなくても少しは打ち明けてほしい。そう思って思い切って夕子さん有栖ちゃんの過去のことを聞いた。すると夕子さんは困ったように笑いながら答えてくれた。

「有栖ちゃんはね、お母さんを彩ちゃんみたいに事故で亡くしたのよ。それから何ヶ月も経たないうちに有栖ちゃんの父親は有栖ちゃんに暴力を振るい始めたの。有栖ちゃんは黙って其れを受け続けてある日病院に運ばれたの。それからは意識不明の状態が一週間続いたわ。有栖ちゃんの父親は捕まってしまって身寄りが無くなってしまった有栖ちゃんを私が養子として迎え入れたの。其の時の有栖ちゃんは電池の切れたロボットのように何も言葉を発しなかったわ。それから少しずつ私達に心を開いてくれた。今は少しだけだけど、笑うようにもなってくれたわ。」

 私は其の話を聞いて内心すごく驚いていた。あんなにニコニコ笑っている有栖ちゃんにそんな事があったなんて思ってもいなかったからだ。有栖ちゃんはもしかしたら今も、何かに囚われ続けているのかもしれない。夕日を見るときの悲しそうな横顔や、時々見せる何かを諦めたような顔。有栖ちゃんはまだ開放されていないのかもしれない。〝幼い日〟から。


 毎日毎日増えていく痣を鏡越しで触れながら他人事のように呟いた。

「醜い」

 其の言葉は自分に向けて言ったものだ。口の中は何時も鉄の味がして、背中には煙草をこすり付けられた火傷跡が無数にある。体についている傷は全て自分の父親から受けた傷だった。いくら暴力を振るわれても私は父の元から離れる事は無かった。痛いと感じられるのは私が生きているから。其の痛みを感じながら幼い私はまた父の居るリビングに戻っていった。


 探せ、探せ。手遅れになる前に。自分と同じ道を辿らせないために。あの日の間違った考えを変えなきゃ。この町で泣いている子が過去の私のはずが無い。なのに、私と同じ様に現実に絶望して、何かを諦めたような生き方はしてほしくないから。泣き声がどんどん大きく聞こえてくる。次の曲がり角を曲がれば恐らく泣き声の持ち主が居るだろう。私は走る速度を速め、角を曲がった。そして其の少女は矢張り居た。神社の階段し座っていたのだ。でも、私と話したあの少女ではなかった。そしてあの子は恐らく幼い頃の〝彩〟だろう。服は全身黒で恐らく葬式か何かの帰りなのだろうか。〝彩〟の眼からは雫が流れていなかった。ただ泣くように叫んでいたのだった。〝彩〟の顔からは悲しみと孤独がにじみ出ていた。涙を出したいのに出ないのという事態に陥っているのだろう。階段に蹲って膝を抱える其の姿は過去の私のようだった。母を失ってとても悲しいのに涙が一切出なかった、あの時と同じなのだろう。

『いいの?助けなくて。あの子、救ってあげないの?』

 また何処かから少女の声が聞こえた。分かってる、分かっているのに、一歩が踏み出せない。あの子は今悲しみの海に沈んでいる。あの子を救いだせるのは同じ悲しみを味わった私だけだということも分かっていた。

『怖いんでしょ?違う?』

 あの子を救い出してしまったら、きっと過去の自分も救われてしまう。また過去の私と今の私が一つになってしまう。其れが私には怖くてたまらなかった。でも、それでも私は目の前で泣いている未来の妹を救わなきゃいけないと、そう思った。そして彼女に手を差し出そうとした瞬間景色がガラリと変わってもとの庭に戻ってきていた。私の目の前で泣いていた“彩”はあの町でまだ泣いているのに、何でいきなり場所が変わったの?

『残念だけど時間切れ!でも楽しかった!』

 ニコニコと笑う少女に私は無性に腹が立った。

「今すぐあの町に戻して、私は“彩”を助けないといけないの。私はお姉ちゃんだから。」

 そう言うといままで笑っていた少女の顔から笑顔が消えて俯いた。そして手に持っていた人形を持つ手に力が入るのが見て取れた。そして少女は低い声で言った。

『その“彩”って子は助けるのに、私の事は助けてくれないの?私は貴方なのに!私だってアリスなのに!』

顔を上げた少女“アリス”の頬には涙が流れていた。何故気づかなかったのだろう、アリスが持っていたぬいぐるみは昔私が母から誕生日のプレゼントでもらったものだったのに。

『ねぇ、アリスを怒ってよ…悪いことしたなら怒ってよ!』

 涙を流しながらそう口にするアリスを見て私は遠い昔に心の奥にしまった感情を思い出した。そうだ、私が一番恐れていたのは誰も私を見てくれなくなる事だったんだ。

『アリスはどうせ有栖のクローンでしかない!アリスは本当は存在しちゃいけないの!アリスは有栖が捨ててしまった感情を寄せ集めて出来た偽物だから…。アリスは誰にも見てもらえない、なのに…私と同じはずの“ありす”なのに何故貴方は幸せなの?ねぇなんで!?』

 私はアリスに何も言うことが出来なかった。

 『アリスを…アリスを忘れないでよ…』

 何故なら目を腫らして泣いているその姿は紛れもなく過去の私だったから。母を亡くして誰も私を見てくれなくなってしまったあの時、私は父に縋った。仕事で疲れている父に“有栖を見て”と、泣いて縋ったんだ。それから父は仕事のストレスを発散するために私に暴力を振るい始めた。それでも、それでも私は其れで良かった。父に忘れられるくらいなら。今、ここで泣いているアリスは正真正銘私だ。私の捨ててしまった幼き日の感情がこの子に宿っていた。私は思い出話をするかのように話し出した。

「あの日私は父からの暴力を歪んだ愛として受け取ってしまった。それが、私を変えてしまった。私は貴方を創り出してしまった。私の都合の悪い記憶は全て貴方に封印して、其の度に貴方の心の悲鳴が聞こえていたのに、私はその声を聞こえなかったように振舞っていた。でも、私が貴方を忘れてしまったら、私は幼い頃の惨めな自分をも見捨てることになる。たとえ貴方が私の負の塊で出来ていたとしても、それでも貴方は私だから。だから、私は貴方を忘れちゃいけない、自分の心にちゃんとケリをつけなくちゃ。」

 そう言うとアリスは涙を服のすそで拭き、静かに微笑んで私に告げた。

『行ってらっしゃい有栖。私は此処で待っているから。だから安心して行ってきて』

 気がつくと私はベッドで眼を覚ました。ゆっくり起き上がると私はパジャマ姿のまま階段を降りて夕子さんの居るリビングに行った。

夕子さんは朝ごはんを鼻歌を歌いながら作っていた。私は夕子さんに話しかけた。

「夕子さん、ちょっといいですか?」

 改まった私の口調を聞いた夕子さんは鍋の火を止め、リビングの椅子に座って反対側の椅子を軽く叩いた。私は黙って座るとおもむろに話し始めた。

「私を養子として迎え入れてくれて有難うございます。ちゃんとお礼を言ってなかったので今言いたいと思いました。私の過去を何も聞かずに暖かく迎え入れてくれて本当に有難うございました。其のおかげで私はこうやって心の底から笑う事が出来るようになりました。過去の私は誰かに見てもらえなくなることが恐怖で暴力を振るう父に縋りました。でもそんな馬鹿げた事をした幼い私を、今の私が許しませんでした。いつしか私は人と触れ合う事にも恐怖を覚え、夕子さんや彩ちゃんとも距離を置くようになりました。これ以上近づいてしまったら私が傷ついてしまうと勝手に線を引いて夕子さんたちを自分から遠ざけてしまいました。でも、ある子と出会って其れが間違いだと気づいたんです。幼い頃の馬鹿な過ちも、あの頃の気持ちも全部忘れちゃ駄目だったんです。だって其の全てが私だから。だからこれからは少しずつ距離を縮めていきたいんです。駄目…ですか?」

 長々とした感謝の言葉とこれからの事を話し終えて夕子さんのほうを見ると夕子さんは涙を流して優しく私を抱きしめてくれた。

「自分から話してくれて有難う。私とっても嬉しいわ、これから少しずつ本物の家族になって行きましょう、有栖。」

 そういわれた途端私の目尻からも熱いものが零れだした。やっと、私は一歩前に進む事ができた。私の中に居るもう一人の“アリス”のおかげで。私はギュッと夕子さんを抱きしめ返して言った。

「大好きだよ、お母さん」

 其の瞬間、記憶の中でお母さんが笑って様な気がした。其の笑顔はいつもと変わらない笑顔で私をそっと包み込んでくれた。

お母さんは私の頭を抱きしめながら撫でてくれた。

「この事は彩ちゃんにも話すのかい?」

 其の問いに私は黙って頷いた。そして少し微笑んで言う。

「彩も家族だから私の過去の事、ちゃんと知ってもらいたい」

 其の答えを聞いたお母さんは優しく微笑んで“言っておいで”と言ってくれた。私が二階へ上がる階段に向き直ると其処には彩が居た。少し照れながら彩は私に話しかけてきた。

「今、立ち聞きしちゃったから有栖ちゃんの過去も全部理解できた。私も独りが怖いから有栖ちゃんの言っている事、痛いほど良く分かる。だからこれからは姉妹として支え合って生きていきたいな。頼りたいときは遠慮せずに頼ってね、お姉ちゃん。」

 そう言って私の手をとってギュッと握ってくれた。其の瞬間忘れていた最後の記憶が頭の中に流れてきた。


 「ねぇ有栖。もし、お母さんが有栖とお父さんより早く居なくなってしまったら、有栖はお父さんの事を支えてくれる?」

 「うん!分かった約束する!」

 そういって私と母は指きりをした。


 私は、あの日母と約束した事を無意識に守っていたのかもしれない。父を近くで支える事が私と母が交わした約束だったのだ。

「お母さんにはやっぱり適わないな…」

そう言って今の家族に向けて満面の笑みを向けた。


 あれから夕食を皆で楽しく食べて、彩と一緒に風呂に入った。彩は私の体に付いた傷を見て“痛そう…”と言って傷跡をツンツンと触っていた。風呂を出て、自室に戻ると私は直ぐにベッドに入った。そう、アリスに会うために。

「ん…」

 眼を覚ますと其処には西洋風の庭が広がっていた。間違いない、アリスの花園だった。でも、前に此処に来たときと何かが違うと感じた。あたりを見渡してみると其の違和感の正体が分かった。

「庭全体が…だんだん朽ちていっている…。」

 そして其の違和感に気づいた瞬間頭の中に“不安”と言う二文字が浮かび上がった。もし、本当にこの花園自体が朽ちていっているのであれば、恐らくアリスにも何らかの影響が出ているのだろう。私は夢中で足を動かしてアリスを探した。私は直感的にある場所に向かって走った。そして其の場所に着くと矢張りアリスは居た。椅子に座って紅茶を飲んでいた。この場所は私とアリスが初めて顔を合わせた場所だった。アリスは私の方をゆっくりと向くと少し微笑んで手招きをした。私は其れに従うようにアリスの横に座った。飲んでいた紅茶を置いたアリスは私の方を見てとびきりの笑顔でこう言った。

『おかえり有栖』

私もアリスに負けない位の笑顔で答えた。

「ただいまアリス」

 アリスが其の返事を聞いた途端、周りの庭の朽ちるスピードが格段に上がった。アリスは悲しそうに庭を見つめながら言った。

「あーあ、もう楽しい時間は終っちゃうんだね。もう少しだけ、生きていたかったかなぁ…。もう私には時間が無いみたい」

 そう言ってアリスは私の頬に手を伸ばしたが其の手はむなしく空を切った。アリスの手もどんどん透けていって半透明になりつつある。自分の体が透明になっているのに顔には優しい笑みを浮かべ私を見ていた。

「有難う、アリスのこと忘れないで居てくれて。もうアリスの姿は有栖には見えなくなっちゃうけど、それでもアリスは有栖の胸の中にずっと居るから。だから最後は笑ってほしいかな」

 私は自分でも気づかないうちに涙を流していたらしい。アリスは私の涙を拭おうとするが矢張り私に触ることは無かった。それでもアリスは笑顔で私の事を見てくれる。ならば私も最後くらい願いを叶えてあげようと思った。涙を拭いて私はふわりと笑って見せた。其の笑顔を見たアリスは立ち上がった私に抱きつこうと手を広げる。決してもう触れる事は出来ないと知っているのに私も手を広げて真似をした。もうほとんどが消えてなくなってしまった世界で最後に、神様は私を愛してくれた。

 ゆっくりと眼を覚ました私は暫くベッドから起き上がらなかった。最後の最後に感じたアリスの重さをかみ締めるように。


  拝啓お父さんへ

 今、何をしていますか?

 楽しく生活を送れていますか?

 今日は一つだけ伝えたい事があって手紙を

書きました。

私はお父さんが大好きです。

 私は今とっても幸せに生きているのでお父さんも笑って生きてほしいんです。

 私を育ててくれて有難う。

   有栖より


 書き終えた手紙を封筒の中に入れ、押し花で作った栞を中に一緒に入れて、そっとポス

トに投函した。其の花の名は…

     〝鈴蘭〟

―鈴蘭の花言葉に気づくときまで―


読んでくださりありがとうございました。

此の小説は外部コンクールに応募したものに少し修正を加えたものです。

有栖と、アリス。

二人で一人。

アリスが存在できるのは有栖の中だけ。外に出ることも出来ないし、他の人に会う事もできない。自分が記憶の奥深くにしまってしまった感情から生まれてしまったアリス。

皆さんは、消してしまいたい過去はありますか?

もしその過去を消す事ができたなら、あなたは自分の中にアリスのような人格を宿らせてしまうかもしれないですね。自分の生きる意味などまったく分からないクローン人間が。

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